根来戦記の世界

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中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑥ 他宗をもその内に取り込んだ、空海の先進性

 空海により日本にもたらされた密教の教え。空海はそれに独自の解釈を加え、更に発展させる。彼が打ち立てた真言の理論は、天才が収集・編纂した故に、それ以上の解釈や発展がなかなか進まなかった、と言われているほどである。彼の先進性を示す一端として、「十住心論(じゅうじゅうしんろん)」の障りの部分だけ紹介してみよう。

 正確には「秘密曼荼羅十住心論」というこの著作は、そもそもは淳和天皇が各宗派の第一人者に「それぞれの教義を記して提出せよ」と下した命に応え、空海自らが著して提出したものだ。

 この著作で空海は、仏教における密教の立ち位置を素人でも分かるように定義している。その定義を表にしたのが、下記の画像である。

 

末木文美士氏著「日本仏教史」の本文中にある解説を基に、ブログ主が表にした。表にある通り、空海は人の悟りに至る段階を10のレベルに分けた。レベル1~3は仏教以前の段階であり、レベル4からが仏教の教えに相当する。南都六宗のうち、3つの宗派がレベル6~9の間に位置付けられている。(成実宗倶舎宗がないが、それぞれ三論宗法相宗の基礎学、という位置づけのようだ。律宗もないが、「戒律の研究と実践を主とする学問」として捉えており、ここでは宗派として扱っていないようだ。)空海が作り上げた、気宇壮大かつグローバルなこの概念図であるが、実のところ、1000年後の日本の新興宗教にも多大な影響を与えている。昭和初期に流行したとある新興宗教は、空海の作った概念図の対象を広げ、キリスト教イスラム教、はてはギリシャ神話まで含む世界の諸宗教まで内包した教義を作り上げ(勿論、頂点は教祖である自身である)、これを「超宗教」と称した。そこから分派した新興宗教の中には、ご丁寧に世界中の宗教の開祖や偉人たちを、それぞれこうした表の中に位置付けているものまである。教祖の主観100%で作られたこの「霊界ランキング」には、表の原案者である空海もそれなりに上位にランキングされてはいるが、同位に松平定信エジソン福沢諭吉内村鑑三らが並んでいる。同じレベルで偉い、ということらしい。

 

 この表で見えてくる空海の言いたいことは、つまりこういうことである――人は誰でも仏になれる可能性を秘めているが、表にある通り、最高位である大日如来の境地に辿りつけるのは、唯ひとつ密教の教えのみである。しかしながら他の教えも(程度によるが)、それぞれ真理に近いところにはいるのだ。そういう意味では既存の仏教の各宗派の教えは(仏教ではない儒教道教ヒンズー教でさえも)、間違っているわけではない。それどころか、なかなか良いものであるとさえいえる。しかるべき段階に来たら、最終的に密教に辿り着けばいいのだ――

 つまり、これまで日本の仏教界を牛耳っていた「南都六宗」を否定していないのである。それどころか、逆にそれを内部に取り込んでしまっているのだ。

 このように、他宗の教えを自らのうちに取り込む、または混交していることを「シンクレティズム」と呼ぶ。広い意味では「神仏習合」もそれであり、この時期に発展しつつあった「修験道」もそうした性格を持つ。しかしここまで丁寧に理論立てて整理し、体系の中にカッチリ取り込んでしまったところに、彼の偉大さがある。

 この理論はまた、敵を作らないやり方でもあった。この時点で、密教は日本に来たばかりの新興宗教であり、既存の宗教勢力から敵視されてもおかしくない。にもかかわらず、空海東密南都六宗と盛んに交流を行っている。この考え方によると、密教に至るまでの前9段の教えは否定されるべきものではなく、「密教的真理の段階的な現れ」として捉えられるからだ。密教の教えは、このように既存の南都六宗との境界線が緩かったから、両者の関係性は決して悪いものではなかったようである。

 空海は処世術にも、巧みな印象がある。空海高野山を、最澄比叡山をそれぞれ開山している。これまでの南都六宗は都市に拠点を置く「都市仏教」であったのだが、両山の開山によって俗世から離れた「山林仏教」への道が開けたわけである。しかし空海最澄と違って、都市仏教を排撃するような姿勢を取らなかった。事実、真言密教の総本山は京にある東寺であり、高野山はあくまでもその末寺、という位置づけであったのである。

 見方によっては狷介ともいえる、空海の世俗権力や既存の宗教勢力との妥協融合の巧みさであるが、先述した通り、彼の行動は広大な理論体系に裏付けられているのである。いろいろな意味で、空海は日本人離れしたスケールの大きな思想家であった。(続く)



中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑤ 目指すところは「スーパーマン」 密教の教えとは

 密教はインドにおいて発生した、仏教の一派である。初期の密教は呪術的な要素が多く入っており、極めて土俗的な性格が強いものであった。こうした初期密教を「雑密」と呼ぶ。例えば、初期に成立した「孔雀王呪経」は毒蛇除けの護身呪であり、おまじないに近いものだった。

 だがその後、インドでは後発のヒンズー教が急速に力をつけてくる。これに対抗する必要上、密教の理論化が進んだため、洗練された教義に生まれ変わった。これが中期密教である。

 唐が西域まで進出したことにより、8世紀前半にインドから中国に入ってきたのが、この中期密教であった。伝えられたのは、主に「大日経」と「金剛頂経」の2つの経典であるが、この2つは中国においては、別のグループによって確立され、それぞれ胎蔵部・金剛界部と称された。この2系統の密教を統合したのが、空海の師であった青龍寺の恵果である。

 本場のインドや中国においては、この後、密教は廃れてしまうわけだから、中期の密教では恵果から伝法を授かった空海こそが、この世に唯一残された正統な系統、ということになる。(なお後期密教チベットに伝えられ、そこで発展した)

 さて肝心の密教の教えというか教義であるが、畏れを知らないブログ主が理解したところを、拙いながらも述べてみようと思う。明らかな間違いや事実誤認があったら、コメント欄にでもご教示いただけると幸いである。

 まず密教は「仏に成るには、どうしたら良いか」を実践目的とする宗派だと言える。その究極の目的は、生きたまま仏になること。これを「即身成仏」と呼ぶ。ここでいう「仏」とは、人が到達しうる最高の状態を指す。密教でいうところの最高の状態とは「神秘の力を纏い、大宇宙大生命体(=大日如来)と一体となる」ことを意味する。

 従来の仏教の教えは、現世を否定する方向にあった。それ故に「無我・空」、つまりは「生死煩悩を解脱して、覚りに達する」ことを目指していた。これとは逆に密教では、現世を肯定する方向にある。

 これまでの教えとは真逆のベクトルなのであり、そこが革命的だったのである。つまり人間の可能性をどこまでも信じ切るのが、密教の教えだと言ってもいい。

 では人が仏になるには、具体的にはどうしたらよいのだろうか?

 仏になるとは、つまり悟りを得ることだ。それには、仏を実感することが大事である。仏を実感するために一番いいのは、拝んで瞑想すること。拝むことで、自分の中にある仏という可能性が膨らむのだ。

 だが、ただ拝むのではダメなのである。正しい教義を理解したうえで、正しい所作をもって行うことが大事で、そこを守らないと意味がないのである。正しい教義、これを「教学」という。正しい所作、これを「修法」という。この2つは両輪の車で、どちらかが欠けても両立しないのである。この2つをきちんとした上で瞑想して、初めて意味を成すのである。(より正確に言うと、行軌により仏の印契を結ぶ「身密」、仏の真言を唱える「語密」、心に本尊を念ずる「意密」、この3つを「三密」といい、これが揃っていないとダメなのである。)

 密教真言には、凄い力がある。なにしろ仏になれるくらいの力があるのだ。だから雨を降らせたり、敵に仏罰を与えたり、疫病の流行を収めたり、などの超常現象を起こすこともお茶の子さいさいである。これがいわゆる「加持祈祷」である。

 密教の加持祈祷は、これまでのいわゆる原始的な「神頼み」とは決定的に違う。これまでの加持祈祷は「無力な人間が、神仏の慈悲にすがる」という図式であった。しかし真言の加持祈祷は、「自らが真理と融合して仏となり、その力を以て衆生を救済する」のである。

