根来戦記の世界

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河原者と天部について~その② 宮中を震撼させた「穢れ」大騒動

 平安末期の1143年、9月23日。おりしも疫病が発生し、みやこのそこら中に行き倒れた死体が放置されていたときのことである。

 蔵人の高階業隆が、死体があった陽明門の前を通って宮中に参内した。死体を跨いだわけではなく、その近くを通っただけ(そもそも通らないと参内できない)なのだが、これが大問題となった。みかどの元に、「穢れ」を持ち込んだというのだ。

 こういう時の為に「明法家」という、穢れについて造詣の深い専門家がいる。摂政・藤原忠通は明法家の意見を求め、「穢れが内裏に及んだ可能性は低い」という回答を得た。だがこの答えに納得できなかった忠通は――どうも彼はことを大ごとにしたかったらしい――数人の公卿たちの意見を聞いたところ、「念のため、卜占を行ったほうが良いのでは」といった、如何にも保身じみた意見が出る。すったもんだした挙句、「問題はやはりなかろう」とのことで事なきを得たのだが、この結論が出るまで4日間もかかっている。一事が万事この調子で、しち面倒なことこの上ない。

 上記の例はまだいい方なのだ。もっと大きな事件に発展した例がある。1230年、1月19日。よりによって穢れに対する規定が最も厳しい、石清水八幡宮の宝前に「何かが落ちてきた」とのことで大騒ぎになっている。要するに、鳥が咥えていたものが祭壇の榊の上に落ちてきただけのことなのだが、それがなんと「白くはなっていたものの、髄の部分に血の気が残っていた」つまり動物の骨であったというのだ。

 宮中に激震が走った。清浄な空間であるはずの八幡宮に、「動物の骨」という穢れが持ち込まれた!これはとんでもない大事件だ!ただちにその骨と周辺の土を掘って捨てさせ、別の土を持ってきて入れ替えて、お祓いまで行っている。

 

一遍上人絵伝」より、石清水八幡宮の本殿。鎌倉後期に描かれた絵画なので、石清水八幡宮の最も古い様子を描いたものとなる。京の鬼門にあたる東北には比叡山があるが、石清水八幡宮は京から見ると裏鬼門にあたる南西に位置している。大変に格の高い神社で、伊勢神宮と並んで「二所宗廟」と称されていた。天皇家による行幸啓は、250余を数える。

 事はそれだけにとどまらない。これらの処置は、適切であったのだろうか?本当に穢はもたらされていないのだろうか?またも明法家の意見が求められた。「穢はもたらされていない」というのが、明法博士・中原章久の意見であった。だが大外記の中原師季の意見は違ったのである。過去にあった3つの先例を挙げて、「問題の骨が穢でなかったとしても、祭事を行わない方がいいのではないか」というのだ。(己の存在感を示さんとして、問題を大ごとにする人は昔からいるものだ――或いは政治的な思惑が裏にあったのかもしれない)

 公卿たちによる、役に立たない喧々諤々の議論の結果、またも「とりあえず、卜占による結果を見てみよう」ということになった(何のための議論なのか…時間の無駄である)。その結果は「やはり穢はもたらされていた」という、ショッキングなものだったのである。

 こうなると面倒である。そもそもなぜ、骨が落ちてきたのか?これは神が行った警告に違いない。天皇による政ごとが、うまくいっていない証拠ではないのか?大変だ!どうしよう?急いで神に謝罪しなければ、ということで、怒れる神に対し「奉幣使」を派遣することになった。第1回目が2月7日、第2回目が4月9日、石清水八幡宮に派遣されている。

 たかが鳥が咥えていた骨が落ちてきただけのことで、大量の時間とエネルギーを浪費している。しかも「政治の不徳」という事態の解決には、なんら寄与していない。神に謝罪しているだけである。

 馬鹿馬鹿しいことに、このような非生産的な概念に基づいて、大真面目に政ごとをやっていた時代があったのである。平安末期~鎌倉期にかけての、こうした触穢思想に基づいた社会通念には、呆れを通り越して何だかカルト的なものすら感じる。(続く)