根来戦記の世界

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後期倭寇に参加した根来行人たち~その⑨ 史上最大の倭寇船団を率いた男・徐海と、日本人倭寇たち(中)

 暴風でいきなりケチがついたとはいえ、依然もの凄い数である。何しろ最終的に浙江省を中心に暴れまわった倭寇の数は、2万と伝えられているのだ。いちどきに出航したわけではなく、幾つもの船団に別れ、三々五々日本を発ったので嵐に遭わずに済んだ船団もいたのだろう。また日本から来襲した数よりも、現地で蜂起した数の方が多かったはずだ。

 既に大陸入りをしており、各地で越冬していた倭寇たちもいた。沙上では、正月早々から倭寇居留地を攻めてきた官軍と戦いこれに大勝、1000人余りの官兵を殺している。これらは日本から襲来してくる略奪船団と呼応する形で、3月には分散して各地で略奪行為を始めるのだ。

 日本からの船団は、五月雨式に沿岸部を襲う。4月11日、20を超える船が浙江の観海から上陸、慈谿・餘姚を攻めた。13日には別の倭寇3000人が、鎮江から揚州・儀眞の両岸を侵す。更に別の賊が上海・蘇州方面に侵攻するなど、各地に多大な被害を与えている。

 徐海が率いる本隊は、先に大陸に入っていたらしい陳東の軍と乍浦で合流している。各地を略奪した後、4月になって先の記事で紹介した、佐撃将軍・宗礼率いる900の私兵軍団と三里橋を巡って激しい戦闘に入っている。多大な犠牲を払いながらも最終的にはこれを撃破するのだが、徐海はこの戦いで負傷してしまうのだ。

 そしてこのタイミングで、徐海の元に胡宗憲からの使いが来るのである。怪我からくる病を得てしまい、気が弱くなっていた徐海に対し、胡宗憲は王直と同じように帰順を勧めてきたのだ。この時点で、王直はまだ降っていなかったが、「王直も帰順する方向で同意したぞ」と告げ(嘘ではなかった)、その動揺を誘う。同時にこの時点で別行動をしていた、彼の有力な部下である陳東と麻葉に対する猜疑心を煽った。彼らが「独断で帰順をはかっている」と告げたのである。実際には両名は帰順するつもりはなく、日本への帰国を望んでいたらしい。

 6月25日、陳東と麻葉率いる手勢が乍浦にいた徐海と再び合流する。だが徐海は既に、胡宗憲に降伏する腹積もりだったのである。まず麻葉が7月3日に官軍に捕まってしまう。そしてこの捕らえた麻葉に、胡宗憲は無理やり「徐海を殺して、一緒に帰順しよう」という陳東宛ての偽手紙を書かせ、それを徐海に見せる、という実に陰険な手を使うのだ。これを信じた徐海の手引きによって、14日に陳東が捕まった。

 

「抗倭図巻」より。3人の倭寇がお縄についている。張鑑によると、この3人は陳東・麻葉・そして徐海の息子の徐洪とのことだが・・・

 

 徐海にとって残った問題は、自ら日本で募集して、ここまで連れてきた残余の倭寇たちだ。ここに至って、もはや用済み――というよりは、はっきりと邪魔者になった、これら日本人らをどうすべきか。

 29日、徐海は「希望者は日本に帰す」と言って、乍浦の沖合に帰国のための官船を何隻か用意させる。だがこれが罠であったのだ。日本に帰らんと船を目指して沖合に向かった倭寇を、乍浦城から出撃した官軍が追う。干潟に足を取られた倭寇の殆どが討ち取られ、多数が溺れ死んだという。

 この倭寇は新五郎が率いていたらしいから、大隅勢を主とする集団だったのだろう。新五郎自身はその場から逃れることに成功し、何とか日本に帰ろうとするも、8月4日に金塘の洋上で捕まってしまうのだ。その後、あえなく処刑されてしまったものと思われる。(続く)

 

「抗倭図巻」より。舟の上で4人の倭寇が縛られている。張鑑によると、この中に大隅の新五郎がいるとのこと。逆エビ反りで縛られているのが、そうであろうか?とすると、残りの3人も大隅勢の日本人かもしれない。

 

 

後期倭寇に参加した根来行人たち~その⑧ 史上最大の倭寇船団を率いた男・徐海と、日本人倭寇たち(上)

 これまでの記事にも何度か名前だけ登場したが、王直と並び立つほどの大物として、徐海という倭寇の親分がいる。若い頃、叔父の借金のカタに人質として豊前に住んでいた元僧侶で、日本では明山和尚と名乗っていた人物である。彼は実に評判が悪い男である。子分格であった陳東との諍いの話が残っている――以下に紹介しよう。

 陳東の元に、攫ってきた一人の女性がいた。一緒に暮らしているうちに情が移った陳東は、彼女を故郷に帰してやろうとしたのだが、それを聞いた徐海が「帰すくらいなら、俺に寄こせよ」と笑いながら言ったので、激高した陳東が剣の柄に手をかけた、というものだ。

 他にも瀝港に来てすぐの頃、新参者にも関わらず密貿易をしつつ、その裏で略奪しまくっていたのが王直にバレて、「まさか儂のすぐ足元に泥棒がいたとは、思わなんだ!」と罵られている。(この時期、王直は官憲とうまくやっていたから、こういう行為には相当気を使っていた。)逆ギレした徐海はこの時、王直を殺そうとしたというから、碌な逸話が残っていない。

