根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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印地について~その⑤ 日本中世編(下)

 さて節句の向かい礫である。京には大小の祭りはたくさんあるが、時代が下るにつれ「祭礼飛礫」は正月と節句、この2つの祭りに集約していったようだ。

 拙著「京の印地打ち」では節句の向かい礫は、加茂川を挟んで行われていたように書いたが、実際にはみやこの辻々で行われていたようだ。刀や棒などの打ち物は勿論のこと、盾まで持ちだしていたようだ。

 下図は1841年に出版された「尾張名所図会」の中の、印地打ちの図だ。「印地打ちの古図」とあるので、古い時代の原図を写したものと思われる。印地打ちに参加している多くの者たちの腰には、刀が差されていることに注目。

 

差しているのは刀ではなくて菖蒲の葉、という説もあるが・・それにしては見物人たちの
腰が引けているように見える

 こうした状況下で、向かい礫が行われるとどうなるか。拙著では、印地打ちたちが刀を手に加茂川を徒歩渡りして、対岸に突撃する様子を描いたが、実際には川などの障害物はない場合が多かった。つまりは打ち物を手に、すぐに敵に突撃できたわけだ。作中とほぼ同じ時期の記録に、加茂の祭りの向かい礫で45人(!)が死んだ、という記録もある。礫で死ぬのではない。近接戦闘で死ぬのである。

 戦国時代に宣教師ビレラが本国に送った報告には、更に驚くべきことが書いてある。「節句の向かい礫では、まず礫を打ち合い、然る後に矢合わせと、鉄砲の放ち合いを行う。最後は槍と刀での戦いで終わる」といった旨の内容があるのだ。冒頭の「節句の向かい礫」という単語を「日本の合戦」に置き換えても、違和感がないほどの凄まじい内容だが、これはどこまで本当なのだろうか。

 いずれにせよ、神事と関連づけられて始まった印地だが、次第に寺社の手を離れ、印地の党や庶民たちによる祭礼時の遊びの色が強くなっていく。時と場合によっては、庶民の鬱屈が爆発し、大規模な殺し合いにまで発展することもあった、ということだろう。戦国時代末期に京に上がっていた大名が、節句の向かい礫を見学しに町に出た、という記録もある。戦国の大名にとっては、町中の喧嘩を野次馬するような感覚だったのだろう。(続く)

 

印地について~その④ 日本中世編(上)

 鎌倉期に入り、武士たちの時代が始まる。しかし西日本はまだ、概ね朝廷の支配下にあった。東の武士政権、西の王朝政権である。(「2つの王権」論に基づく。これに対する考え方に、「権門体制」論がある)

 朝廷のお膝元、京においては、寺社勢力による「強訴」は引き続き行われていた。そんな中「遊手浮食の輩」が神輿御行に供して飛礫を行った、という記録が見られるようになる。彼らは神人ではない。何をして食っているのかよく分からない、いわゆるゴロツキどもである。

 網野善彦氏によると、13世紀の京において職能民としての印地打ちが見られるようになる、という。これが、いわゆる「印地の党」である。昔ながらの神人たちによる印地打ちは減り、代わりに「印地の党」などを中心とした、民衆による習俗的な印地打ちの色が強まってくるのである。

 

投石紐を振り回す、印地打ち。「年中行事絵巻」より

 またこの時期からの印地の記録で特徴的なのが「祭礼飛礫」である。平安の頃から既に、祭りの際の飛礫はあったのだが、その数が多くなってくるのだ。鎌倉時代には「祭りの飛礫を、停止せしむべし」といった内容の記述があるし、また寺社上層部としても「禁止をきつく申し付ける」など申渡しをして、やめさせようとした形跡がある。しかし印地が既に神人たちの手から離れており、庶民的なものに移行していたとするならば、寺社がいくら言っても聞かなかったのではなかろうか。

 ちなみに鎌倉幕府が倒れ、南北朝の動乱が始まると、強訴の数は減っていく。ある意味、平和的な?ストの一種であった強訴だが、戦乱の世となるとそんなことをしている場合ではなかったのだろう。また人々の認識として、昔より神仏の権威が弱まってきたことも影響している。古代的な要素の1つであった、「祟り」に対する恐怖心が薄まってきているのだ。得体の知れないそんなものよりも、今そこにある現実的な暴力の方が遥かに恐ろしいというわけだ。(ただし室町幕府が成立し、足利義満治世の晩年になった頃より、強訴の数は復活する。1414年から1466年までの半世紀に起こった強訴の数は28回を数えており、幕府も大抵の要求は受け入れたようだ。これは祇園・北野の両社を傘下に置く叡山が、各種の祭礼を停止すると脅したことによる。つまり、祭りのボイコットである。これを求める民衆の声を、幕府も無視することは出来なかったのだ。)

