根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その⑤ 東南アジアにおける日本人傭兵たち

 サイヤ人ばりに戦闘能力が高かった戦国期の日本人は、傭兵としての需要も大きかった。最も有名なのは、タイの傭兵隊長山田長政であるが、他にも例は幾らでもある。1579年にタイのアユタヤ王朝がビルマラオス連合軍に侵略された際には、500人の日本人傭兵がアユタヤ側に雇われて戦った、とある。1596年1月18日には、スペイン軍のカンボジア遠征に日本人傭兵団が参加している。2年後に行われた同遠征にも、別の日本人傭兵団が雇われている。このように大小さまざまな規模の日本人傭兵団が、東南アジア各地にいたということだ。

 

静岡浅間神社蔵「山田長政 日本義勇軍行列の図」より。タイの軍団と共に行進している日本人軍団。薙刀らしきものを肩に担いでいる。この時代の東南アジアにおいては、優れた武器であった日本刀の需要は高く、刀身を輸入して加工し、槍の穂先につけるなどしていた。この薙刀も或いはそうかもしれない。

 

 自由な身分の兵士ばかりだったわけではなく、奴隷兵士たちも多かった。インド・ポルトガル領ゴアの市参事会の記録に「島を守備するために、日本人奴隷の兵士が必要だ」とある。だが、同じ文書に「日本人奴隷が解放されると、現地人と結託して反乱を起こす恐れがある」とも記されている。相当な数の日本人奴隷が兵士として働いていて、その戦闘力が評価されていた(そして恐れられていた)ことが分かる。

 オランダ東インド会社は、その本拠をバタヴィア(現在のジャカルタ)に置いた。1620年1月に行われた、バタヴィアにおける人口調査では873人の住民が記録されているが、そのうち71人が日本人であった。12人に1人というかなりの割合になるが、その殆どが傭兵であったらしい。

 翌21年に、バタヴィア総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンが自ら兵を率い、ナツメグの産地であるバンダ諸島で現地住民の大虐殺を行う。島民の90%以上、約1万2000人を殺害、もしくはバタヴィアに連行し奴隷にして売り払ったと言われている。この悪逆非道の行為によって、クーンには「バンダの虐殺者」という異名がつくのだが、これに参加した2000の兵のうち、87人がクーン直轄の日本人傭兵であったそうだ。彼らは刃物の扱いに長けていたので、特に斬首刑の執行役として重宝されていたようだ。

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以下、ややショッキングな画像があるので注意!

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バンダネイラ博物館蔵「バンダにおける、伝統的指導者たち44人の虐殺」。1621年5月8日に行われた、処刑シーンを描いた近代絵画。処刑を担当している日本人傭兵が、まわしをつけた力士にしか見えないのが、異様にホラーな雰囲気を醸し出している。

 

 こうした傭兵たちの供給元は、浪人たちであった。戦国の世が終わり、徳川幕藩体制の元、多くの大名が取り潰しの目にあう。大量に溢れた浪人たちが、糧を求めて海外へ渡ったものと見られている。根来の元行人たちの中にも、そうした者たちがいたかもしれない。

 なお日本人と同じように、傭兵としての需要が高かった民族に「カフル」と呼ばれたアフリカのモザンビーク人がいる。モザンビークでは部族間の抗争が盛んで、日本と同じように人取りで捕まった奴隷がポルトガル人に売られていた。そういう関係で、戦士たちが多かったのかもしれない。ポルトガルの宣教師に日本に連れてこられ、信長の目に留まって武士となった元黒人奴隷「弥助」も、インド経由で来たモザンビーク出身の奴隷兵士であった。

 彼らカフルの戦闘能力は非常に高かったらしい。1606年にオランダはポルトガルからマラッカを奪わんと、11隻の艦隊を送り込んでいるが、失敗している。この時にオランダ軍を迎撃したポルトガル軍には日本人傭兵もいたようだが、主力はカフル、つまり黒人奴隷兵士だった。その勇猛な戦いぶりには攻撃側の指揮官である、ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(先述したバンダの虐殺者)が感心しているほどだ。

 こうしたアフリカ人奴隷、或いは傭兵が、自分のために奴隷を購入することもあった。1631年の記録に、メキシコにおいてファン・ビスカイノというアフリカ人奴隷が、日本人奴隷ファン・アントンを解放した、という記録が残っている。解放に要した費用は100ペソであったそうだ。

 14~15世紀における、日本を含めたアジア・アフリカの人々の移動距離の長さと、遠い異国の地で逞しく生き抜く力には驚かされる。(続く)

 

 

 

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その④ 海外に売られていった日本人奴隷(下)

 アジアにおける奴隷貿易は、如何ほど儲かったのだろうか?1609年に人さらいに騙されて、マカオで船に乗せられ、マニラにて売りに出された中国人の少年少女たちの史料が残っている。それによると、誘拐犯からの仕入れ値は1人につき10パルダオ、マニラにおける販売価格は120~130パルダオ、とある。12倍から13倍で売れたということなので、相当儲かる商売だったのだろう。

 ただポルトガル人によるこれらの奴隷の扱いは、そう酷いものばかりではなかったらしい。例えばアジアにおけるポルトガル人の根拠地・マカオの港湾機能は、日本人に限らずこれら奴隷たちの労働によって支えられていたのだが、賃金の50%は本人のものになったようである。財産を貯めて自分で自分を買い取れば、いずれ自由になれたのだ。元奴隷だったが自由になれた日本人の名が、記録に数多く残っている。

 その中の一人に、ペドロ・ルイス・ジャポンという名の元奴隷の日本人がいる。(ちなみにポルトガル人に買われた奴隷は、皆すべからく洗礼を受けさせられキリスト教徒になっている。買主は購入から半年以内に、異教徒を改宗させる義務があったようだ。なのでポルトガル風に改名しているのだ。)彼は貯めたお金でわが身の自由を買い取った後も、引き続きマカオで港湾作業に従事していたようだ。1590年に、ポルトガルから入港した船にロープをかける作業などを行って、24ペソを稼いでいる記録が、その船の商業日誌に残っている。なかなかのやり手だったらしい彼は、単なる肉体労働者ではなく、必要に応じて賃金奴隷を雇う請負業者でもあったらしい。アフリカ人、ベンガル人、そして同じ日本人の奴隷を雇って、船の補修に必要な木材を調達していたことが分かっている。