 加持祈祷する自身が仏、つまりスーパーマンと化して奇跡を行うのだ。密教の考え方では、神仏はもはや人が畏怖する対象ではなくなっている。自らがそれに比する、或いは超える存在になるわけだから、畏れる必要がないのだ。これまでの神仏と人間の関係性が、劇的に変わっているのである。まとめると、真言の寺に課された役割は主に2つあるといえる。

 

・自分が「即身成仏」となって、弟子をそこへ導く

・その力を以て、国や人々を守る「鎮護国家

 

 つまりはとことん現世利益を追求した宗派、といえる。「現世での望みを叶えてくれる」という、この最新の教えをひっさげて登場した空海を、当時の日本の支配者層は熱狂的に迎えたのであった。

 

弘法大師こと空海像。日本史上に燦然とその名を遺す天才である。全国津々浦々の温泉を独鈷所で掘り当てた、究極の温泉マニアでもある。北から南まで、その数は分かっているだけで数百に及ぶのだ(健脚!)。日本各地の人々を喜ばせたわけで、流石は現世利益を追求した真言宗の開祖のことだけはある。

 

 京に帰った後の空海は、水を得た魚のように精力的な活動を行う。国家の要請に応え、大祈祷会を開催し「鎮護国家」を行いつつ、数多くの後進を育て弟子たちを「即身成仏」へと導いた。その上で、唐より持ち帰った密教の教義を更に発展させ、独自の理論を打ち立てていく。

 817年には高野山の創建に着手、823年には官寺であった東寺を賜る。以降、東寺は密教の専修道場となり、空海密教は「東密」と称されるようになるのだ。(続く)

 

中世に至るまでの、日本における仏教とは~その④ 最澄と空海・平安期が生んだ2人の天才

 奈良期は日本の歴史上、仏教が最も権力と結びついた時代である。それがピークに達したのが、769年に発生した政治僧・道鏡による皇位簒奪の動きである。この企て自体は失敗したが、こうした動きに象徴されるような寺社勢力の強大化、そして僧侶の退廃ぶりも目立つようになってきた。

 794年、桓武天皇による平安遷都が行われる。目的のひとつは政界からの寺院勢力の排除であった。「仏教都市」であった平城京には、数多くの巨大寺院が存在したが、新都である平安京には(当初は)東寺と西寺、この2つの官寺しか許されなかったのである。

 桓武天皇は他にも、新規の造寺・寺院による土地購入・営利事業の禁止などを定め、寺社勢力の力を抑えにかかっている。仏教の世俗への介入を制限し、学問としての立ち返りを意図したのである。そうした甲斐あってこの時期、教義・学問面における論争が盛んになった。こうした時に登場したのが、最澄空海である。この2人の巨人の出現によって、日本の仏教は新しいフェーズに突入するのである。

 まずは最澄の紹介から。762年に近江滋賀郡の裕福な渡来系の家に生まれる。7歳のときに仏道を志し勉学に励み、19歳のときに東大寺で出家得度した。その後、比叡山に籠ること12年間、ひたすら修行と学問に励んだ。31歳の時、内供奉(ないぐぶ)という天皇に近侍する役に任じられる。その輝くばかりの才能と学識が評価され、桓武天皇のお気に入りとなる。以降、法華経の講義を始めたり、南都教学の諸師と共に天台の著作の講義に携わるなど、華々しい活躍が始まる。

 次に空海について。774年生まれで、最澄とは7歳年下である。讃岐国多度郡の生まれで、学問を始めたのは比較的遅く、15歳の時であった。18歳で当時の官僚養成機関である、京の大学寮に入っている。本格的な仏教の勉強を始めたのは、19歳の頃からのようだ。その後の修行経歴は明らかではないが、異能の人だったことは間違いなく、特に語学・文筆の分野においては天才的な才能を持っていたようだ。

 2人とも、804年の第18回遣唐使の一員として選ばれている。最澄桓武天皇自らの指名により、まだ日本に来ていなかった天台宗を学ぶため、多額の支度金(金銀数百両とも)を支給されての渡航であった。当時の日本の仏教界では有力な寺同士の教義解釈の違い――特に法相宗三輪宗との間で、激しい論争が行われていた。これを「空有の論争」と呼ぶが、実に100年近く続いている論争であった。「この両者の争いを包括的に収めることができる教義は、天台宗にある」と主張したのが最澄で、「じゃあ、お前が行って学んで来い」ということで選ばれたのであった。一方、空海は期間20年の長期留学生としての渡航であった。空海が選ばれた理由は不明であるが、特にその語学の才能が評価されたものと思われる。

 第18回遣唐使は4隻の船で構成されていたが、曲がりなりにも唐にたどり着いたのはその半分、空海が乗船していた第1船と最澄の第2船だけで、そういう意味でもこの2人が「持っていた」ことが分かる。

 804年9月に明州に着いた最澄は、天台山を中心に教えの伝授を受け、また天台宗関連を中心とした経典の書物(120部345巻とも)の入手に奔走した。当初の目的は十分果たしたので、予定通り次の年の3月には帰国するため明州に向かっている。そこで帰りを待つ間、越州龍興寺まで足を延ばし、当時流行していた密教を慌ただしく学んでいる。6月には対馬に着いているから、在唐期間は1年に満たない。

 一方、空海の乗っていた第1船は航路を外れ、8月に福州の長渓県というド田舎に漂着、そこで海賊の疑いをかけられてしまう。そこで嫌疑をさらすため上奏する嘆願書を書いたのが、一介の留学生に過ぎないが、文の達人であった空海であった。一行はその甲斐あって釈放されたが、そこから長安に辿り着くまで4か月もかかっている。結局、空海長安において本格的な勉強を始めたのは、翌805年の2月からである。

 5月になり、空海青龍寺・恵果和尚の元に弟子入りすることになる。この恵果和尚こそ、唐における密教の正統な継承者であり、唐の皇帝三代までもが師事を乞うたほどの高僧だったのである。驚いたことに恵果和尚は、遥か彼方から来た蛮族出身のこの新参者に、いきなり奥義伝授を開始するのである。

 その3か月後の8月には、空海は恵果より伝法阿闍梨位の灌頂(免許皆伝のようなもの)を受けている。それだけではなく、なんと正式な後継者の証である伝法印まで授かっているのだ。入社して間もない田舎者の新入りが、いきなり次期社長に選ばれるようなもので、信じられないスピードである。この4か月後の12月に恵果和尚は遷化してしまうのだが、このとき全弟子を代表して碑文を起草したのは、空海であった。

 その後、空海は20年の予定であった留学の予定を切り上げて、在唐期間わずか2年足らずで日本に帰国するのである。なぜ彼が帰国を早めたのかは分からないが、唐の役所に届け出た公の理由は「滞在費用がなくなったから」であった。空海は806年の10月には九州・博多に着いているが、独断での早期帰国であったため帰京の許しが出ず、2年ほど大宰府に滞在している。

 空海の帰京に力を貸したのは、最澄である。一足先に帰京し、天台宗を興した最澄であったが、当時の日本の支配層が欲していたのは、これまでの南都六宗と大差ない(ように見えた)天台の教えではなく、密教の教えであった。最澄は、皇族や貴族層らのそうしたニーズに応えて、帰国直前に越州龍興寺で学んだ密教の灌頂や祈祷を行ったのだが、これが大ウケしたのである。最澄の庇護者・桓武天皇などは大喜びで、「これまで密教は日本に伝わっていなかったが、最澄がこの道の達人となって日本に教えをもたらしたのは、素晴らしいことである。彼こそ国師である」といった旨を述べている。

 

天台宗の開祖にして比叡山を開いた、伝教大師こと最澄。間違いなく天才であったのだが、異能の人・空海に比べると、どうしても秀才のイメージになってしまうのは否めない。彼が日本にもたらした天台宗は、宗派としてはそこまで目新しいものではなく、実のところ既に日本に来ていた南都六宗よりも古いものであった。そういう意味では、天台の教えは南都六宗とそこまでかけ離れたものではなかったから、唐で学んだそのままでは新味がなかったといえる。

 