 そんな新しい時代を象徴するのが、悪党どもの存在である。中沢厚氏著「つぶて」によると、この時代の様々な文書――「峯相記」「久下文書」「薩藩旧記」そして「太平記」に至るまで、悪党たちが戦術として礫を多用している様子が見られるという。「印地の党」たちも、悪党どもの一員として礫を打っていたかもしれない。

 応仁・文明の乱直後、みやこの治安は極端に悪化した。当時の記録である「後慈眼院殿御記」には「放火や強盗、或いは飛礫など数知れず」とある。人心が乱れ、庶民が礫を以って、鬱屈を晴らしている姿が見られる。(続く)

 

根来寺の行人たち~その⑧ 出入りの掟

 頻繁に起きていた境内での出入りだが、争いがエスカレートしないよう、守るべきルールがあったことが判明している。これを「根来寺之法度(はっと)」という。これまでに紹介した、慶誓が参加した2つの出入りを読んで気づいたことはないだろうか?そう、武器に鉄砲が使用されていないのである。

 鉄砲伝来が1542年。出入りがあった1555~56年には、既に根来の門前町である西坂本で鉄砲生産が始まっていた可能性が高い。にも関わらず、使用されていないのだ。

 どうも殺傷力が高い武器の使用は、禁止されていたようなのだ。確かに境内で射撃戦なぞ始められたら、死傷者の数が増えるどころか、流れ弾で周囲にも被害が及ぶだろう。

 被害を抑えるためのルールは、他にもあった。またしても「佐武伊賀守働書」からの引用になるが(出入りの記録はこれしかないのだ。とても貴重な記録なのである)、1556年に再び発生した「山分けの出入り」の経過を見てみよう。今度は、西谷と蓮華谷との間で発生した出入りである。

 西の山にて、2つの谷の者どもが一戦交えることになった。この時、先陣をきったのは慶誓のボスである福宝院の親方だったのだが、直後に槍の突きあいでやられてしまった。だが、止めは刺されなかった――とある。何故か?その後に「根来寺之法度にて、うち捨に仕候」という記述があるのだ。

 どうも相手が倒れたらそれまでで、止めを刺してはいけない、というルールだったらしい。1年前の山分けの出入りで、慶誓が一撃を食らって倒れた際に、弁財天の長坂院が慶誓を無視して、大弐に向かっていったことを思い返してほしい。これも法度に則った振る舞いだったのだろう。

 

今回の出入りがあった「西山」がどこにあったかは分からないが、当時「西山城」という城はあった。現在はゴルフ場になっている、青く塗られた領域である。境内とはだいぶ離れているが、決闘のように場所を定めて戦ったのかもしれない。

 

 また同じ記事には、こうある。その後、慶誓が宗清という行人に対して、矢を放った。すると兜のシコロを射抜き、頭に矢が刺さった。矢柄は抜けたが鏃は残ってしまったが、いろいろ手当をしたので、無事に回復した――とある。どうやらこの時、応急手当てをしたのは、敵である慶誓らのようなのである。戦闘不能になった者は、敵味方構わず介抱する、そんな法度があったのではないだろうか。(その余裕があれば、だが)

 そして出入りは必ず屋外での戦いであって、籠城戦のようなことは行われていない。合戦といえば放火が常であるのだが、そうしたことも行われていない。これらも法度に抵触するような行為だったのだろう。

 また出入りが終わったら、一切遺恨を残さず、というのも法度だったに違いない。なにしろ狭い境内での戦いである。出入りが終わった後、日常生活での付き合いもあるだろうし、いちいち恨みに思っていたらきりがない。これはこれ、あれはあれとして、割り切った考え方をしていたのではないだろうか。近所に住んでいた慶誓と大弐の2人も、出入りが終わったら腹の内はどうあれ、表面上は「痛かったぞ、コラ(怒)」「悪い、悪い。でもお互い様だからな」といった感じだったのではないだろうか。

 あくまでも「出入り」であって「合戦」ではない、ということで上記のようなルールが定められていた。そうすることによって死傷者の数を抑え、結果的に実戦に則した演習的役割も果たしていたというわけだ。