 そんな彼だが、1554年の春ごろから強大な勢力を持つに至る。元々は叔父が倭寇の親玉だったので、その後を継ぐ形で船団の長となったわけだが、タイミングが良かったのだろう、幾つかの略奪行を成功させ、一気にその勢力を伸長させたのである。ためらうことなく容赦ない略奪をする、その酷薄な性格が、一獲千金を夢見る多くのならず者どもを引き寄せたのだ。

 彼は幹部に「三大王・八大王」などの称号を与えて(如何にも悪役っぽい!)組織化したり、兵に紅衣を着させ騎乗させるなど、己の軍団を軍隊方式に編成したから、なかなかの強さを誇っていた。そして遂には、自らを「平海大将軍」と称したのである。

 調子に…違った、勢いにのった平海大将軍・徐海は1556年3月から4月にかけて、空前絶後の規模の略奪船団を送り出す。艦隊の数は併せて1000余隻、人員はなんと5万人に達したと言われている。文禄の役における日本水軍の規模が1万人ほどだから、流石に誇張された数字だとは思うが、話半分にしても凄まじい。かつて明が威信にかけてインド洋に送り込んだ「鄭和の大艦隊」にも匹敵する数字で、倭寇船団としては史上最大級であったことは間違いない。

 この略奪行には5つの日本人グループが参加しており、大隅勢を新五郎、種子島勢を助左衛門、薩摩勢を夥長掃部(ほうちょうかもん)、日向勢を彦太郎、そして和泉勢を細屋という者が率いていた、とある。

 この細屋とやらが率いていた和泉勢には、根来行人ないしは、その氏子たちが数多く参加していたのではないだろうか。和泉、特に泉南地域はこの時期、完全に根来寺の勢力圏内にあり、子院の本拠地が数多く存在していた。

 

根来寺の勢力圏の成り立ちについては、上記の記事を参照。

 

 南海航路に親しんでいた根来行人らが、この和泉勢の主力だったとしてもおかしくない。堺辺りを出入りしていた密貿易商人の細屋とやらが、声をかけて略奪行の人を集めた、というところだろう。

 

倭寇図巻」より。鉄砲を持った倭寇。この「倭寇図巻」は今回紹介している徐海の略奪行を、モチーフとして一部取り入れている可能性がある。当時、鉄砲はまだメジャーな武器ではなかった。相応するモデルを当てはめるとすると、細屋が率いていた和泉衆、つまり根来の行人ということになるかもしれない。

 

 だが、好事魔多し――意気揚々と船出をしたこの艦隊の主力は、いきなり嵐に遭ってしまい、出鼻をくじかれてしまうのだ。その多くは日本に引き返してしまい、残りもバラバラになって中国沿岸に辿り着いた、とある。その行く末を、暗示させるスタートであった。(続く)

 

 

後期倭寇に参加した根来行人たち~その⑦ 海雄・王直の死

 さて、ここまで倭寇の大物プロデューサーの代表格として王直を紹介してきたが、実は彼は無実だったのではないか、という説がある。略奪をしたのは、あくまでも彼の元部下たちであって、彼自身は関わっていなかった、というものだ。

 瀝港(れきこう)が陥落したのが1553年3月である。逃げ出した王直は、そのまますぐに日本に向かっている。ところが彼の手下の暴れん坊の一人、蕭顯(しょうけん)という親分率いる倭寇の一団は、日本に行かずにそのまま江南各地を襲い始めたらしい。4月から始まったこの略奪が、本格的な「嘉靖の大倭寇」の口火をきることになったわけだが、これは果たして王直の指示によるものなのだろうか?

 王直の下には他にも多くの親分たちがいて、それぞれが各々のグループ、つまり一家を率いていた。それらの頭目とされていた王直だが、絶対的な権力があったわけではなく、繋がりも緩い連合体のようなものであったと思われる。事実、最も勢力のあった徐海などは、王直と仲たがいした結果、袂を分かっている。こうした略奪行は、かつて彼の指揮下にあった元部下たちが勝手に行ったことで、王直の関知するところではなかったのかもしれない。とはいえ明にしてみれば、あくまでも倭寇の大元締めは王直である、という認識であった。

 いずれにせよ、これら神出鬼没の倭寇たちへの対抗策として、明は沿海部に海防のための城を築いて兵を駐屯させたり、烽火台を整備するなどしたようだが、うまくいかなかったようだ。こうした如何にも場当たり的な、水際対策に終始せざるを得なかったのは理由があった。

 かつて双嶼(そうしょ)を陥落させた浙江省順撫の朱紈(しゅがん)は、密貿易によって儲けていた郷紳たちによる弾劾運動によって失脚、自害してしまっていた。瀝港を陥落させた王抒も、倭寇被害が悪化した責任を取らされるところであったが、嘉靖帝に気に入られていたため、なんとか対モンゴルの北方防衛方面への異動で済んでいる。(モンゴルでも失敗して、結局は処刑されてしまうのだが。)

 そしてその後任の海防責任者も、同じようにすぐに弾劾されては失脚する、といった事態が続くのだ。1年持てば良い方で、わずか34日間でいなくなってしまった者もいる始末。中央における派閥政治のあおりを食って、このような体たらくになっているのだが、これでは統一した指揮系統など取れようもない。

 そんな中、1556年に浙江省順撫として胡宗憲が就任する。後の世に「権術多く、功明を喜ぶ」と評されたほど、狷介な人物である。

 

明代に描かれた「抗倭図巻」(作者不詳)より。清代の文人、張鑑がこの図巻について詳細な解題を行っている。それによると、赤い服の右横にいる鎧姿の人物が胡宗憲。功のあった前任者の張経を讒言で処刑に追いやり、浙江省順撫の地位に就いた男である。