 しかし先の記事で述べたように、越州龍興寺にて最澄が受けた密教のトレーニングは慌ただしいものであり、学んだ真言も亜流であった。空海が学んだ密教こそが正統本流のものであり、また自身も恵果から伝法を授かった、正式な後継者でもあったのだ。空海は809年に入京しているが、最澄はすぐに空海に弟子入りする形で正式な密教を学んでいる。以後、こうした関係が7〜8年ほど続くが、ある事を契機として2人の仲は決裂、それぞれ別の道を歩むことになるのだ。

 それにしてもなぜ、当時の人々はそこまで密教に熱狂したのだろうか?それを知るには、密教の基本理念を知る必要がある。

 次の記事では密教の教えのユニークさと、空海の構築した壮大な理論について、ブログ主の理解した限りでなるべく平易に述べてみようと思う。(続く)

 

中世に至るまでの、日本における仏教とは~その③ 神仏習合と、奈良期の「南都六宗」について

 そんなわけで、この時期本格的に国政に仏教が入ってきたのであるが、今まであった日本古来の神道はどうなったのか。他国においてはこういう場合、今まで信ぜられていた宗教は破棄、ないしは上書きされてしまう場合が多いのだが、日本においてはそうならなかった。

 そもそも仏教が伝来した時から、日本の人々によって「神」と「仏」は、漠然と同じようなものとして信仰されていた。仏は「蕃神」つまり「外国の神」として捉えられていたのである。また仏教は初めはバラモン教、後にはヒンズー教が強かったインドで生まれ、発展していった宗教であったから、多神教的な味付けを加えられていたことも大きい。古代日本人の一般的な認識としては、あくまでも「外国の神ではあるが、八百万の神々のひとつみたいなもの」だったのである。

 仏教が日本に伝えられてきてからしばらくの間、こうしたなんとなく曖昧な状況が続いた。646年の「大化の改新」以降、律令制が制定される。律令制自体には、はっきりした仏教的思想は取り入れられていないが、仏教保護の動きは続いた。

 「壬申の乱」を制し、673年に即位した天武天皇は、一時期僧であったこともあり、仏教統制を強めると共に、地方への普及を図っている。741年には聖武天皇により、日本各地に国分寺と国文尼寺の設立が命ぜられる。この時できた、大和国における国分寺東大寺なのであるが、この東大寺に国家的プロジェクトとして巨大な廬舎那仏――つまり「奈良の大仏」が造られ、開眼したのが752年のことである。

 このように仏教の存在感がますます増してくるなかで、神仏の関係性にも変化が出てくる。それを端的に示すのが、この頃より見られるようになる「神宮寺」という種類の寺院である。これは神社の境内に付随して建てられた寺院や仏堂のことを指すのだが、考え方としては「人々を救う存在である仏が、神をも救う」というものである。神が仏にすがり解脱を求める、このような考え方を「神身離脱」と呼ぶ。また仏教には仏の教えを守る「八部」という護法善神がおり、これは先ほど述べた「仏教の多神教的味付け」のひとつなのであるが、こうした要素も影響しているものと思われる。

 神道の本山ともいえる伊勢神宮であっても、かつては「伊勢大神宮寺(逢鹿瀬寺)」という神宮寺が存在しており、そこには称徳天皇が寄進したという、高さ約5メートルの立派な仏像があったのである。(ただし流石に強い抵抗があったらしく、この神宮寺は伊勢神宮とは相当離れたところに建てられたうえ、早くに廃寺になっているのだが)

 神社にある「仏が神を救う(守る)」のが神宮寺だとするならば、これとは逆に寺院にある「神が仏を守護する」神社もあり、これを「鎮守社」と呼ぶ。奈良の大仏を造営する際、宇佐神宮がその成功を祈願しており、東大寺に八幡様を勧請してできた鎮守社が、東大寺近くに今も残る手向山八幡宮である。

 このように両者は互いに補完しあう関係性にあったわけだが、大勢としては寺の方が上位にあった。それを象徴するのが、かつて行われていた神前で祝詞を奏上するのではなく、経を唱える「神前読経」という仏事である。こうした動きは7世紀後半には始まっていたようだが、その逆の仏前で行われる神事はないのである。

 こうした実情を追認するように、曖昧であった仏教と神道との関係性を、教理上で整理する動きが出てくる。そこで10世紀頃に出てきたのが「仏・菩薩が、仮に日本の神の姿をとった」とする考え方である。このように神道を仏教の立場から理論的に説明する神道理論を「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」説と呼ぶ。この考え方に則ると、例えば「阿弥陀如来」の垂迹は「八幡神」となり、「大日如来」の垂迹は「伊勢大神(アマテラス)」となる。つまり各種の仏と神との融合が図られたのであった。

 こうして「神仏習合」という、日本独自の宗教制度?が出来上がったのである。この奇妙な制度は、以後日本においては江戸時代が終わるまで、1000年に渡って続くことになるのだ。

 

江戸期までは日本全国、多くの神社に見られた神宮寺だが、明治の神仏分離令によって、殆どが破却されてしまった。広島の厳島神社の隣には、かつて神宮寺であった大願寺が今も残っている。当時の神仏習合がどのようなものかよく分かる例として、昔の厳島神社への参拝者は「まず大鳥居をくぐり、大願寺近くの砂浜に上陸した後、寺の大風呂で身を清め、僧坊で休憩、着替えをして嚴島神社に参拝した」そうである。またこれとは逆に、寺を守る鎮守神が残っている例として有名なのが、画像にある奈良の宝山寺である。由緒ある寺で今も賑わっており、参詣客が行き交う参道には石灯籠が立ち並んでいる。更に先を歩いていくと、しめ縄のかかった巨大な鳥居が出迎えてくれるのだ。ただし宝山寺の聖天堂に祀られている鎮守神は、ヒンズーの神・ガネーシャが元である八部の歓喜天であり、「本地垂迹」の考えに則った日本の八百万の神ではない。それ故に、神仏分離令の影響をあまり受けなかったものと思われる。

 

 このような経緯で神道との共存を果たした日本仏教であるが、肝心の仏教の教えそのものは、奈良から平安期にかけて、どのような発展を遂げたのだろうか?

 飛鳥期に入ってきた大乗仏教は、新しい宗教であると同時に「総合文化芸術」的なものとして捉えられていたのは、先の記事で述べた通り。奈良期には、その中でも特に学問的な部分が発達した。奈良期のこうした学問仏教を「南都六宗」と呼ぶ。

 六宗とは、三論宗成実宗法相宗倶舎宗華厳宗律宗の6つを指すが、これらはそれぞれ独立した「宗派」というよりも、「学派」と表現したほうがいい関係性にある。奈良期における仏教は「一寺一宗」ではなく、1つの寺で複数の宗派が教えられているのが普通であった。そもそも「南都六宗」という呼び名も、当時東大寺に在籍していた宗派の数からきているのだ。

 今回の記事では、それぞれの学派の教理についての解説をするつもりは(能力も)ないが、成実宗倶舎宗律宗の3つは戒律を重視する部派仏教系、三論宗法相宗華厳宗の3つは大乗仏教系であったようだ。また最澄に言わせると、6つの中では華厳宗だけが経に基づく経宗、つまりは仏陀の説いた経典に基づく教義で、残りの5つは論と律に基づく学団、つまりは後の世の論者らが注釈・解釈した教義であるとのことである。

 それぞれ時期によって流行り廃りがあるが、この6つの中で盛んだったのは、華厳宗法相宗である。東大寺にある「奈良の大仏」の正式名称は「廬舎那仏」であるが、これは華厳宗の経典でいうところの仏の姿なのである。東大寺はのち、華厳宗の総本山となる(ただし他宗の兼学も続けられた)。

 東大寺の隣にあった興福寺は、のち法相宗のみを修学する一宗専攻の寺となる。興福寺藤原氏の氏寺であったので、その富と権力は法相宗の教理・学問面をよく支えたのである。更に中世に入ると、興福寺は大和一国を支配下に置く強大な寺社勢力として栄えていくことになるのだ。

 