 人のいいポルトガル人の元で働いていた家庭内奴隷などは、主人の死と共に自由になれる者もいたようだ。恩給まで受取っている者もいる。1562年に日本で生まれ、1583年21歳の時、奴隷としてマカオにやってきたマリア・ペレスという日本人女性は、主人の遺言で奴隷身分から解放された後は、職業的召使としてマカオの商人宅を転々とした、と伝えられている。更に運のいい者は、養子同然に育てられ、遺産を相続したものまでいるのだ。

 もちろんこうした美談は、人の好い主人と、性根のいい奴隷との間でのみ成立したことであって、酷い主人による虐待行為なども多かったろう。実際、夫が気に入っていた日本人女性奴隷に嫉妬したポルトガル人女性が、その奴隷を壮絶な拷問にかけた末、殺害した話も残っている。

 隙さえあれば、逃げ出す奴隷もいた。わが身を奴隷として売る日本人奴隷もいたが、自らを売った代金を懐に入れ、マカオに着いた途端に中国領に逃亡する、そのような事例が相次いだらしい。そういうのは大抵、罪を犯して故郷にいられなくなり、逃げてきたような筋の悪い輩だ。犯罪者に金を渡して、タダでマカオに連れてきた挙句に野に放ったようなもので、色々な意味で大損である。

 奴隷も人間だから、まともな人もいれば、どうしようもない怠け者の人間や、反抗的な人間などもいたことだろう。こうした「素直でない」奴隷たちを利用して、ポルトガル人がスペイン人に行った、とある嫌がらせを紹介しよう。

 商売上のことで諍いが生じたので、ポルトガル人らはスペイン人の町であったマニラに対して、復讐することにした。彼らはアルコール依存症や窃盗癖のある者、元強盗犯などの「選りすぐりの」奴隷たちを集めてマニラに送り付けたのである。この中には日本人もいたらしいのだが、マニラ市内で売りに出されたこれら札付きの悪党どもは、市内を数か月に渡って大混乱に陥れた、と伝えられている。想像しただけで笑ってしまう、まるで映画化できそうな話だ。

 

狩野内膳作「南蛮屏風」。リスボン古美術館所蔵。一番左端に東洋人的な顔立ちの奴隷がいるが、彼は日本人かもしれない。

 

 ちなみにマカオにおける奴隷数は、約5000人と伝えられているが、その殆どは黒人であったそうだ。マカオに限らず、世界各地に散った日本奴隷は、果たしてどのくらいの数がいたのだろうか?正式な数をカウントすることはできないが、数百ではきかず、おそらく数千~という単位にはなったのではなかろうか。

 1582年に「天正遣欧使節団」がヨーロッパに向かう途中、東南アジア各地で奴隷となって使役されている日本人たちを見ている。少年使節たちは同胞を売る奴隷商人たちに、激しい怒りや悲しみを覚えた、と述べている。(続く)

 

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その③ 海外に売られていった日本人奴隷(上)

 ここで一回、倭寇から離れて当時の日本人奴隷について見ていきたい。16世紀から17世紀にかけて、大勢の日本人が東南アジアのみならず、インドや中南米にまで移住している。パターンとしては、これまで見てきたように、まずは貿易に関わる商人として。次にタイ・フーサのように海賊、つまり倭寇として。そして意外にも多かったのが奴隷として、である。

 戦国期、大名たちは近隣に侵略を繰り返した。侵略の際には乱取りがつきものだ。拙著の2巻冒頭にちょっとだけ出てくるが、和泉の国に佐藤宗兵衛という男がいる。1502年に根来寺と同盟関係にあった彼が日野根に侵攻した際、男女を問わず周辺の住民を生け捕りにした、と記録にある。多くの妻子らが捕らわれてしまった日野根荘では、身代金を100貫文出すから返してくれ、と宗兵衛に交渉したが、決裂している。攫った方はもっと高く踏んだくれる、と思ったのかもしれない。

 上記の場合は身代金目的の人取りだが、請負ってくれる人が誰もいない場合には、容赦なく奴(やっこ)、つまり奴隷として売り払われてしまった。上杉謙信は関東に毎年のように出兵し、その際には略奪を行うのが常であったのだが、人もまた多く攫っている。略奪の後に開かれた市では、安値で人が売り払われた、と記録にある。人市、つまり奴隷市場がたっていたのだ。(該当資料は誤読である、という異論がある。その通りかもしれない。ただ人取りを含む略奪行為は、当時の軍兵の『当然の権利』として認められていたものだったから、上杉軍も『常識の範囲内』で行っていただろう。少なくとも上杉の北条攻めに呼応した関東諸氏は、積極的に略奪&人取りをしていただろうと思われる)

 上杉氏だけでなく、多くの大名がこのように人身売買をしていた。九州では1586年ごろから、薩摩の島津氏による豊後侵攻が始まるが、フロイスの記録には島津勢が「おびただしい数の人、特に婦人・少年・少女たちを拉致した」と記されている。また臼杵城攻めの際は「婦女子含めて、3000人を攫った」ともある。これら拉致された人々の多くは、肥後や薩摩において買い取られていったのだが、この2年後に肥後は飢饉になってしまう。これらを食わせることができなくなった主たちは、奴隷たちを島原まで連れて行って、二束三文で転売した、とある。

 

大阪城天守閣蔵「大阪夏の陣図屏風」より。「ヒャッハー」とばかり人取りをする足軽ども。こうした略奪目的で、戦さに参加する輩も多かった。

 

 こうした国内状況に目をつけたのが、この頃日本に来ていたポルトガル人である。東南アジア各地に、植民地を経営しはじめていたポルトガル人は、働き者の日本人を好んで使った。単純な労働力の他、家庭内奴隷、つまり召使としての需要が高かったようである。