 

 この新しい浙江省順撫・胡宗憲が採用した策は、宣撫と離間であった。その対象として大物・王直をターゲットにしたのは、当然のことであろう。配下を日本に送り「罪を許すから帰ってこい」と望郷の念に訴えた。その際には「今後は海禁を緩めて、貿易を許すぞ」など、利を以て誘うことも忘れない。

 この「寛海禁、許東夷市」という一文が、王直の心に響いたのである。彼の夢は日本との貿易を公のものとして認めさせ、船団を率いて大海原を舞台に思う存分、駆け巡ることだったからだ。すっかりその気になった王直は、1557年4月に五島から帰国の途につく。なんだかんだ齟齬があって、胡宗憲に降伏したのは11月になってからなのだが、明朝の延議ではこの大海賊・王直の処遇を巡って、意見が真っ二つに割れたのである。

 結局は「倭寇は絶対に殺すマン」たちの意見が通って、王直の処刑が決定してしまう。胡宗憲も当初は助命しようと動いていたようだが、「やつは王直から大金を貰っている」という、極めて信憑性の高い噂を立てられたので、見捨てることにした。先に出した上奏文を慌てて撤回、逆にその処刑を強弁に主張する文を上奏している。

 こうして1559年12月25日、杭州門外で王直は処刑されてしまう。罪状は国家反逆罪。東アジアの海を縦横無尽に駆け抜けた、一代の海雄の死であった。その首は寧波海辺の定海関にさらされ、妻子は奴隷として功臣に与えられた、とある。

 死の直前に、彼が残した上奏文が残っている。そこには「もし陛下が自分を信じてくださるならば、日本と貿易を行うことを許していただきたい。日本各地の領主たちには自分が言い含め、略奪など二度と勝手な真似をさせませんから」とある。最後までブレることなく、海禁の緩和を主張していた彼は、やはり根っからの貿易商人であったのだ。

 「海禁を緩める」旨を王直に約束した胡宗憲もまた、きちんとその旨を上奏している。これは彼の出世にもつながる大事なことで、密貿易に関わっていた郷紳らの支持を得る必要があったためだろう。また朱紈や王抒の時と違って、この時点で密貿易船団は全て略奪船団に姿を変えていたから、倭寇を殲滅させても郷紳らからクレームがくる心配はなかった。そういう意味でも、彼は運が良かったといえる――少なくとも、今しばらくの間は。(続く)

 

 

後期倭寇に参加した根来行人たち~その⑥ 倭寇 vs 明の軍隊

 倭寇はその主体が日本人だったり、中国人だったり、はたまたポルトガル人だったりしたわけだが、果たして彼らはどの程度、強かったのであろうか。「そりゃ、集団の性格と規模によるでしょ」という突っ込みは正しいのだが、それを言ってしまうと話が終わってしまうので、試しにいくつか事例を拾って見てみよう。

 1557年3月、海塩に布陣していた倭寇が、洪水発生時に小高い丘に陣取って、急造の堤を造成している。官軍を攻撃する際にはこの土手を切って水を流し、官兵の多くを溺死させたと記録にある。この集団は、こうした土木工事を行うほどの組織力・技術力を持っていたということになる。

 戦術面ではどうであろうか。1558年5月7日、福建省の恵安県の知県・林咸は倭寇と戦って、これを撃破したまでは良かったが、追撃戦に移ったところ伏兵にあって逆に戦死している。誘引しての伏兵攻撃など、釣り野伏を彷彿とさせるではないか。この倭寇の中には或いは薩摩の人間がいたのかも、と想像したくなる。

 彼らは城攻めもして、よくこれを落としている。最も中国の大きな町は日本と違って、すべて城壁に囲まれた城市であったから、城攻めせざるを得ないのだが。普通の戦争のように、戦略的にここを落とさねば戦に負ける、という概念ではなく、ただ単に略奪のために襲っているだけだから、城が堅くて落ちそうにないときは、さっさと兵を引いて移動、次の獲物を探すのだ。

 次にこれと戦った明側なのだが、当時の明の軍制を見てみよう。

 まず明においては、戸籍が軍に属する者たちがいた。これが本来の明の正規軍の構成員であり、これを「軍戸」と呼んだ。彼らは世襲制で畑も耕していたそうだから、日本で言う郷士のような存在に近いかもしれない。ただ中国は武よりも文を重んずる国だったから、社会的な身分は低かった。また労役も過重であった上、上層部による給与のピンハネなどが横行していたから、軍戸からの逃亡が相次いでいた。この仕組みを「衛所制」と呼ぶが、この時代には事実上、有名無実化していたようである。

 その代わりに、当時の明は募兵制によって兵を集めていた。この募兵制は世襲ではなく一代限りのものだったが、募集だけでは集まらなかったらしく、地域によっては強制的な徴募も行っている。彼ら募兵は常備軍ではなく、平時は原籍に戻される仕組みになっていた。また春夏は農業に従事させ、秋冬は訓練を受ける、というサイクルを採用していた所もあったようである。遠征に駆り出されることもあったが、基本的には募集されたその土地の防衛に携わっていた。近辺の郷土を防衛する自警団、ないしは警察・治安維持部隊のようなもので、これを「郷兵」とも呼んだ。(正確に言うと、募兵はその出自や分遣先によって「民兵」「土兵」「客兵」「僧兵」などに分類されるのだが、ここでは省略する)