1760年頃に描かれた「春日興福寺境内図」。地図の上半分が春日大社、下半分が興福寺である。両社を併せた境内の広さは、相当なものだったことが分かる。寺院と神社の神仏習合には色々なパターンがあるが、興福寺春日大社は共に藤原氏が開いた氏寺・氏社であった関係性から早くから一体化され、10世紀ころからは「春日興福寺」と呼ばれるようになる。平安から室町期において寺社勢力は盛んに「強訴」を行うが、比叡山延暦寺が神輿を使用したのに対して、興福寺は春日社から神霊を移した神木を使用していた。春日大社では現在でも、1月2日に「日供始式並興福寺貫首社参式」という行事を伝統の一環として行っているが、これは興福寺の僧により神前読経が行われるという、今ではあまり見られない珍しいものなのである。また興福寺は京の祇園社(八坂神社)も末社として支配していたが、10世紀ころに勢力を拡大させた延暦寺に、その支配権を奪われてしまう。

 

 国家と仏教が強く結びつき、その庇護のもと仏教の教理研究は大いに進んだ。しかしながら一般の民衆とは乖離があった、と評されているのがこの時代でもあった。この頃の仏教は、宗教と呼ぶにはあまりにも学問的側面が強すぎて、庶民を救うものではなかったのである。(続く)

 

中世に至るまでの、日本における仏教とは~その② 「総合文化芸術」仏教に魅せられた古代の人々

 日本にやってきた、仏教という新しい教え。しかし日本古来よりある神道を奉じる、物部氏をはじめとした豪族たちの強い反発にあい、敏達天皇は否応なく仏教の排撃を余儀なくされる。これに対し、仏教導入派である蘇我氏が反撃、物部氏らを滅ぼすことに成功する。以降、日本において仏教が発展することになる――というのが、かつてブログ主が学んだ大まかな歴史の流れであった。

 上記の説の根拠となっているのは「日本書紀」なわけだが、最近の説ではどうなっているのだろうか。物部氏の本拠地である河内国・渋川の地には、寺院の跡が残っていることから、物部氏はそこまで狂信的な廃仏派ではなかった、という説があるのだ。

 薗田香融氏の論文「東アジアにおける仏教の伝来と受容」によると、仏教を排撃した主体は物部氏ではなく、どうも敏達天皇自身だったらしい。しかし後世に編纂された「日本書紀」において、天皇が廃仏派であったことをあからさまに記すのは都合が悪いということで、物部氏が悪役にされた、という可能性があるようだ。

 物部氏を率いる物部守屋は、廃仏を実行する際に先頭に立っていたようではあるが、まず敏達天皇の意を汲み、その支持を得ることは重要だったはずだから、廃仏のスタンスを取るのは必然であっただろう。仮に物部氏が勝利していたとしても、日本における仏教導入の流れは止められなかっただろうと思われる。

 当時の日本にやってきた仏教は、単なる宗教ではなかった。経文研究のための学問、寺院建築のための土木建築術、仏像や仏具装飾に見られる芸術性、声明が持つ音楽性、そしてエンタメとしての華やかな仏式祭礼。こうした数々の分野が、ひとつのパッケージにまとめられた「総合文化芸術」的な存在は、今までの日本には存在せず、古代の日本人はこうした知的かつ芳醇な仏教文化に、すっかり魅せられてしまったのである。

 592年正月に、蘇我氏飛鳥寺の塔に仏舎利をおさめる行事を行っている。このとき仏舎利は、蘇我馬子の屋敷から大がかりな中国式の葬送儀式を模して運ばれている。蘇我馬子とその息子は、従者100人以上を従えてこの行列に参加したが、みな中国式の弁髪を結い、百済服を着用したので見物人は喜んだ、とある。このように蘇我氏が行った大規模な仏式の催しは、先進国から来た最新のトレンドに則った、最高にイケてるイベントだったのであった。

 仏教に最後まで抵抗したのは、敏達天皇の例にあるように、天皇家であった。皇位の正統性は神道で担保されていたわけだから、当然ともいえる。しかしこうした流れには逆らえず、伝来から約半世紀たち、厩戸皇子聖徳太子)が摂政を務めた推古天皇の時代には、国家的な承認を与えざるを得なくなるのだ。

 

菊池容斎前賢故実」より聖徳太子こと厩戸皇子。言わずと知れた偉大な政治家である。その実在を疑問視する説もあるが、少なくとも厩戸皇子に値する人物がいたことは間違いない。皇族ではあるが、敬虔な仏教徒でもあった。知的レベルの非常に高い人であったようだから、仏教の持つ学問面には大きな魅力を感じたことだろう。推古天皇の時代に国政への仏教導入が進んだのも、甥であった彼が摂政であったからである。仏教経典の注釈書「三経義疏(さんきょうぎょうしょ)」は(議論はあるが)彼の作だとされており、もしそうだとすれば、そのうちのひとつ「法華義疏」は日本最古の肉筆文書であり、かつ厩戸皇子の直筆文書であるということになる。

 

 この時期(604年~)に導入された有名な制度に「冠位十二階制」と「十七条憲法」がある。このうち朝廷儀式の整備の一環として成された「冠位十二階制」は、儒教的発想に基づいた制度であるが、君臣間の新たなルールを定めた「憲法十七条」には、仏教の影響が大きく見られる。

 有名な、第一条「和を以て貴しとなす」であるが、これには続きがある。正確には「和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ」であり、この後半の「無忤爲宗」という言い回しこそ、大乗仏教が重視していた徳目なのである。続く第二条は「篤く三宝を敬へ」であるが、この三宝とは「仏・仏法・僧」を指すのである。このように、律令制の萌芽ともいえる制度に、既に仏教の教えが導入されていることが分かるのだ。

 また当時、隣の中国にあった超大国・隋は、仏教を篤く保護していた。そういう意味でも、仏教の国政導入は非常に役立った。小野妹子が607年に送り込まれた「遣隋使」は、正式な国使にも関わらず「隋の天子が仏法を復興されたと聞いたので、それを学びにきました」という体で送り込まれているのだ。

 つまりは仏教を利用した外交であり、これを成立させるためには、日本という国が「仏教による教えを基にした国政が行われている」という前提が必要であったわけだ。(続く)

 

30年ほど前のこと。大学の部室にあった単行本を、なんとなく手に取って読んだ漫画がこれであった。これまで妹が買っていた「りぼん」などの、月刊少女漫画誌を斜め読みしたことはあるが、こうした「大人向きの」少女漫画を読んだのは初めてのことで、激しく衝撃を受けたのを覚えている。少女漫画にも凄い漫画はたくさんあることを知り、おかげで世界が広がったのであった。山岸涼子樹なつみ萩尾望都などの先生方は、今でも大ファンである。内容は一言でいうと、厩戸皇子の人生を描いた漫画、なのであるが、ジャンルとしては「古代伝奇もの」とでも言うべきか・・・とにかく「死ぬまでに読まないと、人生で損をする漫画」のひとつである。

 

中世に至るまでの、日本における仏教とは~その① 古代日本にやってきた舶来宗教

 そもそもこのブログは、ブログ主の著作(といっても、現時点で2作しか出していないが)を紹介、というか宣伝するためのブログであった。1巻の舞台は1555年の京であるが、2巻で主人公はとある理由で紀州根来寺に行き、そこで行人方子院「大楽院」の親方、つまりは僧兵集団の小ボスになる。

 なのでこのブログ、最初は京都や根来寺に関する歴史ネタがメインであったのだが、いつの間にかそれ以外のことに話が広がってしまっている。ネタ筋はもちろん、ブログ主が興味のある分野の歴史に関することである。

 だが実は根来寺に関する大きなネタで、まだ触れていないものがひとつある。それは根来寺において発展し、伝えられてきた仏教の教義、つまりは「新儀真言宗」に関する話である。

 過去のシリーズでも紹介した通り、根来寺は室町から戦国にかけて、強大な軍事力を有した、紀州における一大勢力であった。泉南から紀州にかけての土豪らが「行人」と呼ばれる下級僧侶として、根来寺に競って参入したのである。彼らはそれぞれ行人方子院を建立し、根来寺はさながら宗教を母体とした土豪連合という体であった。

 このように根来寺の軍事力と経済力は、行人方子院らが支えていた面が大きかった。しかし肝心の根来寺の宗教的正統性、またその裏付けとなる学術面を支えていたのは、いわゆる学侶僧らであった。

 中世は権威や正統性を、非常に重視する社会である。学侶僧らの構築した、精緻な理論に裏づけられた権威があったからこそ、周辺の土豪どもは根来寺に参入したのだ。「高野に並ぶ、真言の本山」という権威・正統性こそが根来寺の求心力だったわけで、やはり「学侶僧あっての根来寺」であったのだ。

 このシリーズでは、根来の学侶僧とその理論についてフォーカスをあてて見ようと思う。そもそも根来寺を開いた覚鑁上人はどんな人であったのか、そしてその教えとは、どのようなものであったのだろうか?