 1570年~1590年にかけて、マカオで最も多く取引された奴隷は、日本人奴隷であったという。ちなみにそれ以前は、倭寇が攫った中国人奴隷であった。1592年以降は朝鮮人奴隷が急増する。秀吉による文永・慶長の役の影響である。この時は供給量があまりに多かったため、奴隷価格が劇的に下がったと伝えられている。

 こうした奴隷の出荷先は東南アジアではマカオ、マラッカ、そしてインドのゴアなどが多かったが、中南米のメキシコやアルゼンチン、ポルトガル本国まで渡った日本人奴隷もいたことが分かっている。

 年季奉公のつもりで前金を貰ったのが、実は奴隷としてわが身を売り飛ばす契約だった、という悲惨な例も見受けられる。年季奉公という概念がないポルトガル人は、これを恣意的に解釈して「永久的奴隷」に変えてしまう場合が往々にしてあったのだ。特に主人が死んだ際の、遺産相続時に契約内容が書き換えられてしまうことが多かったようで、関連する裁判記録が残っている。(続く)

 

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その② 流れ流れて、幾千里。倭寇の親分になった「大夫様」

 日本人が頭目であった倭寇集団もあった。最も有名なのがルソン島・カガヤンを縄張りとする「タイ・フーサ」として知られている日本人が率いていた倭寇集団である。1582年に、この倭寇集団とスペインとの間で「カガヤンの戦い」が行われている。

 この「タイ・フーサ」だが、「大夫様」と部下に呼ばれていた日本人だと考えられている。「大夫」というのは、正式には官職ないし神職にある、それなりに偉い位なのである。最も官名なぞ、各自が好き勝手に名乗っていた時代だったから、彼がしかるべき偉い人であったかどうかは、甚だしく疑問である。

 ちなみに根来にも、大夫という名の行人がいたことが確認できる。1556年の跡式の出入りで、槍で突きかかっていった挙句、慶誓に矢で射られてしまった、三實院の行人のひとりである。

 

negorosenki.hatenablog.com

大夫 vs 慶誓の戦いの顛末は、こちらの記事を参照。慶誓の記した「佐武伊賀守働書」では、ほとんどモブ扱いだが・・

 

 流石にこの大夫が、タイ・フーサと同一人物である可能性はないと思うが、仮に100万分の1以下の確率でも、根来の行人が流れ流れて数奇な運命の末、遠く日本を離れ、遥か南の島ルソン島北部・カガヤンに辿り着いた――そう想像してみるだけでも、愉しくなるではないか。本当は何者であったか、今では知る由もないのだが、いずれにせよ彼は、ここを本拠とした倭寇の集団のひとつを率いる親分になったのである。

 マニラに本拠を置くスペイン人たちは、己の交易網の脅威であったこの倭寇集団を殲滅することに決め、ガレオンを中核とした10隻程度で編成された艦隊を送り込む。まず洋上でタイ・フーサの倭寇船団を捕捉、これとの間で接舷戦が行われる。日本刀を手に斬り込んできた倭寇たちと、甲板上で激しい戦いとなった。ここで船長のペロ・ルーカスが戦死している。スペイン側は船尾にマスケット銃士らによる防御陣地を急造、一斉射撃によって何とかこれを撃退した。

 

2016年にクラウドファンディングを利用して、スペインで発売された漫画「世界の終わりの剣」より。カガヤンの戦いが題材だ。スペインの船に接舷戦を挑む倭寇たち。

 ここで勝利をおさめたスペイン艦隊は、カガヤン川を遡っていき、タイ・フーサの本拠地の砦を発見、塹壕を構えてこれを包囲する。倭寇たちはマスケット銃と大砲で守られたこの陣に対して、決死の突撃を3回試みる。そして3度目は互いに刃を交えるほどの接近戦に持ち込むが、あと一歩のところで撃退され、壊滅してしまうのだ。タイ・フーサも、この時死亡してしまったものと思われる。

 

「世界の終わりの剣」より。包囲網を突破せんと、決死の突撃を行う倭寇たち。

 この倭寇集団だが、規模としてはそう大きいものではなかった。記録によると、タイ・フーサの持っていた船団は、ジャンク1隻・サンパン18隻、とある。先の記事で紹介した林鳳の船団などは、ジャンクだけで62隻とあるから、比べ物にならない。略奪専門というよりは通商がメインの、カガヤンに住み着いていたローカルな倭寇だったと思われる。構成員も倭寇だけではなく、その家族も含めた私貿易集団、とでも呼んだ方がふさわしい集団だったのではなかろうか。カガヤンにはタイ・フーサ一党の他にも、こうした小規模な集団が幾つかいたらしく、一帯には600人ほどが住んでいたと伝えられている。

 同じくフィリピンのリンガエンにも、日本人の集団が小さな港を造って住み着いていたことが記録に残っている。この港はスペイン人からは「ポルト・デ・ロス・ハポネス」、すなわち「日本人の港」と呼ばれていた。カガヤンよりマニラに近いにもかかわらず、スペイン人から攻められていないところを見ると、脅威と見られないほど規模が小さかったのだろう。

 この集落は15世紀後半から16世紀半ばにかけて、60~80年間ほど存在していたようで、1618年にマニラ総督がスペイン本国に送った報告書には、「年に6~8万枚ほどの鹿皮を積み出している」とある。開拓時代のアメリカにおける、交易村のような存在だったのだろう。この日本人の集団は、最終的には発展著しいマニラに吸収されるような形で、皆そちらに移住してしまったようだ。

 戦国期の日本は武具に鹿皮を多用したため、国産だけでは需要が賄いきれず、その多くを海外から買い求めていた。鹿皮の輸入先の例として、フィリピンの他にタイや台湾などがある。台湾の南澳島に同じような性格と規模の倭寇集団が居住していたことが記録に残っている。交易もするが、時に応じて略奪もする、こうした数百人程度の小規模の倭寇集団は、当時の東南アジアを中心とした海域に、それなりの数が存在していたと見られている。(続く)