 これら郷兵は、土地柄によって強さが異なっていたそうで、異民族と常に相対していた北方の地の郷兵は強かったようだが、倭寇が襲った浙江省辺りはどうであろうか。経済が発達していた先進地域の兵は弱い、という法則をあてはめると、そう強くはなかったような気がする。

 

倭寇図巻」より。暴れる倭寇を迎撃すべく、先を急ぐ明の軍隊。

 

 そんな中、台頭してきたのが「私軍」である。元々は北方の国境でモンゴル勢と戦うために、いつしか採用されていた軍制で、「家丁」と呼ばれる者たちを、将が自費で抱えて兵とした、いわば私設の軍隊なのである。この軍団は「親分・子分」という私的な関係で繋がっているから、よくまとまっていて非常に強かった。

 1556年4月、皂林(ぞうりん)において1万人ほどの倭寇が攻めてきた際、佐撃将軍・宗礼は、わずか900の兵を率いて崇徳の三里橋でこれを迎撃、3回防いで「神兵」と称された、とある。この900の兵が上記のどれに当てはまるのか分からないが、私軍を中核とした部隊だったのではなかろうか。郷兵のみならばこうはいかず、最初から戦わずに逃げていただろう。最もこのケースでは衆寡敵せず、最終的には敗退し、宗礼も戦死してしまうのだが。

 倭寇に対して、よくこれと戦った軍団として、兪大猷(ゆたいゆう)が率いる「兪家軍」と、戚継光(せきけいこう)が率いる「戚家軍」がある。両者とも軍の中心をなしたのはこうした私兵集団であり、例えば「戚家軍」においては、1558年に浙江省で得られた3000人がその中核であった、とある。この3000人は長年に渡って戚継光と行動を共にし各地を転戦するのだが、メンタリティとしては武士団に近かったかもしれない。この私軍部隊を中核として、任地で動員した募集兵を組み込み、軍団を構成するのである。そうして編成された軍は精強で、何度も倭寇を撃破している。

 

Wikiより画像転載。自身も優れた武人であった戚継光は、倭寇が多用していた日本刀に対応するために、狼筅(ろうせん)や苗刀(みょうとう)という武器を考案している。各種兵学書も著しているが、その中には室町時代の剣豪・愛洲移香斎の陰流目録を研究した「辛酉刀法」という、日本剣術に対してどう戦うかを分析した教科書まであるのだ。倭寇平定後は引き続き、彼に忠実な精鋭軍団を率いて北方のモンゴル戦線に転戦、そこでも功を挙げている。(関係ないが、恐妻家だったらしい。親近感を感じる・・)

 

 倭寇と官軍が戦った際に、それぞれの主体が何であるのか、判然としないケースが多いのだが(というか、著者が調べ切れていないだけ)、何となく以下のような図式が成り立ちそうだ。

 郷兵のみ < 倭寇 < 私軍を中核とした軍団

 相手が私軍を中核とした軍団で、大規模な戦いであった場合には、倭寇は大抵、敗北している。彼らの一番の武器は、まずは機動力、そして特殊スキル「暴動誘発」にあったわけだから、この2点を生かしたゲリラ的戦いには強かったのだが、正規軍同士が相対するような「会戦」には向いていなかった、ということであろう。

 これら「私軍」は倭寇を撃破した後も、地方の秩序の維持・回復という役割を果たしていくのであるが、同時に分散的勢力の成長を促進する性格のものであったから、明末における軍閥の興隆にも繋がっていくのである。(続く)

 

著作について~その④ 1巻の表紙を変える・完成しました! & 1巻と2巻を期間限定で0円で配布します!


 遂に完成しました!根来戦記第1巻、「京の印地打ち」の新バージョンの表紙になります!

 本文中にある、1シーンを再現してもらいました。5月5日の「節句の向かい礫」で次郎ら六条印地衆が、悪名高い白河印地衆と礫の打ち合いをしている場面になります。次郎が狙っているのは川向うの対岸にいる、スタッフスリングを持つ白河印地衆の群れです。次郎の動き如何で、仲間の命が助かるかどうか、という緊迫感のある場面です。なので次郎の顔も、お祭りらしからぬ緊迫感のある顔つきになっています。

 躍動感のある、とても素晴らしい表紙絵になりました。頭の中にあるぼんやりとした形を、実際のものとして造形して表現できる、というのは凄いですね!珍飯さんには、とても素敵な仕事をしていただきました。作っていく過程での、やり取り自体が興味深く、思わず記事にさせていただいちゃいました。とても楽しい経験でした!

 新バージョン完成を記念して、1巻と2巻を期間限定で、0円で販売させていただきます。読んでいただけたら幸甚です。

時は戦国(1555年)、舞台は京都。主人公は…ニート節句の向かい礫、白河印地、根来、車借、声聞師、抜け荷…戦国時代の京を舞台に、印地に関わる騒動に巻き込まれた一人の若者が、成長していく姿を描いた青春時代劇!

  

京でのいざこざから逃げるように、根来寺入りした次郎。小さいけれど名門の、寺院の門主として迎え入れられ、経を唱えながら修行の日々を送るものだと思いきや・・・入ってみたら大違い!借銭で寺の家計は火の車、配下はまるでやる気なし。挙句の果ては子院を乗っ取らんとする武闘派に、命を狙われる始末。生き残るために、次郎は思い切った行動にでるが・・・?