 ちなみに拙著では、理由はどうあれ仲間の子院の人間を傷つけてしまって、それが後から判明した場合には、後ほど見舞金を包む、ということにしてある。(終)

 

このシリーズの主な参考文献

根来寺衆徒と維新時代の吾が祖/古川武雄 著

・中世都市根来寺紀州惣国/海津一朗 編/同成社 中世史選書13

・久遠の祈り 紀州国神々の考古学②/菅原正明 著/清文堂

根来寺文化研究所紀要 第一号~第六号/根来寺文化研究所

・新修泉佐野市史/泉佐野市史編さん委員会 編/泉佐野

・寺社勢力の中世/伊藤正敏 著/ちくま選書

・室町は今日もハードボイルド 日本中世のアナーキーな世界/清水克行 著/新潮社

・その他、各種論文を多数参考にしたが、特に鈴木眞哉氏と武内雅人氏、両者による「佐武伊守働書」に関する研究成果に大きく頼っている。

 

根来寺の行人たち~その⑦ どこの谷にあるのか、系列はどこなのか

 根来の四院――泉識坊・岩室坊・閼伽井坊・杉乃坊のこれら有力子院は、大きな経済力と軍事力を持っていた。こうした力のある子院は、まるで企業が子会社を作るように、系列の子院を増やしていく。例えば泉識坊系列の子院として、愛染院や福宝院などの名が挙げられる。両者は親分・子分の関係にあり、主従関係に近い形だった。

 これに対して、地縁で繋がった共同体的な関係性がある。根来は山あいの谷間にあったが、峰々を刻む谷ごとに共同体が成立していた。京の町組のようなものである。生活のための水利や伐採権を共有しているので、これらの枯渇は子院の死活問題につながる。なので、谷ごとの共同体の横の繋がりは強いものだった。

 1555年の「山分けの出入り」は、蓮華谷と菩提谷の水利や伐採権の争いが契機で争った戦いである。つまり各子院は「地縁で繋がる谷の一員」として、動員がかけられたのだ。この1555年の山分けの出入りで、福宝院の慶誓と大福院の大弐が一緒の陣営にいたのは、両子院が同じ蓮華谷にあったからなのだ。

 1556年に行われた合戦は「跡式の出入り」である。これは泉識坊系と杉乃坊系の子院の戦いである。前年が、横の繋がりの地縁関係性を基にした戦いだとしたら、今回は「縦系列の主従関係」で繋がった戦いなのである。つまり福宝院は泉識坊系列、大福院は杉乃坊系列の子院だった、ということが分かるのだ。

 だが、ここで問題がひとつ発生する。出入りにおいて、この横で繋がる地縁共同体と縦の主従関係性が、真っ向からぶつかった場合である。

 

作者が作成した、行人方子院の谷ごと・系列ごとの関係図。縦の色分けが地縁、谷ごとの共同体を示す。A、B、Cが系列子院ごとの縦の関係性を示す。

 

 上記の図を例にして見てみよう。例えばAの子院は1~3番の複数の谷に渡って系列の子院を従えている。1番谷と2番谷が「山分けの出入り」で揉めた場合、A-2とA-3が出合い頭に槍を交えてしまうこともあったはずだ。相手は同じ系列子院の仲間なのに。

 こういう場合にどうしたかは、記録に残っていないので分からない。拙著では、気づいた場合には暗黙の了解として互いに槍を引く、ということにしてある。案外、この通りだったのではないだろうか。

 「跡式の出入り」の場合は、逆パターンとなる。例えばB系列とC系列の子院が戦った場合、B―3とC―3のように、2番谷において近所付き合いで普段は親しくしている行人と、戦場で出会ってしまう場合もあっただろう。まさしく先の記事で紹介した、同じ蓮華谷に属する慶誓と大弐が、戦場で相対したパターンである。この場合、慶誓は矢で大弐を射てしまっている。可能性として考えられるのは3つあって、

 

①横の共同体的関係よりも、縦の主従関係の論理の方が強かった。

②谷といっても広いから、全員の顔は覚えていない。戦場でいちいち確認できず、知らずにやってしまい、後から判明した。

③勢いでやってしまった。

 

 ②か③の可能性が高いが、何となく③のような気がする。1年前は並んで隣で戦っていたわけだし、顔くらい見知っていただろう。何よりも慶誓こと佐武源左衛門は、そういうキャラのような気がする。そういう目線で「佐武伊賀守働書」を読んでみると、大弐を射たことは、他と比べると少し遠慮がちに書いている・・と読めなくもない?(続く)

