根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

根来戦記の世界 - にほんブログ村 にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

後期倭寇に参加した根来行人たち~その① 密貿易ネットワーク

 16世紀の中国沿岸。福建省広東省浙江省などでは、海運を使用した密貿易が盛んに行われていた。福建省に至っては、人口の9割が何らかの形で密貿易に関わっていた、とある。明代の中国には「郷紳」という、中央から派遣されてくる現役官僚と連携して、富を蓄える官僚OBの大地主たちがいた。彼らは資本家でもあったから、密貿易にも進んで携わって利を追い求めたのである。

 朝貢以外は貿易を認めず、というのが明の祖法であったから、しばしば海禁令が出されたのだが、効き目はほとんどなかったようだ。商品流通経済が進んでいた中国にとって、そもそも海禁という制度自体に無理があるのだ。中期以降の海禁令に至っては、中国人同士の海運も禁止される、という無茶なものであったから、これを守る者はいなかった。

 これら密貿易に携わっていた大物たちのひとりに、王直がいる。

 若いころに任侠であった彼は、塩商を始めるが失敗。以降、密貿易に転じる。許棟兄弟・李光頭らといった密貿易の親玉の下で、ぐんぐん頭角を現してくる。1542年にポルトガル人と共に種子島を訪れた彼が、日本に鉄砲をもたらしたのは有名な話だ。特に彼は日本との販路の開拓に力を入れたらしく、1545年には助左衛門ら3人の博多商人を仲間に誘い、この密貿易ネットワークに参加させている。

 実は1540年代から、商取引のため日本を訪れる船が急増しているのだ。豊後の神宮司浦や、肥前の平戸など九州の港に留まらず、伊勢や越前、そして関東は北条氏の港にまで、これら密貿易船の入港があったことが記録に残っているのだ。明代の中国では銀が多用されていたから、彼らは特に日本産の銀を求めていた。

 この密貿易ネットワークには、ポルトガル人も多く参加していた。この時期、ポルトガルマラッカ海峡を抑えていたから、東アジアの貿易においてイニシアチブを取ることができる、唯一のヨーロッパ勢として活躍できたのである。これまで彼らは中国産の絹織物・生糸をインドで売りさばき、ヨーロッパ産の毛織物や、東南アジア産の香料を中国に持ち込んでいたのだが、日本との通商路の開拓によって、そちらに注力するようになる。なにしろ、日本との貿易は儲かったのだ。

 ポルトガル初の中国大使、トメ・ピレスが残した「東方諸国記」を読むと、このネットワークには、琉球人もまた多く参加していたことが確認できる。それによると「琉球はヨーロッパにおけるミラノのような存在だ。彼ら琉球人はポルトガル人と違って娼婦を買わない、正直な人たちである。奴隷の売買をしないし、全世界と引き換えにしても仲間を売ることはしない。彼らはこれについて死を賭ける」とベタ褒めである。また同書には「彼らは海難時には、美女を買って犠牲にすることを誓い、救護を祈る」という記述があるが、これは琉球船の慣習として聞得大君(きこえおおきみ)などの女神を航海守護神として祭り、暴風の際には乗員が髪を切って海中に投じて祈る、という風習が誤伝され、こうした記述になったものと思われる。

 これら密貿易商人らの本拠地は、浙江省・双嶼にあった。密貿易の拠点らしく国際色豊かな港であった。1540年頃の双嶼港について、メンデス・ピントというポルトガル人が「アジア放浪記」という書物に記している。そこには「1000戸の家、2つの病院、1軒の慈善病院、ポルトガル人1200人を含む、3000人が居住していた」とある。日本人も多数、居住していたと思われる。

 

密貿易のメッカ・双嶼と、各地との位置を示した地図。密貿易業者の船団は、この海域を縦横無尽に駆け巡っていた。東アジアにおける大航海時代である。

 

双嶼について、より詳細な情報を知りたい方はこちら。筆者がいつも見ているブログで、戦国時代の日本に留まらず、世界各地の都市や人物に関しても取り上げている。物凄い情報量で、勉強になる。

 

 彼らの生業はあくまで密貿易だったので、略奪などはそんなには行っていなかったようだ――とある事件が起きるまでは。ただ、密貿易業者間の争いは盛んにあったようである。また密貿易につきものの、地方官に対するお目こぼしの賄賂なども横行していた。(続く)

 