 

 1巻、2巻とも、8月28日18時~9月1日18時までの5日間、無料になります!(お住まいの地域によっては、キャンペーン開始時刻がずれるかもしれません)

 「Amazonアンリミテッド」に入っている方は、これまで読み放題対象で、今後もそれは変わらないのですが、これを機会に0円での購入をお勧めします。なぜならば、これまで販売した1巻を絶版扱いとするからです。(内容の変更の反映がされづらいので、そうさせていただいております)なので、既に1巻を持っている方も、新バージョンをDLしていたければと思います。新しくなった挿絵を受けて、内容も少しですが修正してあります。

 

珍飯さんこと、空廼カイリさんの連載デビュー作。こちらはアニメ化もした作品です。凄いですね!自分が生み出したキャラが動いているのを見るのは、感動するでしょうね。それにしても漫画家さんは、凄いなあと思います。まず話を考えて、どう表現するか構図も考えた上でネームにして、自ら絵を描いて作品にするという・・世界で最もマルチなクリエイターではないでしょうか。

 

後期倭寇に参加した根来行人たち~その⑤ 倭寇たちの略奪ツアーの行程

 こうした倭寇の略奪船団はどの程度の規模で、どのようなルートを辿り、どう行動したのだろうか。典型的なパターンを見てみよう。

 まず倭寇の親分たちが、南日本を中心とした各地で兵を募る。それぞれ懇意にしている地域(縄張り?)があったらしく、前述した陳東の顔が利いたのは薩摩だったし、徐海は大隅種子島だった。いずれにせよ、船団の集合場所は五島列島で、ここが略奪コースの起点となる。入り組んだ地形で湾が多く、船の停泊には絶好の地であった。王直も自身は平戸にいたが、配下の船団の根拠地は五島に置いていた。

 各地より三々五々集まってきた船が揃い、予め決めておいた日時になると、出発である。風向きの関係上、季節は3月~5月がベストだ。6~8月は台風が来るから危なくて渡れない。9月・10月・12月は渡航が可能。11月と1月、2月は風向きが逆になるので厳しいようだ。日本からの略奪船団は、概ね春と秋の2回来る、と「武備志」にある。

 ちなみに日本より正月に来襲した、という記事が幾つか見受けられるが(前記事の陳東の船団がそう)、これは既に秋の時点で大陸に渡航済で、暴れ始めたのが1月からだった、ということかもしれない。日本に帰るのに適した風向きは11月~2月あたりになるので、もし3月あたりに来襲したとすると、その船団は中国沿岸で8か月は暴れまくることになる――途中で討伐されなければ、の話だが。

 五島から彼らはどこへ向かうのかというと、まず浙江省を目指す。それより北の山東省はそこまで豊かではなかったし、南の広東省はやや遠すぎた。両地域に遠征しないということもなかったが、この時代、浙江省こそが経済の中心であり、最も豊かな地であったから、まずはここを狙ったのだ。

 五島からのルートだが、中国沿岸に至るまで幾つか中継地点がある。下記がその地図である。

 

鄭梁生氏の「明・日関係史の研究」に記載された図を元に、筆者が作成。青い🔲が倭寇の補給地で、オレンジの🔲が侵略された主な都市名を表す。もちろん、上記の地図に記載されていない町も、数多く襲われている。

 

 東シナ海を越える長い航海の果て、倭寇船団がまず辿り着くのが馬蹟島である。薪と水を補給して、ここから2手に別れる。西に向かい洋山経由で杭州湾方面を荒らすルートと、更に南下するルートである。メインはやはり、杭州湾ルートだ。杭州湾の入口にある第2の中継点・洋山には、船を数百隻も停泊できる湾があった上、山頂には淡水池があったので、そこで新鮮な水の補給ができた、とある。ここで英気を養った海賊どもは、杭州湾を取り巻く町々に襲い掛かるのだ。

 南下ルートを選ぶと、第2の中継点は韭山になる。ここから西に向かい、沿岸を荒らすか、更に南下して第3の中継点・大陳島を経由して台州、或いは温州を荒らす、というのが大まかなパターンであった。

 各地を襲ったこうした略奪船団は、終始一体となって行動していたわけではない。中国沿岸で散ってはまた集合、といった動きを繰り返すのだ。彼らは大きな都市の略奪が終わったら「じゃあ次は、ワシはここにいくわ」「ほーん、そんならワイはこっち」といったように、集団ごとに獲物が被らないよう別行動するのである。そして略奪対象の都市の規模が大きかったりすると、再び集まってそこを攻めるなどの行動をとるのだ。なので、記録に残っている各地を襲った倭寇の数は、数十~数千まで幅が広い。

 上陸した倭寇が数十人だからといって、侮ってはならない。何故ならば、その地にいる貧民たちが合流して、雪だるま式に大きくなることがあるからだ。例を挙げると、1553年4月に船を失い、フラフラになって乍浦に上陸した倭寇はわずか40人だったが、周辺の平胡、海塩、海寧を略奪しまくり、官兵や民間人、数百人に危害を加えた、とある。これはたったの40人で行いうる仕業ではない。つまり彼らがトリガーとなって、現地の反体制勢力が蜂起・合流し、巨大な群れとなって周辺を略奪するのである。「ひとたび倭、至ると聞くと、又楽しみて之に従う」という言葉が残っているほどだ。こうした動きは、前期倭寇朝鮮半島でも見られたことであって、「真倭は2、3割に過ぎず」という言葉は、こういう現象からも来ている。

 

天翔ける倭寇(上) (角川文庫)

雑賀の鉄砲衆が、誘われて倭寇に参加する話。面白さは、まあまあといったところ。倭寇を主人公にした小説は、少ないので貴重なのだ。津本氏の本は、剣豪物(特に幕末~明治期)は大変に面白いのだが、大河ものなどの長編はちょっと・・と思っている人は、私だけではないはず。