 

根来寺の行人たち~その⑥ 1556年、跡式の出入り

 もう1つ、違う出入りを紹介したい。やはり同じ慶誓が参加した「跡式の出入り」だ。先の「山分けの出入り」からわずか1年後、1556年に発生した出入りである。

 それにしても、慶誓が参加していない出入りもあったはずなので、こうした戦いが常時、境内において繰り広げられていたということになる。随分と物騒な環境だ。関係ない学侶方の僧はさぞかし迷惑だったろう――案外、どちらが勝つかで賭けをしていた僧なども、いたのではないかという気もするが。

 この出入りだが、泉識坊系の「威徳院」と杉乃坊系の「三實院」との間に、相続を巡る争いがあったのが事の発端らしい。ずっと話し合いが続けられていたが、破綻して「跡式の出入り」が発生した。慶誓は泉識坊系の福宝院の行人なので、泉識坊の先兵として活躍することになる。前のエピソードと同じく「佐武伊賀守働書」にそって、戦闘の経過を追ってみよう。

 まず三實院の者が、門の際まできて攻めかけてきたので、慶誓らはこれを迎撃するために前に出る。三實院の中間で「とろ」という名の者が、2尺7・8寸(約83cm)の刀を持って、門から3間(約5.4m)のところに盾を置いた。これに対してすかさず慶誓、矢を放ったところ1射目は盾を射抜き、2射目は盾を貫いて、相手の肩に刺さった。

 

絵巻物「春日権現霊験記」より。「置き盾」の後ろから、弓を射る武士。「とろ」が使ったのも、同じような形のものだろう。ちなみに「とろ」は綽名で、「どんくさい」とか「のろま」という意味である。行人ではなく、三實院に仕える下人だったと思われる。

 次に近くで三實院の長尊という行人が、慶誓の仲間と槍で突き合っていたので、2間半(約4.5m)の距離で矢を放って、その腕を射た。すると大夫という行人が、槍で突きかかってきたので、これの手首も射抜いてやった。

 戦いは更にエスカレートする。杉乃坊の行人たちが次々にかかってきたのだ。慶誓ひるまず、これらにも矢を放ったところ、1本が三福院という行人の眉の上にジャストミート。後頭部まで矢を射抜かれた相手は、即死してしまった。更に張右京という行人に対して、矢を4本放って当てた。また大福院の大弐に対しても矢を放ったところ、籠手の鎖を射抜いた――

 慶誓、大活躍である。ちなみに文の最後に「自分1人の弓で5、6人仕留めた」と自慢気に記している。最もこの「佐武伊賀守働書」は、若い頃の手柄話を晩年になってから記したものなので、どこからどこまでが本当のことなのか、分からないのだが。

 そして今回、慶誓は1人殺している。頻繁に起きたであろう出入りで、こんなにも簡単に人が死ぬというのは、修羅の国も顔負けの世界ではないか。こうした出入りは、対外戦争の演習的役割を果たしていたのでは、という説があるが、確かに普段からこれだけ鍛えられていたら、根来勢は相当に強かっただろう。

 そして最後に矢を射られた大福院の大弐、気づいたであろうか。彼は1年前の「山分けの出入り」の際に、長坂院に7、8カ所も散々に斬られ瀕死の重傷を負った、あの大弐なのである。

 前回は仲間だったのに、今回は慶誓の敵に回っているのだ。なぜか。その理由は、根来寺に属する子院が持つ、ある特性にあるのだ。(続く)

 

根来寺の行人たち~その⑤ 1555年、山分けの出入り

 以前の記事で少し述べたが、根来の行人方子院の間では、内輪もめが絶えなかった。内輪もめといっても、喧嘩レベルの話ではない。死傷者が何人も出る合戦レベルの戦いを、境内において繰り広げていたことが分かっている。

 これを「出入り」という。

 佐武源左衛門という、知る人ぞ知る武士がいる。彼は雑賀出身で12歳にして弓矢を持って村同士の合戦に参加するほどの、相当な暴れん坊だ。その後、雑賀の隣にある根来寺・福宝院の行人となっている。なぜ根来入りしたのかよく分からないが、武者修行のつもりだったのではないだろうか。彼はこの地において水を得た魚のごとく、縦横無尽に暴れまくるのである。ちなみに拙著にも、主人公と絡む重要人物として登場させている。