前期倭寇について~その③ 李氏朝鮮が払った代償と、三浦の乱

 1443年に嘉吉条約が結ばれたことによって、前期倭寇は終息した。だが、この条約は李氏朝鮮にとっては高くつくものであった。例えば、対馬が貿易のために訪朝した際には、その滞在費、そして交易品の運搬費用は、全て朝鮮側の負担になった。交易品を運ぶ任を負わされた、街道沿いの住民たちの負担は大きく怨嗟の的となった、と記録にある。こんな不利な取り決めに朝鮮側が甘んずるを得なかったのは、倭寇による略奪被害がそれだけ厳しかった、ということであろう。

 そもそも農本主義が国是であった李氏朝鮮は、同時代の日本ほど商品経済が発達しておらず、交易も市場に任せない官貿易であったから、抜け目のない商人たちのいい食い物となった。朝鮮からは大量の綿布が流出し、代わりに日本からは胡椒・丹木・朱紅・銅・金等などが輸入されたが、これらは基本的には贅沢品であった上、極めて日本側に有利なレートでの取引であったため、収支は完全に朝鮮側の赤字、やればやるほど損する構造だったのである。

 そして遂には国庫から、綿布が払底する事態となってしまう。遅まきながらそれに気づいた朝鮮側は、1488年に綿布のレートの変更、次いで金や銅の輸入禁止などの措置をとる。しかし対馬側はそれに構わず、1500年には11万5千斤という大量の銅を持ち込んでその買取りを要求、三分の一を売りつけるという、相当に強引な押し売りをしている。

 年間50隻のはずであった歳遣船も、よく見てみると例外も多い。まず対馬の宗氏一族3名に対し、それぞれ年に7隻・4隻・3隻、船を送れる権利を付与している。また別に年に1~2隻、船を送れる権利を持つものが14名。年に1隻だけ送れるものが27名。更に受職倭人と呼ばれる、朝鮮から官職を与えられて毎年1回だけ訪朝できるもの20人以上。この受職倭人も輸出品を満載した船を仕立ててやってくるのが常であったから、トータルで年に120~140隻は、定期的に通交できたことになる。

 対馬は上記以外にもなんだかんだ理由をつけ、定数外の船を送りつけてくる。「特別の情報を知らせるために」臨時に出す特送船の船倉は常に満載であったし、他の大名からの使い船もたびたびやってきたのだが、これが実在しない勢力の偽使であって、本当は対馬の船なのである。1482年に「夷千島王遐叉(えぞちしまおうかしゃ)」なる謎の人物からの使者が朝鮮を訪れている。これを安東氏が送った使節とする説もあるが、どう考えても宗氏ないしその周辺が誂えた偽使であろう。ほぼ同じタイミングで朝鮮を訪れた「久辺国主李獲」なる者の使節も、同じと思われる。

 更に朝鮮側にとって負担になったのは、釜山浦・薺浦・塩浦の三浦における定住日本人の増加である。三浦に住む日本人は、李氏朝鮮の検断権・徴税権の対象にならなかった。それら日本人(恒居倭と呼ばれた)が三浦周辺の田畑や漁業権を購入、税を払わずにそれらを経営する、というケースが増えていく。こんな好条件な待遇に飛びつかないわけがなく、1436年には200人ほどであった恒居倭は、60年後には3000人を超えるのだ。これは植民地化への第一歩である。

 こうした状況を「腹中にできた腫瘍」に例えた李氏朝鮮では、遂に三浦に対して抑圧政策に転じるのだ。1510年、これに反発した三浦の日本人は、対馬の宗氏と連携して反乱を起こす。これがいわゆる「三浦の乱」である。対馬からの援軍を加え4500人に膨れ上がった反乱軍による攻撃は、当初は順調に進んだが、最終的には官軍の反撃にあい壊滅する。この事件により日本と朝鮮との通交は一時、断絶するのだ。

 1512年に通交は復活するが、規模は以前よりも遥かに制限されたものになってしまう。身から出た錆とはいえ、これは対馬にとっては大きなダメージだった。そこで宗氏は、通商と交渉を少しでも自国に有利にするために、先に紹介した偽使をより大規模かつシステマチックに行うようになる。

 架空の国を拵えるなどの稚拙な技はやめて、手口がより巧妙になってくるのだ。例えば、「小弐政忠」の名を刻んだ銅の図書印が現存するが、どうやらこれは「小弐政尚の子ども」という設定の架空の人物で、朝鮮に通交し通交証明をもらうことに成功したものと見られている。