 


www.youtube.com

YOUTUBEに、この漫画の宣伝動画があった。最後は老主人公とタイ・フーサとの一騎打ちになるようだ。なかなか面白そうだ。スペインのアマゾンで売っていたのを発注したのだが、何回やってもキャンセルになってしまう。何とか手に入れたいと思っているのだが・・

 

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その① 海賊王を目指した林鳳

 後期倭寇の最盛期は1550年代だが、その数を減らしながらも活動自体は引き続き続いていく。これまで前期倭寇と後期倭寇を紹介してきたが、後期倭寇のうち万暦年間の始まり、1573年あたりからの倭寇を「第三期倭寇」と呼ぶ学者もいる。「晩期倭寇」とでも名付けるべきであろうか。特徴としては、構成分子の国際的色彩がより豊かになり、活動地域が中国沿岸から、台湾・フィリピン・タイなど東南アジアを含む南洋全体に広がったことだ。

 この晩期の倭寇として、まず有名な人物に林鳳(スペイン側の記録ではリマホン)がいる。潮州出身で祖父の代から倭寇であったというから、筋金入りの海賊大将である。1565年あたりから活動をはじめ、最盛期には4000人の部下がいたというから、相当なものだ。

 1574年11月。この時、林鳳は男どもだけではなく、多くの女子どもも含めた、さながら移民船団のような艦隊を率いていた。中国沿岸で暴れすぎた彼は、明の官憲に追われていたのである。向かった先は中国沿岸より警備の緩い東南アジア方面。主にタイ・台湾・フィリピン周辺の島々である。しかし豊かな中国本土と違って、島々との密貿易や略奪行には旨味は少ない。かといって追われているから中国沿岸には戻れない。でも配下の者どもは食わせにゃいかんし――ということで、いっそ林鳳はフィリピン全域を占領して、海賊王になることを決心するのだ。

 

「海賊王に、俺はなる!」スペインの児童書から画像転載。時代考証や服装など、随分といい加減な感じの林鳳。頭に被っている謎の物体は何なのか。足下で倒れているのはマニラ総督マルティン・デ・ゴイティ。

 

 1574年時のフィリピン・マニラにはスペイン人が町を築き、周辺の海域を支配していた。この町を奪わんと、林鳳率いる倭寇が侵攻。このときスペイン人の守備隊の多くは60歳を過ぎた退役軍人で、現地のフィリピン人を加えた混成部隊だったという。

 11月30日と12月2日の2日間に渡って、林鳳はマニラを攻撃する。倭寇集団は市の防衛線を突破、マニラ総督マルティン・デ・ゴイティを殺害し町を略奪。そして町の中に最後に残った砦の奪取を巡って、激しい戦いが繰り広げられたのである。立て籠もったスペイン側には、もう後がない。倭寇に捕まったら皆殺しが相場、運が良くて奴隷だから、必死で防戦した。そして防御陣が破られそうになったその瞬間、思い切って逆に討って出たスペイン側の反撃により、倭寇集団の戦線は崩壊。林鳳は敗走する。

 その後、林鳳はマニラから北へ200kmほど離れたパンガシナンの河口に砦を築くが、1575年3月22日、彼を追ってきた明の軍隊とスペインの連合軍に包囲されてしまう。4か月という長い間、林鳳は包囲に耐え抜く。そして最終的には、密かに掘り進めていた水路を通じて、逃れることに成功するのだ。一説によると、この逃走劇に使用されたボートは37隻もあったらしいので、それなりの数が逃れたものと推測できる。

 その後、林鳳は安住の地を求め、南シナ海を彷徨う。散発的に潮・広州沿岸を襲うなどをしていたが、明の追撃は厳しいものだったようだ。1576年にはタイのアユタヤ王朝を訪れ、これまでに貯めた財宝と引き換えに保護を求めるも、拒否されている。行き場のなくなった彼は、いっそまだ見ぬ新天地を求め、大海原へと漕ぎ出していく。その後、彼の船団を見たものはいない・・・

 この倭寇集団の戦闘部隊の中核は日本人だったらしく、マニラ攻略の際に一連の攻撃の指揮を執っていたのも彼の副官であった「シオコ」という日本人だった、とスペイン側の記録にある。「庄吾」、或いは「新五」とでもいう名だったのだろうか。彼らは刀と共に鉄砲も使用していて、スペイン方の指揮官の一人、サンチョ・オルティス少尉を狙撃して斃している。ただその直後に、シオコも撃たれて死亡したようだ。あともう少しのところで攻撃が失敗してしまったのも、指揮を執っていた彼が死んでしまったからかもしれない。

 それにしても、もしこの攻撃が成功して林鳳がマニラを奪取していたら、フィリピンのその後の歴史は変わっていただろう。相当、際どい戦いだったので、その可能性は十分にあったのだ。もしかしたら、倭寇による国が建国されていたかもしれない。(続く)

 

 

後期倭寇に参加した根来行人たち~その⑩ 史上最大の倭寇船団を率いた男・徐海と、日本人倭寇たち(下)

 こうして全ての邪魔者を始末した徐海は、8月1日に手勢を率いて官憲に降伏する。はじめ胡宗憲はこれを手厚くもてなしたという。帰順した徐海一党には、適当な居留地が与えられることになり、8日に沈家荘という地に入る。東側に徐海一党が、川を挟んだ西側に陳東と麻葉の残党が入居することになった。

 しかし官軍の警戒が一向に解かれず、軟禁状態に置かれてしまったことに、徐海はようやく気づくのだ。だが、もう遅かった。あれだけあった手勢はわずかしか残っておらず、自身も既に籠の中の鳥である。自暴自棄になった彼は、17日に胡宗憲の使者を斬って、最期の戦に備える。

 ところが官軍が迫って荘中が混乱する中、捕まっているはずの陳東から、彼の残党の元に伝言が届けられるのだ。その伝言は「この騒ぎは実は陽動で、胡宗憲の意を受けた徐海が、お前らを始末しようとしているのだ。気をつけろ」という内容だったのである。以前、胡宗憲が徐海に対して行った策略と同じパターンである。

 

見え透いているような手なのだが、意外に効果的。

 