 

 いずれせよ、倭寇のこうした離合集散の動きは、場当たり的ではあったが、言い方を変えると臨機応変だったので、防ぐ側は相手の動きが予測できず、後手に回るしかなかった。倭寇たちは、こうして中国沿岸部を略奪しまくったのである。(続く)

 

 

後期倭寇に参加した根来行人たち~その④ 嘉靖(かせい)の大倭寇

 さて、後期倭寇である。明が密貿易の本拠地である双嶼を撲滅させた。その結果、食えなくなった密貿易グループによる略奪が激化する、という逆効果をうむ。そして日本に居を移した王直や、若いころ大隅に住んでいた徐海を筆頭に、鄧文俊、林碧川、沈南山などといった、略奪行の敏腕プロデューサーらに誘われる形で、多くの日本人が後期倭寇に参加することになる。

 これに参加した日本人だが、「籌海図編(ちゅうかいずへん)」によると、メインは薩摩・肥後・長門の人が多く、これに次いでその他の九州各地と、紀伊・摂津の人である、とある。ちなみに「南海通記」という書物において、伊予の村上海賊衆が倭寇に参加していた旨が述べられているが、これは江戸中期に成立した軍記物で信憑性に極めて乏しい、という評価の書物である。村上水軍が参加していたとしても、個人参加の少数に留まっていたのではなかろうか。外海と内海とでは、船の扱いも違ったものと思われる。

 ともあれ、この時期の倭寇には多くの日本人が参加した。大規模な倭寇として有名なのが「嘉靖(かせい)の大倭寇」である。1552年から1556年にかけて、幾つものグループに分かれた大船団が、五月雨式に中国沿岸を来襲した。その規模と回数たるや、凄まじいものであった。

 中国における倭寇の襲撃は、1551年までは年に1~2回程度であった。ところが1552年に13回、そして1553年には、いきなり64回に跳ね上がる。特にこの53年4月からは、数百の船を連ねた複数の船団が1年以上に渡って中国沿岸部を南北に行ったり来たり、略奪の限りを尽くし、さながら無人の野を行くが如しであった、という。

 倭寇の襲撃回数は年を追うごとに増えていって、54年には91回、55年には、なんと101回(!)を数えている。回数的にはこれがピークであったが、1563年までは、ずっとふたケタの数字が続くのだ。

 さて紀伊の人間であるが、この時期の倭寇にバリバリ参加していたようだ。1555年に中国沿岸部を暴れまわった、陳東率いる船団に参加している他、1556年の葉明を長とした船団にも、参加していたことが分かっている。メインは紀之港を拠点とする雑賀の人間だったろうが、根来と重複する人間も多かったので、その繋がりで根来行人が参加していた例もあったのではないだろうか。

 陳東は中国側の記録によると「薩摩の領主の弟(貴久の弟、尚久のことか?)の下で、書記を務めた」という人物であるが、日本側の記録に該当する者はいない。おそらくは中国人だったと思われるが、何らかの形で薩摩と太いパイプがあったらしく、彼の船団に薩摩人が多く参加していたのは間違いないようだ。

 ちなみに日本初の洗礼を受けたキリスト教徒であり、ザビエルの通訳兼案内者として有名な「アンジロー」も薩摩出身の元密貿易商人であったが、ザビエルと別れた後は倭寇として活動していた、とある。もしかしたらこの船団に乗っていたかもしれない。

 陳東の船団は、1555年の正月に出航、浙江省を中心に各地を荒らしまわった後、3月に一旦、日本に帰っている。中には故郷に財貨を持って帰れた、幸運な略奪者もいたことだろう。拙著の2巻において院俊が「倭寇に誘われて、行人たちが多く参加した」と語っているシーンがあるが、それはこの55年の3月に帰ってきた略奪船団のことを指している。陳東の船団は翌56年に再び出航しているが、この時は同じ倭寇仲間であった徐海に裏切られ、彼自身は官憲に捕まってしまい、部下もその殆どが壊滅している。

 次に葉明だが、彼は「驍勇剽悍、諸酋の冠明たり」と称されるほどの人物であったようだ。1556年正月に出航した彼の船団は、各地を荒らしまわるも、やはり最後は徐海によって裏切られ、捕らわれている。

 

倭寇図巻」より、上陸用の舟に乗って明の官舟と戦う倭寇。機動性に富んでいた彼らは、かなり奥地にまで入り込んでいたことが分かっている。こうした小舟を使って川を遡ることもあったのだろうか。1555年7月には60~70人ほどの倭寇の小グループが、沿岸から200キロ以上離れた南京城にまで長駆して略奪行を行っている。深入りしすぎた彼らは、帰路に大湖湖畔で官軍に捕捉され、壊滅している。

 

 このような略奪行に参加した根来行人たちは、ある程度いたと思われるが、故郷に錦を飾って帰れた者は、どれほどいただろうか。南京の例の通り、欲の皮を突っ張らかして途中下車できずに、最期まで参加して大陸の露と消えた者どもが殆どだった、と思われる。

 先述したアンジローも、フロイスの「日本史」の中で、その最期について「海賊の一船に身を投じ、中国で死亡」と簡潔に記されている。(続く)

 

 

後期倭寇に参加した根来行人たち~その③ 日本に本拠を置いた王直と、杉乃坊算長

 双嶼が壊滅した時、王直はどうしていたのか?実は彼は、既に双嶼に見切りをつけていたらしく、1547年頃から日本の五島列島に拠点を移していた、という説がある。それによると王直は、本拠を双嶼に置いていなかったことを幸い、蘆七や沈九、陳思盻(ちんしけい)らといった双嶼の残党集団を壊滅させ、うまく立ち回って現地の官憲の信頼を得ることに成功したらしい。