 晩年になって彼が記した「佐武伊賀守働書」には、1555年に境内で発生した「山分けの出入り」のことが詳しく載っている。事の発端はよく分からないが、「山分けの出入り」という名称からして、どうやら谷ごとの水利や伐採権から生じた争いらしい。

 共に有力な子院が集まる、蓮華谷と菩提谷間の争いであった。佐武伊賀の――行人時代は慶誓と名乗っていたと思われるので、以降は慶誓とする――慶誓の属していた福宝院は蓮華谷にあったので、その一員として出入りに参加したわけだ。この一連の出入りの経過を、彼の残した記録に基づいて紹介してみよう。

 まず蓮華谷側の軍勢が、菩提谷に向かって押し出していく。菩提谷側は、千手堂の前にある「筋交(すじかい)橋」の橋の板を外して待ち構えていた。恐れ知らずの、ひげ良泉という行人が橋げたを渡って相手側に突っ込んでいく。慶誓ら他の行人たちもそれを追い、突撃していった。たまらず相手側は崩れて、「七番空き地」まで後退したが、そこで陣を立て直して乱戦となる。

 槍を突き合う展開となるが、その最中に慶誓は矢で足を射られてしまう。矢柄は抜けたが、鏃はそのまま残ってしまった。手当てする間もなく戦っていると、慶誓はよりによって在来(おく)左京という勇者と出会ってしまう。槍を合わせたところ、相手の鎧袖に槍が絡んだので、力任せにそのまま突き倒そうとしたが、相手も流石の豪の者、うまくいかなかった。その後、弁財天の長坂院という、これまた豪の者と相対して、中巻(大太刀の刀身の根元に革を巻いたもの。そこを持ち手にして両手で使う。野太刀と薙刀の中間的武器)のきつい一撃を頭に食らってしまう。12枚造りの筋兜の輪甲の、うち4枚が割れるほどの衝撃だった。

 長坂院は倒れた慶誓を打ち捨てて、続いて大福院の大弐という行人に斬りかかり、7、8カ所もめった斬りにしてしまう。一撃食らってふらついた慶誓は、一旦退却することにした。渡ってきた橋は味方で混みあっていたので、下流にある別の橋を渡って退いた――

 

戦いの経緯。戦国期の根来寺境内の様子を記した「根来伽藍古地図」を基に著者が作成。
筋交橋は現在、県道が通る橋になっている。

 と、まあこんな感じなのだが、ご覧の通り本格的な戦いである。弓矢まで待ちだしているのだ。7、8カ所も斬られたという大福院の大弐は、その後も活動が確認できるので幸い死ななかったようだが、よくぞ助かったものだ。

 出入りの結果だが、慶誓はどちらが勝ったか記していないので、どうなったかは分からない。この山分けの出入り、拙著で主人公にも参加させている。今紹介した史実とどう変わっているのか、是非読み比べていただきたい。(続く)

根来寺の行人たち~その④ 行人たちの実態

 行人たち――僧兵でもあった彼らは、どんな生活をしていたのだろうか。まずは見た目から。これに関してはフロイスの記録が詳しい。該当部分を引用してみよう。

 「彼らは絹の着物を着用して、世俗の兵士のように振る舞い、富裕であり立派な金飾りの両刀を差して歩行した。(中略)さらに彼らはナザレ人のように頭髪を長く背中の半ばまで絡めて垂れ下げ~(中略)一瞥しただけでその不遜な面構えといい、得体の知れぬ人柄といい、彼らが仕えている主――すなわち悪魔がいかなる者であるか――を示していた」とある。

 この後、彼らがいかに堕落しているか、キリスト教的主観に基づいた悪口が続くので省略するが、行人たちの出で立ちについては、客観性がある記述と思われる。つまり彼らは武蔵坊弁慶のような坊主頭でも、武士のように丁髷を結っていたわけでもなく、総髪を後ろで垂れ下げて、結わえていたということになる。

 またポルトガル宣教師、ビレラが本国に送った報告書にはこうある――「根来の僧は傲岸不遜かつ神を恐れず、腰に黄金の飾りを付け、高価な剣を帯び、人を斬ること大根を切るが如しである。また鍍金した僧院に住み、衣食・肉など、欲するがままである」