 そんなのはまだかわいい方で、日本国王室町幕府将軍)の偽使を仕立てての通商・交渉まで、日常的に行っている。李氏朝鮮を訪れた22回の日本国王の使者のうち、本物は2回のみであり、残りの20回は対馬の仕立てた偽使だったというから、堂に入っている。

 

九州国立博物館蔵「対馬宗家旧蔵図書」。宗氏が偽造した、室町幕府将軍の木印である。4種類あるということは、少なくとも将軍4代に渡って使用されていたということだ。

 

 とはいえ、これでようやく李氏朝鮮は一息つけた・・と思いきや、1552年頃から、今度は後期倭寇が始まるのだ。後期倭寇の主な略奪対象は中国沿岸ではあったが、朝鮮半島にもその余波は及んだ。これら後期倭寇は前期倭寇とは構成員が異なっており、対馬と朝鮮間だけで解決できる問題ではなかったから、李氏朝鮮は根本的な対策を打ち出すことはできず、水際での防御に徹するしか対処法はなかった。

 そして1592年には、秀吉による文禄の役が始まる。この文禄の役において、小西行長と組んだ対馬の宗氏が、偽書をつくって秀吉と李氏朝鮮の双方を騙した結果、両者の間が大いにこじれてしまい、開戦に至ったのは有名な話だが、裏にはこうした背景があったのである。宗氏にしてみれば、偽使を立てての交渉など昔から日常的にやっていたことなので、特に抵抗なく行った、ということなのだろう。(終わり~次のシリーズに続く)

 

このシリーズの主な参考文献

倭寇 海の歴史/田中建夫 著/講談社学術文庫

・中世国境海域の倭と朝鮮/長節子/吉川弘文館

・描かれた倭寇倭寇図巻と抗倭図巻」/東京大学史料編纂所 編/吉川弘文館

・増補 中世日本の内と外/村井章介 著/ちくま学芸文庫

倭寇と東アジア通交圏/田中建夫 著/吉川弘文館

・東アジア海域に漕ぎ出す1 海から見た歴史/羽田正 編/東京大学出版会

・その他、各種学術論文を多数参考にした。

 

著作について~その② 1巻の表紙を変える・下書きがあがる

 1巻のラフから、下書きが上がりました。とても難しい構図だと思うのですが、見事なものです。自分には絵心が全くないので、こんなに上手に絵を描ける人を、純粋に尊敬してしまいます。

 

次郎の斜め下に少年が座っていて、そこから見上げている視点になります。

 

 動きに合わせて、はためく着物の袖や裾の感じが、素晴らしくないですか?ただ袖や裾がやや重たく感じたので、短めにしていただき、また珍飯さんの提案で次郎に襷をかけることにしました。直していただいたのが、下の画像です。

 

小袖の裾を短くしてもらったので、次郎の膝頭が出ています。また襷かけしているので、
裾が捲れて二の腕が見えています。

 袖の動きがなくなってしまったのが残念ですが、主人公がより動きやすく、軽やかな格好になっています。お祭りである「節句の向かい礫」に参加している感が出て、躍動感も上がりました。

 プロの方とこうして意見を交換しつつ挿絵を作っていくのは、実に得難い経験ですね。(続く)

 

珍飯さんこと、空廼カイリさんの、こちらはコズミック・ホラーものです。そうとは知らずに読み始め、オーガスト・ダーレス的世界が展開されたので、びっくりしました。実はラグクラフト全集持っているくらい、クトゥルフ神話好きなのです。クトゥルフのTRPGはやったことないんですが、大昔(中学生時代)にD&Dをやっていたことがあるので、あとがきにあった能力値の話は懐かしかったです。

 

 

 

 

前期倭寇について~その② 前期倭寇の終息

 前期倭寇のピークは、1376年から1389年にかけての13年間である。朝鮮半島における記録を見てみると、それまでは年にひとケタ、多くて年に10回ほどであったのが、1376年に12回を数えた後、翌77年からは29回、22回、15回、17回と、ふたケタ台が当たり前の状況が続き、この13年間を平均すると年に15.3回という襲撃回数になる。記録に載らない小規模なものもあっただろうから、受けた被害は相当なものだったろう。

 なおこの時期、中国は元王朝の崩壊→明の建国、といった混乱期にあたる。特に倭寇に関する元代の史料の多くは、内乱で失われてしまったようで、中国側の記録には不備が多い。ただ朝鮮半島ほどの被害は被っていなかったようである。

 

17世紀の中国の作品、「倭寇図巻」(作者不詳)より。付け火をし、略奪する倭寇この図は1558年の中国における後期倭寇を描いているので、前期倭寇ではないのだが、やっていることはそう変わらない。