 ライバルを潰してその船団を吸収し、ますます大規模化した王直の船団は、双嶼近くの瀝港(れきこう)に本拠を置き、現地の官憲・郷紳らと結託し、盛んに密貿易を行った、とある。人民の中には、進んで酒米や子女を与える者もいたし、官兵の中にも紅袍や玉帯を贈る者までいたという。

 だが1552年になって、浙江省沿岸を再び略奪船団が襲い始める。4月から7月にかけて、奉化・遊仙塞・瑞安・太倉などが軒並み荒らされ、遊仙塞ではこれと戦って府知事の武偉が戦死する、という事態を招く。この略奪船団に王直が関わっていたかどうかは不明だが、こんな不必要なリスクを冒す必要はなかったような気がする。この時期の王直は官憲とうまくやっていたし、密貿易だけで十分儲かっていたはずだ。やったのはどうやら、王直と関係ない双嶼の残党集団――鄧文俊、林碧川、沈南山らだったらしい。その配下には日本人が数多くいた、とある。

 いずれにせよ、この略奪船団はやりすぎた。怒れる北京から、提督軍務を任せられた、都御使・王抒(おうよ)がやってきたのだ。双嶼の再現である。ターゲットは密貿易集団の最後の大物、王直。「自分はやっていない」と言っても信じてもらえなかったろうし、いずれにせよ祖法に触れる密貿易自体は行っていたから、どうしようもなかったろう。1553年3月、王抒が率いる軍の攻撃により瀝港は陥落、せっかく築きかけた根拠地を失ってしまうのだ。王直は五島列島へと舞い戻り、肥前の大名・松浦隆信に招かれ平戸で大屋敷を構えることになる。

 鄧文俊、林碧川、沈南山ら双嶼の残党らが、多くの日本人を略奪行に誘ったことが、後期倭寇に日本人が参加した、本格的なきっかけになるわけだ。後期倭寇の主体はあくまでも、中国人の元密貿易集団であり、日本人はそれに乗っかった形での参加であった、ということになる。後期倭寇に占める日本人の割合は、2~3割とも伝えられている所以である。

 

倭寇図巻」より。これから略奪をせんと、中国大陸に上陸する倭寇の船。

 前述したように、1542年に種子島に鉄砲をもたらしたのは、この王直だ。そして種子島にやってきた鉄砲を入手、根来に持って帰ったのは四院のひとつであった、杉乃坊の有力関係者・杉乃坊算長である。王直が種子島に来た時に、算長はそこにいたのだろうか。「鉄炮由来書」によると、いたことになっている。そこでは算長は、1530年前後に中国に渡ろうとして失敗、難破して種子島に辿り着き、島の娘と所帯を持って10数年も住み着いていた、とあるのだが、どうであろうか。この説は信憑性が低い。

 更に「鉄砲記」によると、算長は1543年に種子島家の使者として根来を訪れ、かの地に鉄砲をもたらしたことになっている。両書とも算長が種子島家の家臣扱いになってしまっているが、これはどう考えてもおかしいのだ。

 紀の川市に現存する津田氏蔵の家譜によると、算長は杉乃坊の門主である明算の弟、とある。つまり、杉乃坊門主である明算の弟・算長が、種子島に「何か物珍しいものがやってきた」という情報を仕入れたので、翌43年になって来島してみた、というのが真相のようだ。

 紀州の人が薩摩・坊の津を起点とした南海航路を使って活動していたことは、多くの記録に残っている。主役は雑賀の紀之湊の住民であったろうが、根来行人の姿もこうした記録に頻繁に出てくるのだ。普段から南海航路を行き来していたからこそ、こうした情報をいち早くキャッチアップすることができたのだろう。

 また明の人、鄭若曾が記した「籌海図編(ちゅうかいずへん)」には、「倭寇の拠点であった福建省の月港や、浙江省の双嶼港には、乞奴苦芸(きのくに)の人が多く入寇する」といった旨の記載がある。杉乃坊算長は中国語・ポルトガル語を解して、東シナ海を股にかける海商でもあった、とも言われている人物である。陥落前の双嶼を訪れてその黄金時代を目にしていたとしても、不思議ではないのだ。

 また王直は1540年代から頻繁に日本を訪れていたから、平戸や五島で算長と出会っていた可能性もある。王直は物事の調停に優れ、計算にも明るく、学問もあったと言われている人物で(『鉄炮記』には、明の儒者・五峯として登場するほどだ)、相当に魅力的な人物であったことは間違いない。根来の杉乃坊算長と、アジアを股にかけた倭寇大親分・王直。もし両者がどこかで会っていたとしたら、どんな会話を交わしたのだろうか。(続く)

 

後期倭寇に参加した根来行人たち~その② 双嶼壊滅と後期倭寇の始まり

 双嶼の繁栄は長く続かなかった。先の記事で「略奪などはそんなには行っていなかった」と書いたが、それも1546年までのことだった。この年から翌47年にかけて、密貿易商の親分格であった、許棟兄弟が突如70余隻の船団を率いて、浙江省の沿岸地帯を襲い始めたのである。