 25日夜、激高した陳東の残党らは川を越えて徐海の元に押しかけ、これと乱闘の末、殺してしまう。そしてこの残党らも、徐海が死ぬのを待ってました、とばかりに襲いかかってきた胡宗憲の軍によって、翌26日に壊滅させられてしまったのである。

 こうして倭寇最大の勢力を誇った、徐海の一党は滅んだ。規模の割にはあっけない終わり方であった。やり方はどうあれ、これを仕切った胡宗憲の一連の手腕は見事なもので、まるで三国志の物語を読んでいるかのようだ。

 ちなみに残りの4人の日本人、種子島の助左衛門、薩摩の夥長掃部、日向の彦太郎、和泉の細屋らはどうなったのだろうか?「日本一鑑」の「窮河話海」巻四にその顛末が記載されている。

 まず種子島勢だが、何処かの地でほぼ壊滅してしまったようだ。リーダーの助左衛門ら以下、数人だけが何とか帰島に成功している。種子島に顔が利いた徐海は、1552、54、56年と3度に渡ってこの島で倭寇の参加募集をかけたのだが、あまりに募集しすぎて(そして帰ってこない者が多すぎて)、島の集落から人が減って閑散としてしまった、と伝えられている。生き延びた助左衛門は、さぞかし肩身の狭い思いをしたことだろう。(というか、無事で済んだのだろうか)

 次に薩摩勢と和泉勢だが、彼らは終始、陳東と行動を共にしていたらしい。なので、陳東が捕まった際に一緒に壊滅したか、そうでなければその残党として沈家荘の東側に入った可能性もある。後者だとすると、27日の夜に徐海を殺したのは、もしかしたら彼らであったかもしれない。いずれにせよ、残党は徐海を殺したその数時間後には壊滅してしまっているから、和泉勢の中に根来衆がいたとしたら、そこで最期を迎えたということになる。

 なお、別行動をしていた彦太郎率いる日向勢のみ、大きなダメージもなく日本に戻ってこられたようだ。相当数の船団が故郷に帰りついた、とある。記録には70隻とあるが、本当だろうか。その半分にしても多すぎるような気がするが・・いずれにせよ、船倉に略奪品を満載していたとすると、相当儲かったに違いない。

 二大巨頭であった王直と徐海の死によって、倭寇集団は大きなダメージを受けた。これにより浙江・江南の倭寇は平定され、残党たちは福建・広東などの、中国東南沿岸部へとその舞台を移すことになる。またこの頃より、以前の記事で紹介した、戚継光(せきけいこう)の「戚家軍」などが活躍しはじめるのだ。私軍を中核としたこれら精鋭軍団によって、倭寇集団が陸戦で壊滅させられることが多くなってくる。

 また明は、海上活動を必要以上に締め付ける愚策を悟り(今更だが)、1567年以降は海禁政策を緩和する方向に向かう。税さえ払えば、貿易が合法として認められるようになったのだ。ただし日本との貿易は対象外だったのは、倭寇の根拠地として警戒されていたからのようだ。(あまり守られなかったので、意味がなかったようだが・・)そしてその倭寇の人的資源の供給先であった日本においては、秀吉による統一政権が生まれることにより、海賊の取り締まりが強化される。(1588年の海賊禁止令)

 こうして後期倭寇の活動は、終息に向かうことになるのだ。

 なお策謀によって王直らを捕殺し、倭寇に大きなダメージを与えた胡宗憲は、その功によって出世したが、結局は中央の政変に巻き込まれる形で1562年に失脚し、投獄され自殺している。これもまた、どこかで見た景色である。(終わり~次のシリーズに続く)

 

 

このシリーズの主な参考文献

倭寇 海の歴史/田中建夫 著/講談社学術文庫

・描かれた倭寇倭寇図巻と抗倭図巻」/東京大学史料編纂所 編/吉川弘文館

・嘉靖年間における海寇/李獻璋 著/泰山文物社

・明・日関係史の研究/鄭梁生 著/雄山閣出版

・南蛮・紅毛・唐人:十六・十七世紀の東アジア海域/中島楽章 編/思文閣出版

倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史/渡邊大門 著/星空社新書

・増補 中世日本の内と外/村井章介 著/ちくま学芸文庫

倭寇と東アジア通交圏/田中建夫 著/吉川弘文館

・堺-海の文明都市/角山榮 著/PHP選書

・東アジア海域に漕ぎ出す1 海から見た歴史/羽田正 編/東京大学出版会

・その他、各種学術論文を多数参考にした。

 

後期倭寇に参加した根来行人たち~その⑨ 史上最大の倭寇船団を率いた男・徐海と、日本人倭寇たち(中)

 暴風でいきなりケチがついたとはいえ、依然もの凄い数である。何しろ最終的に浙江省を中心に暴れまわった倭寇の数は、2万と伝えられているのだ。いちどきに出航したわけではなく、幾つもの船団に別れ、三々五々日本を発ったので嵐に遭わずに済んだ船団もいたのだろう。また日本から来襲した数よりも、現地で蜂起した数の方が多かったはずだ。

 既に大陸入りをしており、各地で越冬していた倭寇たちもいた。沙上では、正月早々から倭寇居留地を攻めてきた官軍と戦いこれに大勝、1000人余りの官兵を殺している。これらは日本から襲来してくる略奪船団と呼応する形で、3月には分散して各地で略奪行為を始めるのだ。

 日本からの船団は、五月雨式に沿岸部を襲う。4月11日、20を超える船が浙江の観海から上陸、慈谿・餘姚を攻めた。13日には別の倭寇3000人が、鎮江から揚州・儀眞の両岸を侵す。更に別の賊が上海・蘇州方面に侵攻するなど、各地に多大な被害を与えている。

 徐海が率いる本隊は、先に大陸に入っていたらしい陳東の軍と乍浦で合流している。各地を略奪した後、4月になって先の記事で紹介した、佐撃将軍・宗礼率いる900の私兵軍団と三里橋を巡って激しい戦闘に入っている。多大な犠牲を払いながらも最終的にはこれを撃破するのだが、徐海はこの戦いで負傷してしまうのだ。