 覚鑁空海以来の天才、と称されたほど、高い学識・カリスマ性を併せ持つ高野山の僧であった。35歳で伝法灌頂を受け、高野山に自らの子院である伝法院を建立。時の権力者・鳥羽上皇のバックアップを受け、遂には高野を統べる金剛峯寺の座主にも就任する。だが反対派の猛烈な巻き返しに遭い、命を狙われる。1140年に弟子らと共に高野を去り、紀州・根来にある豊福寺に逃れた。それが根来寺のはじまりとなる・・・

 覚鑁上人について簡単にまとめると、上記のようになる。

 では何故、彼は鳥羽上皇の寵愛を受けることができたのだろうか?彼は金剛峯寺の座主になって、何をしようとしたのか?守旧派に殺されそうになったのは、なぜなのだろうか?そもそも彼の教えは、どんなものだったのだろうか?

 その答えを知るためには、まずは日本における仏教の歴史を知る必要がある。しかし仏教の教義を含む歴史をまともに取り上げるとなると、それについての専門的なトレーニングを受けていないブログ主の知識と力量では、難解かつ壮大すぎて手に余るのである――なので、これまで手が出なかったのである。

 このシリーズでは、ブログ主が足りないながらも理解したところを、つらつらと記してみることにする。無礼があったら、なにとぞ御容赦いただきたい。また教義に関して、致命的な間違いがあったらコメント欄にでもご教示いただければ幸いである。

 まずは古代日本にやってきた「仏教」について。

 仏教が日本にやってきたのは、飛鳥時代である。公式に日本にやってきたと認められるのは、552年と538年の2説が有力であり、これを「仏教公伝」と呼ぶ。これは日本の朝廷に「公的に」仏教が伝来したという意味である。

 しかし「扶桑略記」という、平安期の比叡山にて編纂された日本仏教文化史をまとめた史書には、公伝より前の522年には「大和国高市郡において本尊を安置し、『大唐の神』を礼拝していた」という例が記載されている。

 考古学的な観点から見ると、もっと古い例がある。朝鮮半島に近い九州のみならず、備中・信濃・上総などにある4~5世紀の古墳から、菩薩の姿を刻んだ「四仏四獣鏡」が出土している。単なる「貴重な舶来品」として副葬された可能性もあるから、これを以て仏教が信仰されていた、という証拠にはなりえない。しかし古代日本には、渡来人が移民として大量に入ってきていたから、彼らの信仰ないし学問の一環として、公伝より遥か昔に民間ルートで日本に既に入ってきていたのは、間違いないことだと思われる。

 

画像は大乗仏教を体系化した、龍樹(ナーガルジュナ)。古代インドにて発生した原始仏教は、アジア各地に伝えられた。それらの仏教は時代が下るにつれ大きく発展・変遷していって、もはや原形を留めていないものとなっている。そのうちのひとつが、日本仏教のメインストリームである「大乗仏教」である。釈迦の死後、数多くの部派仏教が生まれたが、その殆どは出家した僧を対象としたクローズドな教えであった。そこで在家信者らのニーズを満たすものとして発展したのが、大乗の教えである(その起源に関しては未だ定まっていないが、爆発的に発展したのは在家信者らの間である)。衆生済度(しゅじょうさいど)、つまり自分のみならず、大衆をも救うことを理念としたのである。こうした大乗の教えを奉ずる諸宗派を、紀元3世紀前後に体系化したのが天才・龍樹である(龍樹は複数人いるという説もある)。大乗で使用される経典の殆どは、後世になってから成立したものなので、仏陀が唱えたそれとは大きくかけ離れていることが分かっている。これは他の多くの宗教も大なり小なり同じようなもので、例えばキリスト教もイエスが唱えた教義がそのまま正確に聖書に反映されているかというと、疑わしいものである。キリスト教の教義はイエスの死後、急速に発展したもので、仏教と同じように数多くの宗派と教義が発生している。そもそも新約聖書そのものが、100年以上かけて記された文書群をまとめたものだ。いわゆる世界宗教と呼ばれる古くから伝わる宗教の多くは、科学技術や社会の発展、文化の成熟に伴って、開祖の教えからある意味「アップデート」されている。地域によってローカライズもされるので、差異も激しい。こうした柔軟性こそが、何世紀も生き残ってきた秘訣であろう。

 

 さて日本には、古来より神道があった。アニミズムと祖先信仰から発達した、世界的にはよく見られるスタイルの宗教である。中国の史書魏志倭人伝」には、邪馬台国の女王・卑弥呼について「鬼道を事とし、衆を惑わすこと能ふ」と記しているが、これこそが文字として記録に残っている原始期の神道の姿である、とされている。

 仏教が日本に来た頃、飛鳥期におけるそれは、卑弥呼の時代よりは遥かに洗練されていたものになっていた。これはなぜかというと、大和王朝の王権強化と共に、そのトップである天皇家の宮廷祭祀の組織化が進んだためである。天皇家の統治原理の強化を図るために、宮廷祭祀の整備が進んでいったわけである。(上記内容に誤りがあったので、1月20日に修正しました)

 こうして体系的な「古神道」が成立したものと見られている。

 そんな時期に日本にやってきたのが、舶来ものの「仏教」だったのである。(続く)

 

旅行記~その⑦ 長篠の戦い 丸山砦と馬場信春

 この戦いにおける武田方の戦死者は、1万とも数千とも言われていますが、甚大な被害を被ったことは間違いありません。これまで武田家を支えていた多くの重臣たち――馬場信春、山形昌県、内藤昌秀、原昌胤真田信綱・昌輝兄弟らが軒並み戦死してしまいました。これら諸将の死は、武田家にとって相当な痛手だったわけですが、同じくらい痛かったのは、数字には表すことができない武田軍の質の低下でした。

 先代・信玄公の元、何十年にも渡って練り上げてきた武田軍。一兵卒から物頭、そして先手の将に至るまで、こういう時にはどう動けばいいか、どう指揮をすればいいか、阿吽の呼吸で動ける軍隊に仕上がっていました。武田の強さを支えていた、無名ではあるがこうした戦闘のノウハウを熟知した、歴戦のベテランたちが軒並み戦死したことで、大幅な質的低下が起こってしまったのでした。

 長篠の戦いの直後、家康はすかさず奥三河における武田方の城の攻略に動き、獲られていた三河の領地回復にほぼ成功します。次の標的は遠江です。6月には犬居城、そして8月には諏訪原城を奪回、続いて小山城を攻めます。この時、勝頼が1万3000の兵を率いて出陣してきたので、驚いた家康は兵を引いています。長篠で被った痛手の直後に関わらず、勝頼がここまでの大軍を動員してきたのは予想外だったようです。

 ですが「三河物語」には「新編成の武田軍は、遠目に見ても急ごしらえの寄せ集めが丸わかりであった」とあります。そもそも山国である甲斐・信濃は、面積に比して石高(生産力)が低く、人口も少ない土地柄です。いったん失ってしまった貴重な人的資源は、そう簡単に回復できるものではなかったのでした。まさしく「人は石垣」ですね。

 ただ皮肉なもので、この戦いで父の代からの重臣の多くが亡くなったことで、武田家中における勝頼の政治的立場は強まりました。代替わりで新しく登場した重臣らの子弟の多くは、まだ若年だったのです。代わって勢力を伸ばしたのは跡部勝資ら、昔からの勝頼の側近たちでした。