 武装についてはどうか。根来寺には「兵法虎の巻」という書物が伝わっている。僧兵の武装について解説した絵入りの軍学書で、その奥書には「平安期の兵家により伝授したもの」とある。しかし軍装は明らかに室町期のものなので、武装した行人を描いたものと思われる。

 

根来寺蔵「兵法虎の巻」より。
いわゆる一般の僧兵のイメージとは異なる。

 

 出で立ちを見る限り、堂々とした押し出しで、戦国武将にも見えなくもない。服装についても「絹の着物を着て、金飾りの両刀を差していた」などとあることから分かるように、かなり裕福な者がいたことを伺わせる。勿論、行人もピンキリなので、貧乏な行人も大勢いただろうが。

 戦国後期、玄紹という学侶僧がいた。彼が若い頃のエピソードを書き残している。それによると、とある山中で温泉に入っていると、泉識坊の行人らが湯に入ってきた。先に入っていた者たちは、畏れてこれを避け、みな上がってしまったが、玄紹はそのまま入っていた。すると泉識防の親方と思われる男から「お前は何者だ」と聞かれたので、答えるままに会話していると、玄紹が貧しい出身であったことを知った相手から「貧乏でもくじけるな。やめんじゃねえぞ」と励まされた――とある。

 本来、下級僧である行人僧に、学侶僧である玄紹が励まされるという、逆転現象が起きている。また一緒に温泉に入っていた者たちが、これを畏れて上がってしまうのも印象的だ。四院の親方ともなると、地方の大名にも匹敵するほどの富と威厳があったのだ。

 行人たちは妻帯していたのであろうか?真言僧は女犯しないのが建前であったが、どれほど守られていたかは疑問である(一部の真面目な僧は除く)。行人僧に至っては戒律なぞ、なきに等しいものだったろう。実際、とある行人の位牌には、本人の法名の横に、その妻と思われる法名が記されているものが残っている。流石に境内に家族を住まわせる者はいなかったろうが、子院の地元ないしは根来の門前町である西坂本などに、別宅を持って家族を住まわせていただろうと思われる。

 当然、肉も食っていただろうし、酒も飲んでいたことだろう。西坂本では羽目を外しただろうし、地元に戻ったらやりたい放題、俗人とそう変わりない生活スタイルだったのではないだろうか。(続く)

 

 

根来寺の行人たち~その③ 台頭する行人たち

 ともあれ、地域の土豪らを吸収して強大化した根来寺。根来に属した行人方子院たちは、外部に対しても盛んに侵略を行うようになる。

 経済的な侵略方法としては、加地子(かじし)得分(とくぶん)(年貢以外の余剰収穫分のこと。場所によっては年貢の数倍~数十倍もの収穫があった)の集積や、その地における代官職の獲得などである。これらは借金のカタに回収したり、強引な買い叩きなどをして集めたようだ。その背景となったのが、根来の軍事力である。所領の押領、と形容した方がいいような方法もあったかもしれない。

 根来寺行人方子院はこのようにして、徐々にその影響圏を拡大していく。近くにある粉河寺(こかわてら)とは、長年に渡り権益を巡って争っていたが、戦国期には従属的な同盟関係といえるまで屈服させているほどだ。

 根来寺に富が集まってくる。それに伴い、寺院内において行人方子院の数が増えてくると、その力も増す。必然的に、学侶方子院と摩擦が起こる。これまでの根来寺の主導権は当然、これら学侶僧が持っていたのだが、そうでなくなってくるのだ。

 「粉河寺旧記」などの記録を見る限りでは、根来寺による軍事行動は、当初は学侶方行人方の双方の手により行われているのが分かる。だが16世紀に入ると、学侶方はこれに関与しなくなっている。少なくとも室町後期には、軍事を伴う行動に関しては、行人方の主導権が確立したようである。

 戦国後期の根来寺の意思決定構造は、次のようなものだ。まず行人方の子院の、有力なものたちがいる。いわゆる根来の四院と称される、「泉識坊」・「岩室坊」・「閼伽井坊」・「杉乃坊」らに代表される有力子院たちだ。

 これらが私集会を開き、物事を決定する。ここで決定されたことは、惣分集会という建前上は「全山が参加する権利のある集会」にて諮られるのだが、否決されることはなかったと思われる。逆に惣分集会で決まったことを、私集会にて覆した、などの記録が残っているのだ。要するに、有力行人子院らによる寡頭制が敷かれていたのである。