 

 高麗も、やられてばかりではなかった。1389年には、前期倭寇の前進基地であった対馬を攻撃している。これにより約300隻の船を焼き、攫われていた多くの捕虜を連れ戻した、とある。高麗は3年後の1392年に倒れ、新たに李成桂によって李氏朝鮮が建国されるが(先の記事に出た、阿只抜都(あきばつ)を射殺した英雄・李成桂である)、彼は疲弊していた国力の立て直しに成功し、倭寇対策として水軍の拡充と沿海の防備を充実させている。高麗末と李氏朝鮮初期の倭寇の記録を比べてみると、明らかにその規模と回数が減っていることが分かる。

 また多くの倭寇が朝鮮側に帰順しはじめる。これを投化倭人、と呼んだ。投化倭人はかなりの数にのぼり、そのまま対倭寇の防御警備に就く者もあれば、船大工、医者、銅の採掘・鋳造などの職につく者もいた。1396年には倭寇の大物「疚六(きゅうろく)」が60隻の船団を率いて投降し、朝鮮から宣略将軍に任じられている。他にも対馬出身の「平道全」が忠清道助戦兵馬使に任じられるなど、朝鮮政府の中枢に入る投化倭人の姿も見受けられるようになる。

 

白石一郎著。倭寇と村上海賊衆を描いた、異色の時代小説。1987年に第97回直木賞を受賞している。この中に「疚六」をモデルにした、強烈なキャラが出てくる。35年以上前の小説だが、素晴らしく面白いので是非読んで欲しい。

 

 同じ頃、日本では足利義満によって南北朝の合朝が果たされ、長きに渡る戦乱がようやく終わりを告げる。義満は明との勘合貿易を行うために、進んで倭寇の取り締まりを行うようになる。大内氏や宗氏など、朝鮮との貿易を認められた地方の大名たちもこれに倣った。特にその前進基地であった対馬の統制政策によって、前期倭寇による襲撃数は徐々に減少していく。

 この後、多少の盛り返しもあった。特に倭寇取り締まりに実績があった、対馬宗貞茂の死によって、1419年には7回の倭寇の侵入を数えている。よりにもよって新当主・貞盛の元で実権を握った重臣は、早田左衛門という元倭寇の親分であったから、取り締まりに手心が加えられたと思われる。

 だがそれも同1419年に発生した、遼東の「望海堝(ぼうがいか)の戦い」における倭寇船団の壊滅、そして「応永の外冠」と呼ばれる朝鮮の対馬攻撃によって、倭寇集団は大きなダメージを受けたようだ。

 散発的な襲撃はこの後も続いたが、1443年には対馬李氏朝鮮との間で嘉吉(かきつ)条約が結ばれる。これは日本・朝鮮間の貿易ルールを定めた性格の条約で、貿易窓口を対馬とし、年に50隻を上限とする歳遣船(さいけんせん)の渡航許可と、釜山浦・薺浦・塩浦の三浦を貿易港として設定する、といった内容のものだ。

 この条約は、対馬にとっては大変に旨味のあるものだった。対馬が窓口になったということは、実質的には宗氏が朝鮮との貿易を独占できるようになったことを意味する。李氏朝鮮から提示された、この飴の効果は抜群だったようで、倭寇の数は急激に減っていき、1444年には世宗によって、倭寇の「終息宣言」が出されているほどだ。(続く)

 

前期倭寇について~その① 前期倭寇の正体

 倭寇と根来の行人。一見関係なさそうだが、意外にも少しあるのだ。このシリーズでは倭寇と根来行人とのかかわり、そして当時の国際的なネットワークについて見てみようと思う。

 まず倭寇には「前期倭寇」と「後期倭寇」がある。なぜ2期に分かれているのかというと、前期と後期では様相が異なっていたからである。連続して変質していった、というよりも、両者は全くの別ものなのである。

 まずは前期倭寇から。年代的には14世紀~15世紀にかけて。記録によると1350年4月、100余艘の倭船が順天府にある漕船を襲った、とある。これまでも松浦党などによる散発的な襲撃はあったようだが、ここまで大規模かつ本格的な襲撃は初めてだったらしく、「高麗史」ではこの年を以て「倭寇の侵」のはじまり、としている。

 これら前期倭寇の主たる略奪地域は朝鮮半島で、のち中国沿岸部も含んだ。略奪対象は何であったか?前述した記事では漕船が襲われた、とある。漕船とは租税であった官米を運ぶ船のことだ。前期倭寇が狙った獲物は、主に米穀などの食料品だったのである。官米を備蓄しておく倉庫なども、よく狙われた。