 そしてこのタイミングで、徐海の元に胡宗憲からの使いが来るのである。怪我からくる病を得てしまい、気が弱くなっていた徐海に対し、胡宗憲は王直と同じように帰順を勧めてきたのだ。この時点で、王直はまだ降っていなかったが、「王直も帰順する方向で同意したぞ」と告げ(嘘ではなかった)、その動揺を誘う。同時にこの時点で別行動をしていた、彼の有力な部下である陳東と麻葉に対する猜疑心を煽った。彼らが「独断で帰順をはかっている」と告げたのである。実際には両名は帰順するつもりはなく、日本への帰国を望んでいたらしい。

 6月25日、陳東と麻葉率いる手勢が乍浦にいた徐海と再び合流する。だが徐海は既に、胡宗憲に降伏する腹積もりだったのである。まず麻葉が7月3日に官軍に捕まってしまう。そしてこの捕らえた麻葉に、胡宗憲は無理やり「徐海を殺して、一緒に帰順しよう」という陳東宛ての偽手紙を書かせ、それを徐海に見せる、という実に陰険な手を使うのだ。これを信じた徐海の手引きによって、14日に陳東が捕まった。

 

「抗倭図巻」より。3人の倭寇がお縄についている。張鑑によると、この3人は陳東・麻葉・そして徐海の息子の徐洪とのことだが・・・

 

 徐海にとって残った問題は、自ら日本で募集して、ここまで連れてきた残余の倭寇たちだ。ここに至って、もはや用済み――というよりは、はっきりと邪魔者になった、これら日本人らをどうすべきか。

 29日、徐海は「希望者は日本に帰す」と言って、乍浦の沖合に帰国のための官船を何隻か用意させる。だがこれが罠であったのだ。日本に帰らんと船を目指して沖合に向かった倭寇を、乍浦城から出撃した官軍が追う。干潟に足を取られた倭寇の殆どが討ち取られ、多数が溺れ死んだという。

 この倭寇は新五郎が率いていたらしいから、大隅勢を主とする集団だったのだろう。新五郎自身はその場から逃れることに成功し、何とか日本に帰ろうとするも、8月4日に金塘の洋上で捕まってしまうのだ。その後、あえなく処刑されてしまったものと思われる。(続く)

 

「抗倭図巻」より。舟の上で4人の倭寇が縛られている。張鑑によると、この中に大隅の新五郎がいるとのこと。逆エビ反りで縛られているのが、そうであろうか?とすると、残りの3人も大隅勢の日本人かもしれない。

 

 

後期倭寇に参加した根来行人たち~その⑧ 史上最大の倭寇船団を率いた男・徐海と、日本人倭寇たち(上)

 これまでの記事にも何度か名前だけ登場したが、王直と並び立つほどの大物として、徐海という倭寇の親分がいる。若い頃、叔父の借金のカタに人質として豊前に住んでいた元僧侶で、日本では明山和尚と名乗っていた人物である。彼は実に評判が悪い男である。子分格であった陳東との諍いの話が残っている――以下に紹介しよう。

 陳東の元に、攫ってきた一人の女性がいた。一緒に暮らしているうちに情が移った陳東は、彼女を故郷に帰してやろうとしたのだが、それを聞いた徐海が「帰すくらいなら、俺に寄こせよ」と笑いながら言ったので、激高した陳東が剣の柄に手をかけた、というものだ。

 他にも瀝港に来てすぐの頃、新参者にも関わらず密貿易をしつつ、その裏で略奪しまくっていたのが王直にバレて、「まさか儂のすぐ足元に泥棒がいたとは、思わなんだ!」と罵られている。(この時期、王直は官憲とうまくやっていたから、こういう行為には相当気を使っていた。)逆ギレした徐海はこの時、王直を殺そうとしたというから、碌な逸話が残っていない。

 そんな彼だが、1554年の春ごろから強大な勢力を持つに至る。元々は叔父が倭寇の親玉だったので、その後を継ぐ形で船団の長となったわけだが、タイミングが良かったのだろう、幾つかの略奪行を成功させ、一気にその勢力を伸長させたのである。ためらうことなく容赦ない略奪をする、その酷薄な性格が、一獲千金を夢見る多くのならず者どもを引き寄せたのだ。

 彼は幹部に「三大王・八大王」などの称号を与えて(如何にも悪役っぽい!)組織化したり、兵に紅衣を着させ騎乗させるなど、己の軍団を軍隊方式に編成したから、なかなかの強さを誇っていた。そして遂には、自らを「平海大将軍」と称したのである。

 調子に…違った、勢いにのった平海大将軍・徐海は1556年3月から4月にかけて、空前絶後の規模の略奪船団を送り出す。艦隊の数は併せて1000余隻、人員はなんと5万人に達したと言われている。文禄の役における日本水軍の規模が1万人ほどだから、流石に誇張された数字だとは思うが、話半分にしても凄まじい。かつて明が威信にかけてインド洋に送り込んだ「鄭和の大艦隊」にも匹敵する数字で、倭寇船団としては史上最大級であったことは間違いない。

 この略奪行には5つの日本人グループが参加しており、大隅勢を新五郎、種子島勢を助左衛門、薩摩勢を夥長掃部(ほうちょうかもん)、日向勢を彦太郎、そして和泉勢を細屋という者が率いていた、とある。

 この細屋とやらが率いていた和泉勢には、根来行人ないしは、その氏子たちが数多く参加していたのではないだろうか。和泉、特に泉南地域はこの時期、完全に根来寺の勢力圏内にあり、子院の本拠地が数多く存在していた。

 

根来寺の勢力圏の成り立ちについては、上記の記事を参照。

 

 南海航路に親しんでいた根来行人らが、この和泉勢の主力だったとしてもおかしくない。堺辺りを出入りしていた密貿易商人の細屋とやらが、声をかけて略奪行の人を集めた、というところだろう。

 

倭寇図巻」より。鉄砲を持った倭寇。この「倭寇図巻」は今回紹介している徐海の略奪行を、モチーフとして一部取り入れている可能性がある。当時、鉄砲はまだメジャーな武器ではなかった。相応するモデルを当てはめるとすると、細屋が率いていた和泉衆、つまり根来の行人ということになるかもしれない。