 行人方学侶方が、それぞれどの分野のどこまでにおいて、根来寺の主導権をせめぎ合っていたかは分からない。だが学侶方の意思決定機関もまた、こうした行人方の寡頭制の意向に逆らうことは難しかったようだ。

 もちろんそれらは対外的な軍事行動面においてであって、学侶方の本領であった真言教学の分野においては、行人方はまるで関与していない(するつもりもなかったろうが)。ただ修験道の分野においては、行人方が主導権を持っていたようだ。

 拙著「跡式の出入り」では、登場人物のひとりに「根来寺の学は学侶僧ら、そして富は我ら行人僧らによって支えられているのです」と述べさせているが、それは上記のような構造によるものだ。(続く)

 

岩出市根来寺遺跡展示施設」の展示板より。
行人方子院の再現図。

 

根来寺の行人たち~その② 土豪と行人方子院

 多くの戦国大名の成立過程というものは、概ね以下のようなものだ。

①守護や守護代、国衆の中から、力がある家が台頭してくる。

②周辺の国衆を滅ぼすか、傘下に入れるかなどして、その国を統一する。

③独立性の強い国内勢力を粛清、再編成しつつ他国へ侵攻する。

 だが紀泉においては、①はできても②ができなかった。なぜか。日本の権力の中心地である京に近いため、強大な力を持つ大名(細川・三好など)の影響力を排することができなかった、というのもある。だが、もうひとつある。それは根来寺があったからなのだ。

 ある程度まで力をつけた土豪は、近隣の敵対勢力を征服ないし従属させて、国衆と呼べる存在にレベルアップする。だが紀泉においては、国衆になる前の土豪の段階で、自ら領地を根来寺に寄進して、その庇護下に入ってしまうのだ。結果、寺領が増えていった根来寺が、大きな力を持つようになった。つまり根来寺が国内の統一を果たすような存在の成長を阻害したから、という理由が大きいのである。

 己の持つ土地を根来寺に寄進した土豪は、引き続きその地の根来寺代官となるから、実質的な支配権は握ったままだ。代わりに得るのは、宗教を背景とした威信と、そこでできた人脈などの繋がりだ。そうすることによって、近隣の敵対勢力よりも有利な立場に立てるのだ。

 また権威のある大名が他国より侵攻してきてこれに対抗する場合、ただの土豪連合では正統性の面で心もとない。根来寺レベルの公権力、という背景があれば、それに対抗することができる。位負けしなくなるのだ。

 土豪たちは土地を寄進すると共に、本山に子院を建立した。地元と根来寺との繋がりは、この子院を通じて行われた。このようにして増えていった行人方子院だが、大きくなってきたものの中には、子会社的存在の子院を建立して、数を増やしていくものも出てくる。結果、寺内には数百に及ぶ行人方子院が乱立することになったのである。

 

岩出市根来寺遺跡展示施設」の展示板より。
往時の根来寺境内の様子がよく分かる。
🔲のひとつひとつが、子院にあたる。

 

 戦国期の根来寺は、宗教を分母とした土豪の連合体のような一面を持っていた。それが根来寺を中心にした同心円状に、紀州北部~和泉南部にかけて広がっていったのである。土豪連合体ではあったが、バックボーンとして権威ある宗教があったので、正統性のある公権力として認識されていた。紀泉において、これに不参加、ないし同盟関係にない土豪は次第に没落していった。

 畠山家は根来、そしてその隣に雑賀があったせいで、紀泉の完全支配を果たすことができなかった。だが言い方を変えると、紀北を根来と雑賀が押さえていてくれたおかげで、侵略者が北から入ってこられず、守られていたともいえる。

 逆にもし根来寺がなかったとしたら、紀中から紀南にかけて勢力を築いていた湯川氏辺りが下剋上して、畠山を追い出し戦国大名化していたかもしれない。いずれにせよ、戦国末期には畠山は地域の一勢力でしかなくなっている。そして根来寺の滅亡と共に、畠山家も滅びるのだ。

 余談ではあるが、畠山家は曲がりなりにも戦国末期まで命脈を保つことができたが、もっと酷く零落してしまった家として、三管領筆頭であった斯波家がある。

 斯波家は越前・尾張遠江を本拠地とする名家であったが、越前を朝倉家に、尾張織田家に、遠江を今川家に奪われてしまう。その落ちぶれ具合たるや酷いもので、1544年12月にその末裔、斯波義信が石山本願寺を訪れたときの記録が残っている。

