根来の四院――泉識坊・岩室坊・閼伽井坊・杉乃坊のこれら有力子院は、大きな経済力と軍事力を持っていた。こうした力のある子院は、まるで企業が子会社を作るように、系列の子院を増やしていく。例えば泉識坊系列の子院として、愛染院や福宝院などの名が挙げられる。両者は親分・子分の関係にあり、主従関係に近い形だった。
これに対して、地縁で繋がった共同体的な関係性がある。根来は山あいの谷間にあったが、峰々を刻む谷ごとに共同体が成立していた。京の町組のようなものである。生活のための水利や伐採権を共有しているので、これらの枯渇は子院の死活問題につながる。なので、谷ごとの共同体の横の繋がりは強いものだった。
1555年の「山分けの出入り」は、蓮華谷と菩提谷の水利や伐採権の争いが契機で争った戦いである。つまり各子院は「地縁で繋がる谷の一員」として、動員がかけられたのだ。この1555年の山分けの出入りで、福宝院の慶誓と大福院の大弐が一緒の陣営にいたのは、両子院が同じ蓮華谷にあったからなのだ。
1556年に行われた合戦は「跡式の出入り」である。これは泉識坊系と杉乃坊系の子院の戦いである。前年が、横の繋がりの地縁関係性を基にした戦いだとしたら、今回は「縦系列の主従関係」で繋がった戦いなのである。つまり福宝院は泉識坊系列、大福院は杉乃坊系列の子院だった、ということが分かるのだ。
だが、ここで問題がひとつ発生する。出入りにおいて、この横で繋がる地縁共同体と縦の主従関係性が、真っ向からぶつかった場合である。
上記の図を例にして見てみよう。例えばAの子院は1~3番の複数の谷に渡って系列の子院を従えている。1番谷と2番谷が「山分けの出入り」で揉めた場合、A-2とA-3が出合い頭に槍を交えてしまうこともあったはずだ。相手は同じ系列子院の仲間なのに。
こういう場合にどうしたかは、記録に残っていないので分からない。拙著では、気づいた場合には暗黙の了解として互いに槍を引く、ということにしてある。案外、この通りだったのではないだろうか。
「跡式の出入り」の場合は、逆パターンとなる。例えばB系列とC系列の子院が戦った場合、B―3とC―3のように、2番谷において近所付き合いで普段は親しくしている行人と、戦場で出会ってしまう場合もあっただろう。まさしく先の記事で紹介した、同じ蓮華谷に属する慶誓と大弐が、戦場で相対したパターンである。この場合、慶誓は矢で大弐を射てしまっている。可能性として考えられるのは3つあって、
①横の共同体的関係よりも、縦の主従関係の論理の方が強かった。
②谷といっても広いから、全員の顔は覚えていない。戦場でいちいち確認できず、知らずにやってしまい、後から判明した。
③勢いでやってしまった。
②か③の可能性が高いが、何となく③のような気がする。1年前は並んで隣で戦っていたわけだし、顔くらい見知っていただろう。何よりも慶誓こと佐武源左衛門は、そういうキャラのような気がする。そういう目線で「佐武伊賀守働書」を読んでみると、大弐を射たことは、他と比べると少し遠慮がちに書いている・・と読めなくもない?(続く)