 

 だが、好事魔多し――意気揚々と船出をしたこの艦隊の主力は、いきなり嵐に遭ってしまい、出鼻をくじかれてしまうのだ。その多くは日本に引き返してしまい、残りもバラバラになって中国沿岸に辿り着いた、とある。その行く末を、暗示させるスタートであった。(続く)

 

 

後期倭寇に参加した根来行人たち~その⑦ 海雄・王直の死

 さて、ここまで倭寇の大物プロデューサーの代表格として王直を紹介してきたが、実は彼は無実だったのではないか、という説がある。略奪をしたのは、あくまでも彼の元部下たちであって、彼自身は関わっていなかった、というものだ。

 瀝港(れきこう)が陥落したのが1553年3月である。逃げ出した王直は、そのまますぐに日本に向かっている。ところが彼の手下の暴れん坊の一人、蕭顯(しょうけん)という親分率いる倭寇の一団は、日本に行かずにそのまま江南各地を襲い始めたらしい。4月から始まったこの略奪が、本格的な「嘉靖の大倭寇」の口火をきることになったわけだが、これは果たして王直の指示によるものなのだろうか?

 王直の下には他にも多くの親分たちがいて、それぞれが各々のグループ、つまり一家を率いていた。それらの頭目とされていた王直だが、絶対的な権力があったわけではなく、繋がりも緩い連合体のようなものであったと思われる。事実、最も勢力のあった徐海などは、王直と仲たがいした結果、袂を分かっている。こうした略奪行は、かつて彼の指揮下にあった元部下たちが勝手に行ったことで、王直の関知するところではなかったのかもしれない。とはいえ明にしてみれば、あくまでも倭寇の大元締めは王直である、という認識であった。

 いずれにせよ、これら神出鬼没の倭寇たちへの対抗策として、明は沿海部に海防のための城を築いて兵を駐屯させたり、烽火台を整備するなどしたようだが、うまくいかなかったようだ。こうした如何にも場当たり的な、水際対策に終始せざるを得なかったのは理由があった。

 かつて双嶼(そうしょ)を陥落させた浙江省順撫の朱紈(しゅがん)は、密貿易によって儲けていた郷紳たちによる弾劾運動によって失脚、自害してしまっていた。瀝港を陥落させた王抒も、倭寇被害が悪化した責任を取らされるところであったが、嘉靖帝に気に入られていたため、なんとか対モンゴルの北方防衛方面への異動で済んでいる。(モンゴルでも失敗して、結局は処刑されてしまうのだが。)

 そしてその後任の海防責任者も、同じようにすぐに弾劾されては失脚する、といった事態が続くのだ。1年持てば良い方で、わずか34日間でいなくなってしまった者もいる始末。中央における派閥政治のあおりを食って、このような体たらくになっているのだが、これでは統一した指揮系統など取れようもない。

 そんな中、1556年に浙江省順撫として胡宗憲が就任する。後の世に「権術多く、功明を喜ぶ」と評されたほど、狷介な人物である。

 

明代に描かれた「抗倭図巻」(作者不詳)より。清代の文人、張鑑がこの図巻について詳細な解題を行っている。それによると、赤い服の右横にいる鎧姿の人物が胡宗憲。功のあった前任者の張経を讒言で処刑に追いやり、浙江省順撫の地位に就いた男である。

 

 この新しい浙江省順撫・胡宗憲が採用した策は、宣撫と離間であった。その対象として大物・王直をターゲットにしたのは、当然のことであろう。配下を日本に送り「罪を許すから帰ってこい」と望郷の念に訴えた。その際には「今後は海禁を緩めて、貿易を許すぞ」など、利を以て誘うことも忘れない。

 この「寛海禁、許東夷市」という一文が、王直の心に響いたのである。彼の夢は日本との貿易を公のものとして認めさせ、船団を率いて大海原を舞台に思う存分、駆け巡ることだったからだ。すっかりその気になった王直は、1557年4月に五島から帰国の途につく。なんだかんだ齟齬があって、胡宗憲に降伏したのは11月になってからなのだが、明朝の延議ではこの大海賊・王直の処遇を巡って、意見が真っ二つに割れたのである。

 結局は「倭寇は絶対に殺すマン」たちの意見が通って、王直の処刑が決定してしまう。胡宗憲も当初は助命しようと動いていたようだが、「やつは王直から大金を貰っている」という、極めて信憑性の高い噂を立てられたので、見捨てることにした。先に出した上奏文を慌てて撤回、逆にその処刑を強弁に主張する文を上奏している。

 こうして1559年12月25日、杭州門外で王直は処刑されてしまう。罪状は国家反逆罪。東アジアの海を縦横無尽に駆け抜けた、一代の海雄の死であった。その首は寧波海辺の定海関にさらされ、妻子は奴隷として功臣に与えられた、とある。

 死の直前に、彼が残した上奏文が残っている。そこには「もし陛下が自分を信じてくださるならば、日本と貿易を行うことを許していただきたい。日本各地の領主たちには自分が言い含め、略奪など二度と勝手な真似をさせませんから」とある。最後までブレることなく、海禁の緩和を主張していた彼は、やはり根っからの貿易商人であったのだ。

 「海禁を緩める」旨を王直に約束した胡宗憲もまた、きちんとその旨を上奏している。これは彼の出世にもつながる大事なことで、密貿易に関わっていた郷紳らの支持を得る必要があったためだろう。また朱紈や王抒の時と違って、この時点で密貿易船団は全て略奪船団に姿を変えていたから、倭寇を殲滅させても郷紳らからクレームがくる心配はなかった。そういう意味でも、彼は運が良かったといえる――少なくとも、今しばらくの間は。(続く)

 

 

後期倭寇に参加した根来行人たち~その⑥ 倭寇 vs 明の軍隊

 倭寇はその主体が日本人だったり、中国人だったり、はたまたポルトガル人だったりしたわけだが、果たして彼らはどの程度、強かったのであろうか。「そりゃ、集団の性格と規模によるでしょ」という突っ込みは正しいのだが、それを言ってしまうと話が終わってしまうので、試しにいくつか事例を拾って見てみよう。