 

明代の書物「万宝全書」より、凶悪な顔つきの倭寇。鎧を付けずに素肌のまま、日本刀を片手に敵に突っ込んでいくイメージは、この図を基にして描かれた江戸期の本、「異称日本人伝」の倭寇図が明治期の教科書に載った影響による。実際には鎧を着て、ちゃんと武装を整えた倭寇も多かった。

 

 また人も多く攫われた、とある。これにより沿岸部から、多くの人が内陸部へ移住してしまう。同じ理由で海岸近くにあった官庫の多くを奥地に移したが、逆に獲物を求める倭寇集団を内陸部まで誘因する結果となった。初期には沿岸部を襲撃して去るだけであったが、慣れてくると上陸して首都である開封付近にまで進出するなど、陸路の行動範囲が伸びている。

 前期倭寇の構成員は日本人が主だが、高麗人も多く参加していた。彼らは主に水尺・才人と呼ばれていた賤民たちで、それらだけで構成された集団による略奪行も起きていた。また済州島に代表される半島南部沿岸部の人間たちも、かなりの数が倭寇として活動していたようである。

 いずれにせよ、日本人の多くは九州の人間だった。そしてこれら倭寇は、騎馬に乗っていたという記録が多く見られる。前期倭寇の主体は武士だったのではないか、という説が古くから唱えられてきた所以だ。

 「倭寇の侵」と呼ばれる1350年に、日本で何があったか。この年は足利尊氏とその弟、直義が争った「観応の擾乱」が発生した年である。その前年に直義方の武将・直冬が九州に上陸している。九州は一時、尊氏方・直義方・南朝方の三つ巴の戦乱状態になるのだ。前期倭寇の始まりは、こうした動きと重なる。九州での戦争に必要な食料物資、そして奴隷などの人的資源を獲得するために、武士たちが海を渡って略奪行を行った、というわけである。

 前期倭寇の規模として、大きなものだと兵数3000・船数400余、とある。数に誇張があるにせよ、これだけの動員をかけられるということ、また内陸部への侵攻手段として騎馬を多用した、などの事実を見ると、組織だった武士団による略奪であったいう説には説得力がある。実際、「高麗史」1375年の記事には「藤経光」を称する親分率いる倭寇一党が、高麗に至り食料を求めたが、謀殺されそうになったので逃げ去った、とある。この藤経光は、大宰府にいた少弐氏ないし、松浦党名護屋氏の一族だったのでは、と推測されている。

 また「高麗史節要」の1380年の記事には、若き倭寇の将・阿只抜都(あきばつ)が出てくる。彼は全身これ鎧で固めた騎馬武者で、同じように騎乗した多くの手下を率いていた、とある。彼などは菊池党や松浦党などの武士団を率いていた、若き大将だったのではないだろうか。

 だが、この阿只抜都や騎馬集団をモンゴル系の済州島人、とみる説もある。当時の済州島は馬の名産地であり、高麗は元によって支配されていたから、モンゴル系の定住者が多くいたのである。済州島の人々が倭寇に参加していたのは間違いないから、その可能性もあるかもしれない。また先述した水尺・才人たちは、馬を使って移動していた非定住民でもあったから、彼らが略奪の際に騎馬を利用していたとしても、おかしくはない。

 或いは、前期倭寇のきっかけは九州の武士団であったが、時間が経つにつれ内実が変遷していったのかもしれない。ここからは個人的な推測になるのだが、九州の騒乱が静まっていくにつれ、武士による略奪行は減っていったが、代わりにその旨味を知って今更やめられなくなってしまった、対馬壱岐・松浦の三島の住民を主としたものになっていった、ということではなかろうか。またそれとは別に、済州島人など半島南部沿岸部の住民や、水尺・才人たち賤民らも略奪行を行っていた。彼らは時には連合することもあっただろう。こうした多様な略奪集団を総称して「倭寇」と呼んだ、というわけだ。(続く)

 

著作について~その① 1巻の表紙を変える・ラフをお願いする

 1巻「京の印地打ち」の表紙絵を変えようとしています。以前にお願いしていた絵師さんは、もう描かなくなったとのことで、1巻の表紙絵を2巻に描いていただいた「珍飯」さんに、お願いし直しているところです。

 利用したのは、SUKIMAという仲介サービスです。ここに絵師さんが作品を並べているので、自分の世界観にあった絵柄を選んで申し込む。納期や料金などの条件が折り合えば、取引成立です。便利な時代になったものですね。

 お願いした珍飯さんは、なんとプロの漫画家さんでもあります。空廼カイリさんという名義で、何作も作品を描かれています。こちらの希望や意図をくみ取って、想像以上の構図を提示してきます。さすがはプロですね!