 戦国大名たちはどこかの時点で、必ずこの「中央集権度を強める」という難問に相対しなければなりません。この体質改善、既得権益を持つ者たちからの強力な抵抗にあうのが常なのですが、勝頼は逆に長篠敗戦における代替わりを契機として、武田家の中央集権度を高めることに成功したわけです。躑躅ヶ崎館から新府城への移転などの動きも、こうした重臣層の代替わりなしでは実現しなかったのではないでしょうか。

 しかしこの体質改善には家中の混乱、そして戦力の大幅な低下という、一時的な弱体化現象が伴うのが常です。不幸なことに隣には、とうの昔に体質改善を成し遂げ、近世的大名という新しいステージに到達しつつある、信長率いる織田家がいたのです。この織田家に武田家が滅ぼされてしまうのは、長篠の敗戦からわずか7年後のこと。武田家には、勢力を回復する時間がなかったのでした。

 

戦国大名らの、中央集権に関する記事のシリーズはこちらを参照。

 

 さて、これまで数多くの城を来訪してきましたが、長篠城~設楽原の訪問は、これまでで最もエキサイティングな史跡探訪でした。2年ほど前に行った、関が原も良かったのですが、最近研究が進んだ結果「実際の戦いは、通説とは違う形で推移したようだ」という、大変説得力のある論を知ったばかりだったものだったので、それが気になって没入できなかったのです。長篠は何しろ僻地にあり、アクセスが極めて悪い場所にありますが、機会あれば是非、訪問をお勧めします。

 最後に設楽原で、個人的に最も心を動かされた場所を紹介します。武田の陣の最右翼に位置していた、丸山砦です。戦場では最も北に位置する地点になります。長篠の戦いでは、勇者として名を知られていた馬場信春が、ここに駐屯していました。

 

黄色い矢印の先が、丸山砦です。見てわかる通り、戦術的には要となる、右翼の先端に位置しているのが分かります。最初は織田方の佐久間隊が占拠していたようですが、馬場隊が猛攻をかけてここを奪取しています。ただ野戦築城を構え待ち構えていた連合軍にしてみれば、武田方に是非攻撃してもらいたかったわけだから、攻撃を誘引するため、敢えてここを引き渡したような気もしますが・・・いずれにしても馬場隊がここを押さえていたことで、隣にいる土屋隊と真田隊は敵に横入りされる心配なく、思い切り攻撃できたものと思われます。思い切りよく行き過ぎて、土屋昌続と真田兄弟は戦死してしまったのですが・・・

 

「史跡探訪記」さんのブログより画像転載、丸山砦全景。ブログ主も砦の全景写真は撮ったのですが、今ひとつの出来だったので、お借りしました。当時はより面積が広く、高さもあったと思われます。馬場隊は700の兵でここに陣取っていました。

 

信春は丸山の上から戦場を俯瞰したはずですが、現在では木が鬱蒼と茂っていて見通しが非常に悪くなっていました。丸山砦の前を走る道路から、南に向けて撮った写真になります。

 

上記の写真の、道路を渡ったところから撮った写真。左手の山裾に武田軍が、右手の山裾に連合軍が布陣していました。御覧の通り、設楽原を北から一望できる位置にあります。

 

 丸山砦は右翼の要石となる場所にあったので、馬場信春は終始、ここから動けませんでした。つまり最初から最後まで、戦場を俯瞰して見ていたはずです。

 三代四十年に渡って武田家に仕え続け、生涯で戦に参加すること70回。彼の人生は、武田家の戦歴そのものであったと言ってもいいでしょう。そんな彼の目の前で、今は亡き主君・信玄公と共に人生の全てをかけて育てあげた戦国最強の軍隊が、そしてこれまで一緒に戦ってきた戦友たちが、実力を発揮できずに次々と倒れていくのです。

 この時、重臣筆頭格であった信春は、どんな気持ちでこの戦いを見ていたのでしょうか。息子と2人、丸山砦を背に設楽原を眺めながら、しばし物思いに耽ってしまいました。

 敗戦と決まったとき、信春は殿軍を務めます。勝頼を逃すため、最後まで戦場に踏みとどまって討ち死にしたのです。その見事な最期は、敵方である太田牛一が記した「信長公記」においても、「比類なき御働き」と称賛されるほどでした。

 「平家物語」において、壇ノ浦の戦いの際、平家の総大将・平知盛は滅びゆく平家一門を前にして、「見るべき程のものは見つ」と言って入水したと伝えられています。

 稀代の老将もまた「見るべき程のものは見つ」後に、最後のご奉公として成すべきことを成してから、逍遥と死に赴いていったのでした。(終わり)

 

<参考文献>

徳川家康武田勝頼/平山優 著/幻冬舎新書

・検証 長篠合戦/平山優 著/歴史文化ライブラリー

 

旅行記~その⑥ 長篠の戦い 設楽原古戦場へ(下) 

 21日の日の出と共に、勝頼は攻撃命令を下します。武田方の主力は左翼にいた山県昌景原昌胤・内藤昌秀・小山田信茂らが率いる精鋭部隊でした。徳川方は右翼に位置していたので、もろにその猛攻を受けます。

 武田氏の戦闘スキルは、戦国最強といってもいいレベルのものでしたが、戦闘の様相は野戦とはかけ離れたものでした。徳川方は、野戦築城を最大限に生かした戦い方をしてきたのです。つまりは攻城戦に近い戦いだったのです。

 徳川方の大久保兄弟が、敵が攻めてきたら柵の後ろに退き、敵が退いたら追撃し、常に敵と一定の距離を保って戦っているのを見た信長が「よき膏薬の如し。敵について離れぬ膏薬侍なり(当時の薬は、布に薬を塗って貼り付けた)」と評したのは、このときのことでしょうか。連合軍の陣は崩れず、膠着状態が続きます。

 戦闘から2時間ほど経過したころ、長篠方面から煙があがります。ほぼ同時に、勝頼のもとに衝撃的な報せが入りました。勝頼は長篠城を包囲するため4つの砦を築いており、そこに抑えとして小荷駄を含む3000~の兵を駐屯させていたのですが、南から大回りした酒井忠次率いる4000の徳川別動隊に奇襲されたのです。砦は全て陥落してしまい、長篠城は解放されてしまいました。

 つまり勝頼は、長篠城と連合軍との間に挟まれてしまった形になります。事ここに至って残された道は、前面にいる連合軍を何としても撃破するしかなくなってしまったのです。覚悟を決めた武田方は、死に物狂いで連合運に襲いかかったのでした。

 百戦錬磨の武田武士たちは、鉄砲に撃たれながらも連子川を越え対岸に渡り、柵を引き倒します(長篠城攻略時のように、鹿の角を使ったのかもしれません)。更にそこから前に進まんとする武田方。しかしその先には更に柵があり、そこからも絶え間なく鉄砲が放たれます。

 

武田方の攻撃を再現する息子。ちょうど連子川を越えたところから、馬防柵に向かって走っていきます。御覧の通り、敵陣まであともう少しです。

 

しかし信長が用意した、1000挺とも3000挺とも言われる鉄砲、そして野戦築城の前には、練り上げた野戦のノウハウは通用しません。途中で撃たれてしまい・・・

 

あえなく倒れてしまいました。このようにして多くの武士たちが斃れていったのでした。なお年配の方はご存じだと思いますが、かつて「武田騎馬隊」という言葉がありました。海外においては、ポーランドの「有翼衝撃重騎兵」のように列を組んで(なんと戦場に5000騎も投入したそうです。もちろん、全部が同一の隊列を組んだわけではないでしょうが・・)一斉に突撃する、という戦術があったのですが、武田にも同じような騎馬隊がいた、という論があったのです(映画「影武者」にも出てくるのがそれです)。「武田騎馬隊」の存在はだいぶ昔に否定されています。その反動か、一時は日本戦国期においては追撃戦などを除けばアグレッシブな騎馬戦闘そのものが殆どなく、武士はすべからく馬から降りて戦ったのだ、という論まで出ましたが、現在では状況に応じて騎馬集団(多くても2~30騎ほどでしょうか)で突撃する戦法はよくあった、という論に落ち着いたようです。(というか、そもそも「馬」防柵をこうして設置しているわけで、騎馬戦闘がなかったという論は乱暴ですよね。)この設楽原ではどうだったのでしょうか。連子川を越えるのは相当難儀したと思うのですが、徳川方の記録には「武田の騎馬武者が、数十人で集団を組み攻めかかってきた」とあるので、やはり行っていたのでしょう。