 1557年3月、海塩に布陣していた倭寇が、洪水発生時に小高い丘に陣取って、急造の堤を造成している。官軍を攻撃する際にはこの土手を切って水を流し、官兵の多くを溺死させたと記録にある。この集団は、こうした土木工事を行うほどの組織力・技術力を持っていたということになる。

 戦術面ではどうであろうか。1558年5月7日、福建省の恵安県の知県・林咸は倭寇と戦って、これを撃破したまでは良かったが、追撃戦に移ったところ伏兵にあって逆に戦死している。誘引しての伏兵攻撃など、釣り野伏を彷彿とさせるではないか。この倭寇の中には或いは薩摩の人間がいたのかも、と想像したくなる。

 彼らは城攻めもして、よくこれを落としている。最も中国の大きな町は日本と違って、すべて城壁に囲まれた城市であったから、城攻めせざるを得ないのだが。普通の戦争のように、戦略的にここを落とさねば戦に負ける、という概念ではなく、ただ単に略奪のために襲っているだけだから、城が堅くて落ちそうにないときは、さっさと兵を引いて移動、次の獲物を探すのだ。

 次にこれと戦った明側なのだが、当時の明の軍制を見てみよう。

 まず明においては、戸籍が軍に属する者たちがいた。これが本来の明の正規軍の構成員であり、これを「軍戸」と呼んだ。彼らは世襲制で畑も耕していたそうだから、日本で言う郷士のような存在に近いかもしれない。ただ中国は武よりも文を重んずる国だったから、社会的な身分は低かった。また労役も過重であった上、上層部による給与のピンハネなどが横行していたから、軍戸からの逃亡が相次いでいた。この仕組みを「衛所制」と呼ぶが、この時代には事実上、有名無実化していたようである。

 その代わりに、当時の明は募兵制によって兵を集めていた。この募兵制は世襲ではなく一代限りのものだったが、募集だけでは集まらなかったらしく、地域によっては強制的な徴募も行っている。彼ら募兵は常備軍ではなく、平時は原籍に戻される仕組みになっていた。また春夏は農業に従事させ、秋冬は訓練を受ける、というサイクルを採用していた所もあったようである。遠征に駆り出されることもあったが、基本的には募集されたその土地の防衛に携わっていた。近辺の郷土を防衛する自警団、ないしは警察・治安維持部隊のようなもので、これを「郷兵」とも呼んだ。(正確に言うと、募兵はその出自や分遣先によって「民兵」「土兵」「客兵」「僧兵」などに分類されるのだが、ここでは省略する)

 これら郷兵は、土地柄によって強さが異なっていたそうで、異民族と常に相対していた北方の地の郷兵は強かったようだが、倭寇が襲った浙江省辺りはどうであろうか。経済が発達していた先進地域の兵は弱い、という法則をあてはめると、そう強くはなかったような気がする。

 

倭寇図巻」より。暴れる倭寇を迎撃すべく、先を急ぐ明の軍隊。

 

 そんな中、台頭してきたのが「私軍」である。元々は北方の国境でモンゴル勢と戦うために、いつしか採用されていた軍制で、「家丁」と呼ばれる者たちを、将が自費で抱えて兵とした、いわば私設の軍隊なのである。この軍団は「親分・子分」という私的な関係で繋がっているから、よくまとまっていて非常に強かった。

 1556年4月、皂林(ぞうりん)において1万人ほどの倭寇が攻めてきた際、佐撃将軍・宗礼は、わずか900の兵を率いて崇徳の三里橋でこれを迎撃、3回防いで「神兵」と称された、とある。この900の兵が上記のどれに当てはまるのか分からないが、私軍を中核とした部隊だったのではなかろうか。郷兵のみならばこうはいかず、最初から戦わずに逃げていただろう。最もこのケースでは衆寡敵せず、最終的には敗退し、宗礼も戦死してしまうのだが。

 倭寇に対して、よくこれと戦った軍団として、兪大猷(ゆたいゆう)が率いる「兪家軍」と、戚継光(せきけいこう)が率いる「戚家軍」がある。両者とも軍の中心をなしたのはこうした私兵集団であり、例えば「戚家軍」においては、1558年に浙江省で得られた3000人がその中核であった、とある。この3000人は長年に渡って戚継光と行動を共にし各地を転戦するのだが、メンタリティとしては武士団に近かったかもしれない。この私軍部隊を中核として、任地で動員した募集兵を組み込み、軍団を構成するのである。そうして編成された軍は精強で、何度も倭寇を撃破している。

 

Wikiより画像転載。自身も優れた武人であった戚継光は、倭寇が多用していた日本刀に対応するために、狼筅(ろうせん)や苗刀(みょうとう)という武器を考案している。各種兵学書も著しているが、その中には室町時代の剣豪・愛洲移香斎の陰流目録を研究した「辛酉刀法」という、日本剣術に対してどう戦うかを分析した教科書まであるのだ。倭寇平定後は引き続き、彼に忠実な精鋭軍団を率いて北方のモンゴル戦線に転戦、そこでも功を挙げている。(関係ないが、恐妻家だったらしい。親近感を感じる・・)

 

 倭寇と官軍が戦った際に、それぞれの主体が何であるのか、判然としないケースが多いのだが(というか、著者が調べ切れていないだけ)、何となく以下のような図式が成り立ちそうだ。

 郷兵のみ < 倭寇 < 私軍を中核とした軍団

 相手が私軍を中核とした軍団で、大規模な戦いであった場合には、倭寇は大抵、敗北している。彼らの一番の武器は、まずは機動力、そして特殊スキル「暴動誘発」にあったわけだから、この2点を生かしたゲリラ的戦いには強かったのだが、正規軍同士が相対するような「会戦」には向いていなかった、ということであろう。

 これら「私軍」は倭寇を撃破した後も、地方の秩序の維持・回復という役割を果たしていくのであるが、同時に分散的勢力の成長を促進する性格のものであったから、明末における軍閥の興隆にも繋がっていくのである。(続く)