 

空廼カイリさんの作品。実際に読んでいただくと、画力の高さが分かります。インコ愛に溢れた、日常系の漫画です。インコにパートナー認定されたら、こんなに慣れるとは知らなかったです。

 

 今回の表紙絵は、作品中の1シーンを切り取ったものです。賀茂川節句の向かい礫で、対岸にいる「石ぶん(スタッフスリング)」持ちたちを、投石紐を使って打ち散らそうとしている場面になります。いろいろ相談した結果、珍飯さんが提示してこられたラフはこちら。

2パターン提案していただきました

 構図として2案いただきましたが、左のAにしました。次郎の紐に礫を詰めている少年の目線から見た、ちょっと変わった構図にしたかったからです。

 でもこうして改めて見てみると、Bも迫力ありますね。(続く)

 

 

白河印地党について~その③ 白河印地党と禁裏の砂

 上杉本「洛中洛外図」において、御所はどのように描かれているのか?どうやらここでは正月の風景を描いているらしく、前庭において元日節会の行事である舞楽が行われている様子を見ることができる。そしてこの庭には、真っ白な砂が敷き詰められているのが分かる。江戸時代の文献には「この白砂は白川の源流、白川山の石を細かく砕いて砂としたものを使った」とある。

 

上杉本「洛中洛外図」より。禁裏の御庭には、目にも鮮やかな白い砂が、敷き詰められているのが分かる。

 瀬田勝哉氏はその著書「洛中洛外の群像」の中で、甲子園の砂のように、御下がりの禁裏の白砂が尊いものとして、京土産に使用された例を紹介している(その白砂は結局、偽物だったのだが)。

 

知的好奇心を満足させる1冊。洛中洛外図に残された景観をきっかけに、戦国期の京について考察しているので、イメージが湧きやすい。京童たちの生活が匂ってくる。

 

 そうしたことを踏まえて、この白砂は毎年暮れには敷き替えられたのではないか、そして古い白砂は下賜されたのではないか、と推測している。下賜されたとするならば、それは庭のメンテナンスに関わっていた検非違使、そしてその配下である庭園河原者だ。その砂は、邪を払う霊力が込められた砂として、何らかの価値を持ったものだったろう、とも述べている。

 この説にいたく感じ入ったので、拙著「京の印地打ち」においても、この白砂を登場させている。小説の中では更に話をふくらませて、白砂の入れ替えは、白河の者が関わることにしてある。白河印地は、この白砂をいざというときの目つぶしとして使う。みかどの霊力が込められたこの白砂を使って、敵の目から姿を眩ますのである。

 中世の人々に対する祈祷や呪術に対する影響力は、我々現代人には想像できないほど大きく、そのプラシーボ効果たるや絶大だったろう。(終)

 

 

<このシリーズの主な参考文献>

・京都の歴史 京都市編/京都市史編さん所/学芸書林

・洛中洛外の群像/瀬田勝哉 著/平凡社

・中世の非人と遊女/網野善彦 著/講談社芸術文庫

・日本中世の百姓と職能民/網野善彦 著/平凡社ライブラリー

・その他、各種論文を多数参考にした

 

白河印地党について~その② 白河印地党の正体

 何故に白河に、印地の党ができたのだろうか?実はよく分かっていない。以下は個人的な見解になるのだが、白河には平安期、法勝寺を代表とする六勝寺が建てられていた。200年余りで廃れてしまい、今は跡形も残っていないが、白河期に建てられたこれらの寺は、国王の氏寺としての位置づけで格式も高かった。こうした白河の地に、神人を母体とする印地打ちたちが生まれたのは必然であったのかもしれない。

 では、彼らは何をして食べていたのか?これもよく分かっていない。当然、白河には田畑があり、農民たちが住んでいた。だがこれら「きちんとした」自営の農民たちが、印地の党を形成していたとは思えない。本百姓や脇百姓ではない、下人層だとしたらどうであろうか。土地を持たない彼らならば「遊手浮食の輩」の中にカウントできるかもしれない。ただ身分的には地主層に隷属していたはずだから、そんな自由があったかどうか。これも厳しそうだ。