 

こちらは連合軍の陣地にある馬坊柵で、鉄砲足軽の真似をする息子。再現されていたのは馬防柵だけですが、実際には「身隠し」程度の小規模なものでしたが、土塁もあったようです。土塁があった、ということは土を掘る必要があったわけで、必然的に浅い堀もあったような気がしますが、どうでしょう。また前日まで雨が降っていた、という記録もあるので、武田方は泥濘でかなり足が取られたことでしょう。更に鉄砲だけではなく、弓にも狙われたはずです。

 

同じく馬防柵の列。再現は一部だけでしたが、実際には三重の柵が南北に延々と続いていました。まず連子川に1段目、再現された場所辺りが2段目でしょうか。この後ろの山裾にも3段目があったようです。なお柵のための木材は、家康が用意していたようです。

 

家康本陣・高松山から見下ろすと、設楽原を一望できます。パノラマで撮影したので、ちょっと画像が歪んでいます。武田方は3段目の馬防柵を越えて攻めてきた、とあるので、今は墓になっている丘の下あたりまで攻めてきたことになります。如何に武田方の武士たちが勇猛だったか分かります。

 

 ひたすら撃たれ続けながらも、攻める武田方。左翼の山県隊の元にいた、甘利信康隊など一部の攻撃隊は、3段目の馬防柵まで引き倒した、とあります。ですが馬防柵の後ろには、ほぼ無傷の3万の兵が控えているのです。

 一方、武田方は兵力が決定的に足らず、後が続きません。出血を強いられながらも何とか陣地を突破した部隊も反撃にあい、討ち取られてしまいます。厚い兵力の壁に阻まれて、跳ね返されてしまうのです。

 昼過ぎには、武田方の攻撃は手詰まりとなってしまいます。依然として連合軍の野戦築城は健在、そして兵はほぼ無傷です。流石は信長、事前に狙っていた戦術がバッチリ嵌った形です。午後2時頃、残存部隊が勝頼の周りに集まり始めます――撤退するサインです。

 連合軍はすかさず馬防柵から出て総攻撃を開始します。武田方は総崩れとなり、この撤退戦で数多くの勇者たちが斃れてしまいました。勝頼を逃すため、多くの重臣が踏みとどまり盾となって死んでいったのでした。(続く)

 

旅行記~その⑤ 長篠の戦い 設楽原古戦場へ(上)

 陥落寸前の城を救うため、織田・徳川連合軍3万8000が長篠に急行します。5月18日には設楽郷に到着、信長は極楽寺山裏に本陣を構えました。家康が布陣したのはやや前方にある高松山(弾正山とも)です。翌19日から、有名な馬防柵の建設が始まっています。

 指呼の距離にまで迫った織田・徳川連合軍に対して、勝頼は下した決断は「決戦あるのみ」でした。どうも設楽原における陣地構築の動きを「戦いを決断できない、連合軍の弱気」と判断してしまったようです。また信長は本陣を山の後ろに置いたので、勝頼は連合軍の総数を正確に把握できず、戦力を過小評価していた可能性があります。

 しかし百戦錬磨の武田軍は、戦前の偵察・情報収集をしっかりやるイメージです。重臣らは総じて撤退を主張した、とあるから、それなりの情報は上にあがっていたのではないでしょうか。長篠城は健在なわけだから、戦略的に不利な立場にあることも一目瞭然。不幸中の幸いで、連合軍が陣を構えた設楽原との距離は、まだ4~5kmほどあります。撤退戦なので、追撃を食らってそれなりのダメージは被るでしょうが、今ならまだ間に合うのです。

 にもかかわらず、勝頼が上記の結論に至った一番の要因はやはり、此度の遠征には何らかの成果が必要であった、という政治的立場ゆえでしょう。どうしても手ぶらで帰るわけにはいかず、現実を都合のいいように捉えてしまったと思われます。決戦前日に勝頼が駿河久能城代・今福長閑斎らにあてた手紙には、「敵は策を失い、悩み抜いているようだ。無二に敵陣に攻めかかり、信長・家康の両敵どもを討ち、本意を達するも目前だ」とあり、自信満々であった様子が伺えます。

 こうして勝頼は長篠城包囲のため抑えの兵4000を残し、1万1000の兵を率いて、3万8000の連合軍が待ち受ける設楽原へと向かったのでした。

 ――さて長篠城を見学した後、自転車で設楽原に向かいました。長篠城からは4~5kmほどの道のりですが、間に山がありアップダウンがかなりあります。電動自転車でなければ、相当辛かったでしょう。勝頼が辿ったのと同じ道だと思われます。

 

設楽原に入る直前の清井田にあった、勝頼本陣。ここで一旦、軍勢を整えてから設楽原に入っていったのでしょう。勝頼はここから才の神へと移動して本陣を構えます。

 

 7月だったので、とにかく暑い!清井田の勝頼本陣近くに「もっくる新城」という道の駅があったので、エネルギー&水分補給のため、立ち寄ります。

 

道の駅「もっくる新城」の食堂にて。息子が食べているのは、長篠籠城戦をイメージしたあんかけチャーハンです。皿の上にある釜が長篠城です。これをなぜか、付属のハンマーで叩きます。城攻めということらしいです。次にタレというか、あんを城の周りにかけます。水堀をイメージしているのでしょうか。



釜を開けると・・・チャーハンの上には、強右衛門がw 味はまあアレでしたが、エンタメとしては楽しめました。

 

設楽原に入る直前に「設楽原歴史資料館」があったので、立ち寄ります。前々回に紹介した、鉄砲展示の数々はこちらで見たものになります。とても素晴らしい展示でしたので、是非に寄って見てください。

 

 「設楽原歴史資料館」を見学した後、ついに設楽原に到着!いろいろと本は読んで知っていたのですが、話に聞くのと実際に見るのとでは、全然違いますね。まさしく「百聞は一見に如かず」でした。まず何に驚いたかというと、戦場の狭さ、つまりは双方の陣の距離の近さです。

 

有名な「長篠の戦い」の布陣図です。これまではこの地図を見ても「ふーん、なるほど・・」と思うだけでしたが・・・

 

※24年1月8日変更:すみません、またしても写真を取り違えていました。以前にあげた写真は別地点のものでした――大変失礼しました。距離があっておかしいな、と感じていたのですが・・・改めて写真をUPしなおして、キャプションも入れ替えました。

 

武田の陣地跡から見た、連合軍陣地。向かいには連合軍の馬防柵が見えます。「信長公記」には「双方の軍勢は、二十町(約2080m)ほど隔てて陣を構えた」とありますが、とてもそんな距離はありません。設楽原はとても、とても狭いのです。御覧の通り、精々150~200mといったところでしょうか。武田方はこのあたりから攻撃態勢をとって、前に進んでいったはずです。実際に相対した武士たちは「間合いを一気に詰めれば、いけるかも」と感じたのではないでしょうか。しかし、同時に武田方の目に映ったのは、ズラリと並んだ馬防柵です。最前列の馬防柵は設楽原の中央を貫く、連子川(連吾川)沿いに建てられていた、とあります。実は、写真に写っている馬防柵は2段目にあたるものになります。分かりづらいですが、馬防柵に至る道の盛り上がっているところの前、田んぼの切れ目にある溝のようなものが連子川です。

 

 

 

最前列の馬防柵は、この連子川沿いに建てられていました。川を天然の水堀に見立て、そこを突破する際には鉄砲で狙えるように、あえて板柵を使わず隙間のある馬防柵を建てたわけです。なお川は、当時はもっと深かった可能性があるとのことです。また下流に行けば行くほど深くなり、設楽原の南では谷のようになっていた、ともあります。この堀と柵でまず武田方は足止めされ、射撃にさらされてしまうわけです。

 

連子川にかかる橋。橋を渡ったすぐそばに、第一の馬防柵が建っていました。木が繁っているのが高松山です。ここまで来たら、家康本陣は本当に近いですね。~70mほどでしょうか。つまりは鉄砲の有効射程内でもあった、ということでもあります。