 それによると義信は「本願寺が支配している加賀の国の所領を、斯波家に少し分けて欲しい」という、実にあつかましい願いをしてきたのである。返事に困った門主の証如は、その時は何とかお引き取り願ったのだが、義信は年の暮れに再び本願寺に現れたのである。そして「望みが叶わなければ、覚悟を決める」と騒ぎたて、筆と紙を用意し、遺書を書く素振りを見せはじめたのだ。困り果てた証如は、嫌々5貫文(今の価値で50万~ほどか)を渡して引き取ってもらうことにする。首尾よく小銭をせしめた義信は、受け取った瞬間に喜色満面、ほくほく顔で帰っていった――とある。

 ・・・話が逸れてしまった。前述したように、根来に所属している土豪は、あくまで緩い連合なので、仲の悪い近場の土豪同士が争うこともあっただろう。寺内において、多くの争い「出入り」があったことは分かっているが、もしかしたらその原因のひとつは地元での諍いにあり、それが寺内における代理戦争のように発展するようなケースもあったかもしれない。(続く)

 

根来寺の行人たち~その① 行人とは

 紀州根来寺は、現在の和歌山県岩出石市に今もある、新義真言宗の総本山である。開祖は覚鑁上人。「根来寺」という名の寺は中世からあったが(古くからその地にあった豊福寺が、根来寺と呼ばれるようになっていた)、当時の人々の概念としては、そこに集まった寺院群の総称を「根来寺」と呼んでいたようである。寺院の数は数百を越え、抱える僧兵は数万、石高は72万石に達した、といわれている。

 1570年にネーデルランドのオリテリウスが作成した世界地図には、「Negrou」として、その名が大きく記載されている。これは当時のポルトガル宣教師・ザビエルらが本国に送った報告書の影響と考えられる。ザビエルが訪日した時期は、まさしく根来寺の最盛期でもあったのだ。

 

オリテリウスの世界地図。JAPANの右下に
Negrou、とある。

 当時の世界地図にも載ったほどの根来寺。その力の源泉は何か?それを知るためには根来寺の歴史を紐解いていく必要がある。

 高野山において伝法院を率いる覚鑁上人に、鳥羽上皇が根来の地にあった4つの荘園を寄進したのが1140年のことだ。覚鑁はこの地において、神宮寺と円明寺を建立する。遅れて13世紀後半に、高野に残って覚鑁上人の教えを継いでいた伝法院が移転してきて、根来寺の本格的な発展が始まる。

 覚鑁上人は真言における、教相(理論分野)における革新の人であったから、その衣鉢を継ぐ根来寺では教学の研究が進んだ。全国から学僧が、最新の教学を学びに集ってきたのである。

 だが根来寺の力の源泉はそこではない。より世俗的な力、つまり富と武力にあったのだ。それをどのようにして手に入れたのだろうか?根来寺には数百の寺院が存在したという。実はそのうち、かなりの数が「行人方」子院だったのである。

 行人、とは何か。一言で言うと下級僧侶のことである。学侶僧が正式なトレーニングを積んだ僧侶だとするならば、行人僧はそれをサポートするアシスタントである。例えば、儀式に必須のお供え物を整えておく。賄い方として食事を用意したり、清掃を行う。また荘園の管理や、武装しての警備など。こうした行人僧の働きなしでは、学侶僧の修行や生活は成り立たなかった。

 それでは何故、根来においてそんなに多くの行人方の子院があったのか。次にそれを見ていこう。

 元々、紀州三管領家のひとつ、名門畠山家の本拠地のひとつであった。しかし畠山家は、応仁の乱の際に2つに分裂してしまい、その勢力は大きく弱まってしまう。その後30年近く、畿内を舞台に「政長系」と「義就系」とで激しく争うことになる。紀州は一貫して政長系が押さえており、根来も終始、政長系と同盟関係にあった。(1460年には根来寺の軍勢が義就軍を撃破しているが、この戦闘により義就方はなんと、700人もの戦死者が出ている)

 しかし両畠山の長引く戦乱にうんざりした、畿内の国衆は次第に独立色を強めていく。山城に至っては国を挙げての一揆が起き(1485年の山城国一揆)、両畠山家を一時山城国から追い出してしまうほどの動きを見せる。こうした混乱の中、着々と勢力を伸ばしていったのが根来寺である。根来寺周辺の独立性の高い国衆たちが、畠山や細川などの大名家の侵攻から逃れるために頼った先が、根来寺だったのである。(続く)