 神人層が母体であったとするならば、何かしらの職種を担当していたはずだ。ひとつ考えられるのは、運送業者である。「鳥羽の車借」と共に、「白河の車借」という言葉も残っているのだ。そう考えると、白河と鳥羽は似ているのが分かる。それぞれ法勝寺・安楽寿院(鳥羽殿にあった寺院)といった大きな寺社があり、付随して厩があった。みやこに近く交通の要衝で、車借の根拠地であった。双方とも印地の党があった。白河と鳥羽に関して言えば、車借たちも印地党の一翼を担っていたかもしれない。ただ車借たちを「遊手浮食の輩」として扱っていいかどうかは疑問に残る。

 先の記事で紹介した、印地の大将・鬼一法眼は陰陽師だ。陰陽師は官に仕えるれっきとした役人であったが、ここでいう陰陽師はそういうものではなく、自称・陰陽師、つまりは声聞師(しょもじ)のことだろう。声聞師に関しては別のシリーズで取り上げるが、祝い事を主とした芸能を以て生計を立てていた非人、つまりは被差別階級に属する人たちであった。各地を遊行して芸を見せていた声聞師たちならば、「遊手浮食の輩」に当たるかもしれない。

 加えて白河印地の本拠近くには「薬院田」があったと記されている。「薬院田」とは何か。よく分かっていないが、恐らくは施薬院、つまりは孤児や貧窮者などを保護・収容する施設が有していた田畑、を指すと思われる。白河印地党がそうした人々を内包していたと考えるならば、「遊手浮食の輩」や「無縁」というキーワードで繋がる、例えば河原者たちとの関連性も伺える。

 ここからは想像になってしまうのだが、神人層の中にも時代の変化による階層分化に適合できずに、もと居た場所からはじき出されてしまったアウトローたちが、少なからず存在したのではなかろうか。拙著「京の印地打ち」の白河印地衆は、強請・押し入り、そして辻相撲の行事などの荒事で生計を立てている、半グレ&ヤクザに近い存在として描いてある。(続く)

 

上杉本「洛中洛外図」より。辻々で行われていた相撲は、賭けの対象でもあった。勝敗を仕切る行司は、興行主でもあったのだろう。

 

 

白河印地党について~その① 印地のエリート白河印地

 拙著「京の印地打ち」で登場する白河印地衆。作中では、強烈な個性を持つ悪党の集団として描いている。この白河印地、軍記物である「義経記」に出てくる集団だ。「義経記」は平安末期が舞台である。この物語の中で、義経を助ける偉大な印地打ちとして「鬼一法眼」が登場する。実在した人間とは思えないが、彼は京の剣流の元祖である「京八流」の開祖としても伝えられている。

 この鬼一法眼の一番弟子にして娘婿に、「湛海坊(たんかいぼう)」という印地の達人が出てくるのだ。彼は北白川の出、とされている。これも実在した人物とは思えないが、モデルはいただろう。そのモデルは白河にいた神人だったと思われる。

 また同書には、在京している義経を暗殺するために、土佐坊昌俊が手勢百騎の他、「白川印地五十人」を率いてその寝所を襲った、ともある。これらも神人らであるとするならば、僧兵である土佐坊昌俊が率いるのに相応しいといえる。

 

歌川広重作の「義経一代記第八回 五条の社に牛若丸白河の湛海を討取」より。江戸期の作品なので、湛海坊は如何にも僧兵、という出で立ちで描かれている。

 

 ただ「義経記」は後年になって(南北朝末期~室町初期辺り)成立した物語性の強い軍記物なので、平安末期のことをどこまで正確に伝えているかは疑問に残る。その時代に見られる事柄を、昔もあっただろうということにして、創作してしまう場合も見られるからだ。

 確かに一番信頼できる古い記録として確認できるのは、鎌倉時代、1263年に発せられた「公家新制」である。この中には「白河の薬院田の辺りにいる、印地と称する悪党」との記載がある。この時代から既に、白河印地は悪名高かったようだ。また時代が下って室町時代、1427年の「満済准后日記」にも、祇園御霊会において「京の者」と「白川イムチ」の印地合戦があって、双方3人ずつが死んだ、とある。幕府の軍兵がこれを抑えるために現場に赴いたところ、制圧するどころか向こうから矢を射かけてくる有様で、傍観せざるを得なかった、とある。流石は白河印地、印地のエリートである。

 その他、各地にも印地の党はあった。例えば鳥羽。1443年の「看聞御記」に「鳥羽で行われた節句の向かい礫で、横大路の者が殺された」とある。この時は復讐が復讐を呼び、また周辺の郷がそれぞれに味方するなど、鳥羽vs横大路の合戦に近い大騒動になったらしい。