 

 20日の午後遅く、武田軍は設楽原に入り、信玄台地沿いに陣を敷きました。彼らの目に映ったのは、連子川と三重の馬防柵。それだけではありません。連合軍の陣地には「身がくし」があった、とあります。これは急造の土塁のことを指していると思われます。つまり連合軍は簡易ではありますが、野戦築城を構築したということになります。

 武田氏は東国の大名にしては、鉄砲の重要性をよく理解していた方でした。所持していた鉄砲の数も、それなりにあったようです。ですが肝心の鉄砲玉と火薬の入手に苦労していたことが、各種文献や遺物(青銅製の玉など)から明らかになっています。西国を押さえていた信長の経済封鎖により、東国には外国製の鉛・塩硝が届かなかったのです。

 つまり武田氏は、そこまで大量の鉄砲を一度に運用する経験が乏しかった、ということになります。鉄砲を組み合わせた野戦築城と相対したのも、初めてのことだったでしょう。

 しかしここまできたら、もう引き返せません。既に日は暮れています。武田方の武士たちは、最後の休息に入ります。朝になったら開戦です。勝頼も21日の朝になったら、攻撃命令を下すつもりでした。(続く)

 

旅行記~その④ 長篠の戦い 長篠城と鳥居強右衛門

 1575年4月から本格的にはじまった、今回の勝頼の遠征の目的は「クーデターに乗じて岡崎城を占領する」というものでした。もし成功していたら、徳川家を滅ぼせたかもしれないレベルの大戦果でしたが、それが失敗した今、勝頼としては手ぶらで帰るわけには行けません。そこで攻撃目標を、吉田城攻略&家康の捕捉・殲滅に変更するも、これも失敗。勝頼は仕方なく、第三の目標として長篠城に目を付けたのでした。

 さて当時の長篠城の城主は奥平信昌です。元々、この山深い奥三河の地を制していたのは、作手城の奥平氏長篠城の菅沼氏、田峰城の菅沼氏の三氏で、彼らはひとくくりに「山家三方衆」と呼ばれていました。

 徳川と武田の国境にいた彼らは、状況に応じて寝返りを繰り返す、という生き方をせざるを得ませんでした。基本的には三氏は連携して行動しており、寝返る際も一緒に寝返っていたようです。1571年以降は、彼らは武田方についていました。この頃はまだ信玄が存命で、飛ぶ鳥を落とす勢いでしたから、当然の選択でしょう。

 しかしこの「山家三方衆」の団結にヒビが入る出来事が起きます。三氏の間で所領のトラブルが発生したのです。1573年7月、最も不利な立場であった奥平氏が、勝頼に公正な裁定を訴えたところ、帰ってきた答えは「山方衆の間で解決せよ」というものでした。勝頼としては、「山家三方衆」の独立性を尊重せざるを得なかったわけです。

 しかしこれに失望した奥平家は、急速に徳川家に近づいたのです。そして家康もまた自らの娘である亀姫を、当主・奥平貞能の跡継ぎである信昌に娶らせる約束をする、という破格の扱いで応えたのでした。これは相当身分違いの婚姻でしたが、奥三河における帰趨が徳川家の行く末を左右することを、家康は正しく見抜いていたのでした。

 さて、もともと長篠城は菅沼氏のものでしたが、信玄が死去した隙をつき、1573年9月に家康が攻略、ここを守っていた菅沼氏を退去させていました。その代わりに家康が守りを任せたのが、新たに娘婿となった奥平信昌だったのです。

 1575年5月1日、勝頼率いる1万5000の武田軍が、この長篠城を囲みます。長篠城を守る奥平家の兵力は僅か500程度であった、と伝えられています。火矢により兵糧庫は焼失。多勢に無勢、武田軍の猛攻に残すところは本丸と野牛曲輪のみ、というとこまで長篠城は追い詰められてしまったのでした。

 

長篠城全体図。舌状台地に築かれた、典型的な連郭式の城です。川から攻めることは困難なので、平地から攻めるしかありません。築城側はそれを想定して、本丸以下の曲輪が一列に並ぶような縄張りになっています。

 

長篠城空堀。図でいうと、本丸と二の丸をつなぐ土橋の上になります。10日余り頑張りましたが、二の丸までは陥落し、残るは本丸と野牛曲輪のみ。武田はここまで攻め寄せてきていたわけで、城はまさに陥落直前でした。

 

本丸から二の丸を見下した光景。当時、堀の向こうには武田軍がいたはずです。なお長篠城攻めの際は、武田方は「鹿の角」に縄を結んで放り投げ、柵に引っかけて倒した、とあります。また金堀衆も投入したようです。まさか坑道を掘ったとは思えませんが、城攻めに関わる何らかの土木工事を担当したのでしょう。

 

長篠城本丸。建物などは復元されていないので、広場のようになっています。どうも写真だと魅力が伝わりにくいですね。やはり城は実際に行って見て回るのが一番ですね。

 

 援軍なしで持ちこたえることは、もうできそうにありません。信昌の気持ちは、降伏開城へと大きく傾きます。

 そんな中ひとりの男が、援軍がどこまで来ているのかを探るため、決死行を志願します。この男の名こそ、かの鳥居強右衛門(とりいすねえもん)です。各種の記録に彼は軽輩であった、とあるので武士ではなく足軽であったと思われます。5月14日の夜、強右衛門は闇夜に紛れ包囲網の外に出ることに成功、見事城外へと脱出したのでした。

 

少し移動して、牛淵橋の上から撮影した長篠城。そんなに大きな城ではありませんが、豊川(左)と宇連川(右)が合流する断崖上に築かれた、守りの堅い城でした。一説によると、強右衛門は潜水したまま流れに乗って下流に移動、水中に張ってあった鳴子網を破って包囲網を突破した、とあります。もしそうだとしたならば、まさしく写真に写っている川の水面下を潜って、こちらに向かって進んできた、ということになります。

 

 15日の朝、長篠城から5~6kmほど離れた雁峰山にて脱出の成功を知らせる狼煙をあげたあと、彼は岡崎へとひた走ります。75km離れた岡崎にその日の午後にはたどり着いた、とあるので、計算すると実質8~10時間で75kmを走破、つまり時速約7~8kmで駆け続けた計算になります。現代の平均的な日本人マラソンランナーが時速9kmなので、相当なペースです。

 岡崎に3万を超える援軍が来ていることを知った強右衛門は、家康と信長に面会した後、その足で再び長篠城へと戻ります。城は陥落寸前、援軍が近くまで来ていることを、何としても知らなければいけないのです。16日の早朝に再び雁峰山にて狼煙をあげた、とあるので、ほとんど休みなしで戻ったということになります。帰路は馬を借りたような気がしますが、それにしても凄まじい体力ですね。

 狼煙をあげた後、強右衛門は城内に戻ろうと試みるも、武田軍に捕まってしまいます。そして「城内に投降を呼びかければ、家臣として召し抱える」という勝頼の命に従ったふりをして、援軍が近くにいることを城内に大声で知らせますが、見せしめのために磔にされてしまったのでした。

 

強右衛門の死に様に、敵ながら感動したのが武田方の武士・落合左平次道次です。彼は磔にされた強右衛門をモチーフに自らの旗指物を作成し、実際に戦場で使用しました。それが左の写真になります。本人曰く、モチーフにするにあたっては「瀕死の強右衛門に呼びかけて許可をとった」らしいのですが、そんな暇があったかどうか・・・かなり強引に解釈してOKをとったような気がします。(「いい?いいよね?いま頷いたよね?いいって言ったよね?よし!」)右の写真は強右衛門が磔にされた場所で、その真似をする息子。木が鬱蒼として分かりませんが、後ろに川があり、対岸に長篠城があるのです。当時、周辺には樹木はなく見通しは良かったはずなので、城からよく見えるように川を正面にして磔にされたのでしょう。

 

 強右衛門の心意気に感動した信昌と城兵たちは、信長・家康連合軍が来るまでの2日間、見事に攻城戦に耐え抜いたのでした。

 次回はいよいよ「長篠の戦い」の舞台である、設楽原古戦場へ向かいます。(続く)