 町を襲い、その地の富豪を誘拐し身代金をせしめる、などの暴挙に出た理由は、多額の借金にあったようである。許棟兄弟は4人兄弟であったが、うち許一と許三が海難事故にあってしまった。それによる損害を挽回するため、双嶼におけるポルトガル人の親玉のひとり、ランサロッサ・ペレイラから出資を募って、日本に向けて密貿易船を送り込んだのだ。だが思ったように利が上がらなかったらしく、当てが外れた許棟兄弟が手っ取り早く略奪行為を行って負債を返そうとした、というのが真相らしい。そうした経緯もあって、この略奪船団にはポルトガル人も多く参加していた、とある。

 これら一連の騒ぎが北京にまで届き、その対策として腕利きの官僚・朱紈(しゅがん)が浙江省巡撫(じゅんぶ)(一省の最高長官)として送り込まれてきたのが、1547年のことである。

 苦学の末、30前後の時に進士となった朱紈は、各地の諸官を歴任し、実績を上げてきた清廉剛直な官僚だ。そんな彼に、明の世宗・嘉靖(かせい)帝が下した勅諭には「このところ手つかずであった密貿易の徹底的な壊滅を命ずる。その為に福建省各地の海道提督軍務も掌握させる」旨が記されていた。要するに、このところ沿岸を騒がしている略奪集団の元凶である双嶼を潰せ、ということである。

 

倭寇図巻」より。侵略してきた倭寇を壊滅すべく、出撃する明の軍隊。

 

 朱紈は十分準備を整えた上で、翌1548年5月に双嶼を攻撃する。町は全て焼き払われ、賊で死んだ者は数え切れず、と伝えられている。この時、生け捕りにされた密貿易商人の中には、薩摩東郷出身の稽天(けいてん)と新四郎という2人の日本人がいた、とある。その後の尋問で、どのような経緯で双嶼にやってきたか自白した記録が残っている。この時代のグローバルな海運の状況が垣間見えて、興味深い。

 

kuregure.hatenablog.com

稽天について、より詳細な情報を知りたい方はこちらを。よくぞこんなマイナーな人物を調べて記事にしたものだと、感心する。

 

 この時に焼き払われた船は27隻、と伝えられている。思ったよりも少ないのは、うまく逃げ切れた船が多かった、ということだろう。王直の親分筋であった密貿易の大物・李光頭と、双嶼壊滅の原因をつくった許棟兄弟もこの時に脱出したが、その後の追撃戦で捕まって死刑となった。密貿易の片翼を担っていた、仏狼機賊(ふらんきぞく)――ポルトガル人の多くは広州の浪白澳(らんぱかう)へと逃れたが、その後マカオへと居を移すことになる。ちなみに許棟兄弟に金を貸したペレイラも、1549年に李光頭と一緒に福建省で捕まって、広東の牢獄で獄中死している。

 町は灰塵と化し、港は木石を以て埋められてしまった。繁栄を極めた密貿易都市・双嶼の短い黄金時代は、こうして終わりを告げたのである。

 なお、双嶼を壊滅させた朱紈の言葉として、次のようなものが残っている。曰く「外国の盗を去るのはやさしいが、中国の盗を去るのは難しく、中国瀬海の盗を去るのはもっとやさしいけれど、中国衣冠の盗を去るのが最も難しい」。

 要するに、李光頭や許棟兄弟ら密貿易集団のバックには中央と結託した郷紳らがいて、それらが利を貪っている。これら郷紳らをどうにかしないと効果がない、と皮肉っているのである。いずれ朱紈はわが身を以て、この言葉を証明することになるのだ。(続く)

 

著作について~その③ 1巻の表紙を変える・色入りの絵が上がってきました & 紐と袋を勘違い

 色入りの絵が上がってきました!

徐々に、命が吹き込まれていく感がありますね。

 帯の柄が素晴らしいです!特に考えもなく指定していなかったのですが、珍飯さんがデザインしたものを入れていただきました。お祭り用に誂えた感がしてピッタリです。この絵を受けて、本編の文中をほんの一部ですが、差し替えようと思っています。表紙が新しくなったバージョンの販売時に、反映させる予定です。絵を見て文が影響されるのも、双方向な感じがしていいですよね。

 余談ですが・・実は修正の過程で、次郎が振り回している投石紐にある礫受けを、もうちょっとだけ幅のあるものに変えていただきました。違いが分かりますか?

 

BEFORE

AFTER

 設定では、この礫受けには複数の礫が入る構造になっているので、より余裕のある形にしていただくと共に、膨らみを大きくして頂いたのです。この修正をお願いする際に、珍飯さんにこんなメールを送っていました。

「(礫受けを)もう少し包み込むような形でお願いしたいです。細長い皮の袋があったとしたら、それを縦に裁断したイメージで、三分の一くらいのところを切り取って、それの両端を革ひもにつなげたイメージですかね・・」

 自分で送っておいてなんですが、今読むと意味がさっぱり分かりませんね・・・こんな解読不明なメールを送ってしまったところ、珍飯さんから送られてきた画像がこちら。

 

こじんまり。

 これ、可愛くないですか?思わずフフッと笑みがこぼれてしまいました。こちらの説明不足で投石紐の礫受けではなく、腰に下げていた礫入れのことだと勘違いさせてしまったようです。余計な手間をかけさせてしまって、申し訳なかったです。

 

珍飯さんこと、空廼カイリさんの、未来世界の租界のような歓楽街を舞台とした、クライムサスペンス。設定がきちんとしているので、世界観が奥深いです。また主人公が、渋くて実にカッコいいのです。吸血鬼か獣人、どちらが好きかというと獣人派なので、余計にそう思うのです。

 

 次回のこのシリーズでは、表紙完成をお知らせできると思います。(続く)