 また南北朝時代の「新札往来」には「白河鉾の入京の際、ややもすれば六地蔵の党と喧嘩を招く」といった記載がある。室町時代中期の「尺素往来」にも、ほぼ同じような内容の「白河鉾の入洛の際、六地蔵の党が例のごとく印地を企て喧嘩を招いた」との記載がある(前書が種本になっているだけかもしれないが)。白河党と六地蔵党との間に、どんな因縁があったのかは分からないが、さぞかし激しい向かい礫が繰り広げられたことだろう。この他、記録に残っていないだけで、後世に伝わることなく埋もれてしまった印地の党は、たくさんあったに違いない。

 さて拙著「京の印地打ち」は、戦国時代の京を舞台にした印地打ちの話である。主人公は「六条衆」という印地衆に属していることになっている。印地の党、ではなく印地衆、というのがミソだ。これは集団での印地戦を「趣味」として行動する衆である。特に主人公が属する「六条印地衆」は地縁・血縁によらない愚連隊的集団として設定してある。このような集団が存在した歴史的事実はない。あとがきにも書いたが、宗教的な繋がりなしに、こうした愚連隊的集団が戦国期の日本において存在することは、あり得なかっただろう。

 ただ、白河印地党をモデルとした「白河印地衆」や、声聞師の集団である大黒党を母体とした「大黒印地衆」のような衆ならば、似たような組織があり得たかもしれない・・と想像を逞しくするのも、また楽しからずや。(続く)

 

印地について~その⑥ 日本近世~近代編

 天下統一が成り、戦乱の世も終わった。独立色の強かった様々な集団は、あらかた潰されるか、権益を取り上げられ幕藩体制という新しい仕組みの中に再編されていった。平和と秩序の時代の到来である。

 発生するたびに死者が出る向かい礫など、お上にとっては百害あって一利なし。当然、禁令を出した。いや禁令はこれまでも出ていたのだが、どこか腰の引けているものであって、例えば鎌倉幕府北条泰時に至っては「あれを禁止すると飢饉が起こるといって、騒ぎになるから放っておけ」と言ったものである。

 しかし既に中世は終わり、新しい時代となっていた。寛永の頃に禁止令が出されているようで、これ以降、死者が何十人も出るような、凄まじい向かい礫は減っていったようである。禁令が効いた・・というよりも、そうした中世的な荒々しい行事を、人々が望まなくなっていた、ということだろう。飛礫の主体を担った「印地の党」も既にない。節句の行事としての向かい礫は姿を消し、菖蒲の葉を束ねたものを刀に見立て打ちかかる、そうした無害なものだけが残った。

 

江戸時代の風俗絵より。子どもたちが束ねた菖蒲の葉で打ち合っている。

 こうして、印地打ちたちは歴史から姿を消してしまったのである。

 ただ、童たちの遊びとしての向かい礫は残った。江戸時代の書物には、各地で童たちが石投げに興じる図と説明文が多く見られるし、昭和の初期くらいまで、石投げ遊びの記録が日本各地に残っている。大抵は、隣村の子どもたちと村境で行っていたようだ。

 まず罵り合いから始まり、次に石を投げ合う。そのうち誰かに当たって血が流れる。当てた方が蜘蛛の子を散らすように逃げてしまって、終わりとなる。当てた方が「ヤバい!」とばかりに逃げる、というのが面白い。江戸時代から連綿と続いてきた習俗なのであろう。

 石投げという行為自体は、勿論それ以降も見られる。江戸から明治にかけての、いわゆる百姓一揆や小作争議などの抗議運動のさいには多用されていた。戦後の学生運動で過激派たちが機動隊に対して投石攻撃を行っていたのは、まだ記憶に新しい。ただ昔と違って、現代社会では地面にそう石は落ちていない。そこで彼らはどうしたかというと、道路の石やコンクリートを剥がしてそれを投げる、という迷惑千万な術を編み出したのである。それだけでなく、火炎瓶も投げていたのだが。(終)

 

<このシリーズの主な参考文献>

・京都の歴史 京都市編/京都市史編さん所/学芸書林

・つぶて/中沢厚 著/法政大学出版社 ものと人間の文化史41

・日本の聖と賤 中世編/野間宏沖浦和光 著/河出文庫

・日本中世に何が起きたか 都市と宗教と資本主義/網野善彦 著/洋泉社

・その他、各種論文を多数参考にした