根来戦記の世界

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河原者と天部について~その③ 「肉食は穢れ」の禁忌(タブー)は、どこから来たのか

 イザナギイザナミの黄泉平坂(よもつひらさか)の神話からも分かるように、神道における「死の穢れ」を強く忌む風習は、古くからあったものだ。古代日本においては「陵戸」という墓守を職とする人たちがいたが、律令制下においては彼らは賤民の一種とされていた。昔はこの「陵戸」こそが、中世につながる被差別民の原型である、という説が主流だったのだが、現在では概ね否定されているようだ。

 神道にはこの「死の穢れ」とは別に、「肉を食べること」への禁忌もあったから、延喜式においては「肉食」も穢れと規定されている。しかし、これは比較的新しい考え方であった。

 神道はとても古く、その起源はおそらく縄文時代の精霊信仰(アニミズム)にまで遡ることができる宗教である。古代人は当然のごとく肉食していたわけで、奈良期の日本では食用のための牧畜もしており、豚を飼っていたという記録すらあるのだ。そんなわけで、神道もまた肉食を是としていた。そんな原初的な神道の形態を窺い知れる祭事に、諏訪大社の「御頭祭(おんとうさい)」がある。

 江戸中期の本草学者に、菅江真澄という男がいた。興味の赴くまま日本中を旅し、多くの民俗資料を残した男であり、博物学者と言った方が相応しい人物である。そんな彼が著した本のひとつに「洲輪(すわ)の海」というものがある。1784年に信濃国諏訪大社における御頭祭を見学した際の記録だ。

 それによると、当時の御頭祭の内容はこのようなものであったことが分かる。以下は意訳である――「会場には鹿頭が七十五、まな板の上に並べられていた。(中略)正装した男が二人、獣の肉をまな板にのせて持って登場した。(中略)神に供えるための、大小の魚・大きな獣・鳥の類などが、ことごとく奉られ・・・」――このように何とも生々しい、神への捧げものの様子が記されている。そしてこれら神に奉じられた生の獣の肉は、祭事の後の饗宴で実際に食されたようなのである。

 

長野県・諏訪市「神長官守矢史料館」には、菅江真澄が記録に残した江戸期の「御頭祭」を再現した展示がある。ご覧の通り、鹿や猪の頭がズラリと並んでいる。他にも串刺しにされたウサギや生肉の和え物など、当時の捧げものの様子を見ることができる。初めて行った時には度肝を抜かれた。この史料館はとても小さいが、藤森照信氏がデザインした建物であり、外にある神社や古墳など見どころは沢山ある。素晴らしいので、是非行って見て欲しい。

 

「神長官守矢史料館」の概要については、こちらの記事がまとまって分かりやすい。「日本珍スポット百景」さんのブログ記事。

 

 江戸期になっても、このような古い形態を残す神事が各地に残っており、そこでは獣の肉を贄として神に捧げていたのである。神道の原初的な形は、このようなものであったのだ。

 なお御頭祭は現在も行われているが、昔とは異なる形になってしまっている。ただ諏訪大社では、元旦に蛙を贄として串刺しにする「蛙狩神事」が残っており、そうしたところに古い様式の名残を見ることができる。(なお日本神話には天津神系と国津神系の2種類の神があり、諏訪大社は後者の神を奉る神社である。これ以上踏み込むには、著者の有する知識では中途半端なのでやめておくが、諏訪大社は大変奥が深く、面白い神社であることだけは明言しておく。)

 本来、神道はこうした性格を持っていたにも関わらず、肉食が禁忌となったのはなぜかというと、ズバリ仏教の影響である。殺生と肉食を禁ずるのが仏教の主要テーマのひとつであったのだが、これは神道の持つ「死の穢れ」に対する禁忌と大変相性が良く、神仏習合によって違和感なく融合したのであった。つまり「触穢思想」は、神道と仏教の合作であるといえる。

 なので、この思想が導入された初期の頃には、大型獣の捕食のみならず漁業行為すら穢れたものとされていた。漁師の子であった日蓮は、自らを「旃陀羅(せんだら)が子」と自称していたのは有名な話である。「旃陀羅」とは、サンスクリット語の「チャンドラ」のことで、インドで漁業に関わっていた被差別民のことを指す。日蓮はまた「身は人身にして畜身なり」という言葉も残している。当時はこのように漁師ですら、広い意味で賤民の一種とみなされていたことが分かる。

 肉食に対する穢れの規定は、神社によって、また時代によっても移り変わりがあったようである。先の記事の中で紹介した「石清水八幡宮」のそれは、ヒステリックなまでに厳しいものであった。

 例えばこれは鎌倉期に規定されたルールなのだが、石清水八幡宮においては、肉食した者(甲)はなんと100日間もの間、参詣禁止である。その肉食した者(甲)の穢れがまだ払われていないうちに、共に合火(会食)したことがある者(乙)は、穢れが伝染したということで、30日間の参詣禁止となった。更にその者(乙)と合火した者(丙)は、3日間の参詣禁止であった。

 衆生を救うはずの仏教――いわゆる旧仏教といわれる天台宗真言宗なども、特に初期にはこうした穢れを忌避し、徹底して差別していた。僧侶は勿論のこと肉食禁止であり、高野山比叡山共に、屠殺・肉食する者は山に立ち入ってはならなかった。阿波国・勝端城下において、真言宗の堅久寺が、とある青屋(河原者のこと。これについては後述する)を檀家にしようとしたところ、城下にあった他の同宗の寺から絶交の申し入れをされ、やむなくこれを諦めた、という話が「三好記」に残っている。

 貴族化してしまったこうした旧仏教と違って、鎌倉期に勃興した新仏教――いわゆる鎌倉仏教は、本来の意味で衆生を救う性格が強かったから、こうした穢れに対する禁忌は殆どなかった。それ故に多くの信者を増やすことができたのである。その中で最も勢いがあったのが浄土真宗一向宗)であり、次点が日蓮宗法華宗)、そして3番目が時衆であった。(続く)