根来戦記の世界

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根来衆と鉄砲~その⑥ 難航した大砲の国産化と、その理由

 鉄砲に比べ、大砲の国産化の方は難航している。大友氏が小型青銅砲の製造を行っていたようだが、銅はとにかく高価であったから、製造コストが非常に高くつく。代わりに安価な鉄で大砲を鋳造する、というのが世界的な代替手段なわけだが、日本においては難しかった。なぜか。

 これは技術的要因、というよりも材料の質によるものだ。日本では古来より砂鉄などを原材料にした「タタラ銑鉄」により鉄を生産していたのだが、実はタタラにより得られた和鉄は、この種の鋳造に向いていなかったのである。

 大砲製作に適した原材料は、ケイ素と炭素が適度に多く入っている鉄だ。柔らかく、靱性(じんせい)のある鉄――これを溶かして鋳造した結果、炭素が黒鉛化して出来上がりの表面が「ねずみ鋳造」と称されるほど、灰色になるのが理想なのだ。この鉄中に含有されている炭素が黒鉛化するのに有効な成分が、ケイ素なのである。

 ところが、タタラ銑鉄で得られる和鉄を使うと、炭素とケイ素の含有量が共に足らず、どうしても「白鋳造」という、硬くてもろい――つまり破裂する危険性がある材質になってしまうのだ。これはタタラ銑鉄の持つ特性によるもので、比較的低温で行う精錬方法だった故による。精錬時の温度が低いと、炭素もだが、特にケイ素の含有量が低い鉄が銑鉄されてしまうのだ。

 和鉄はこうした特性を持つ鉄であったから、大砲の鋳造に向いていなかった。その代わり、鍛鉄に向いていた。日本刀があそこまでの切れ味を誇ったのは、不純物の少ない和鉄の存在があったからだ。また同じ理由で、鍛鉄で造られる鉄砲生産にも向いていたのである。

 上記のような理由もあって、戦国期において大砲は生産されなかったから、あまり活躍もしなかった。代わりに鉄砲の大型化を進めた「大鉄砲」が使われた。大鉄砲の大きさだが、概ね口径が20mm以上のものをそう呼んだようが、特に規格があったわけではない。呼び方もいろいろあって、大筒ないし持筒とも呼んでいた。いずれにせよ火縄銃と同じように構えて放つには大きすぎるから、両腕に抱え腰だめに放った。

 大鉄砲は放った後、その衝撃を吸収するために、敢えて地面に転がることもあったようだ。こんなに凄まじい反動があって、腰だめで放って果たして的に当たるものだろうか。抱えるとなるとバランスを取る必要もあり、銃身も短くせざるを得なかったから、なおさらである。長篠の戦いの序盤で、武田方の攻撃を誘引するために織田方がこの持筒を使った、という説がある。鉄砲足軽数人を陣の前に並ばせて、勝頼本陣に向けて大鉄砲を放った、というものだ。当たらなくとも挑発することが目的だったとするならば、見事にその目的を果たしたといえるが・・

 信長は大鉄砲を好んで使用している。伊勢長島の一向一揆攻め、九鬼水軍の木津川沖の合戦などで、艦載砲のような使い方をしている。こちらは挑発や威嚇だけに留まらず、実際に大きな効果をあげているわけだが、ちゃんと銃架に据えて使用したと思われる。残念ながら、口径などの大きさは伝わっていない。

 更に巨大な大鉄砲として「慶長大火縄銃」がある。現存するものの中では最大級のもので、口径50匁(33mm)の玉を1600m飛ばせるというから、凄まじい。第二次大戦でソ連が使用した対戦車ライフルの口径が14.5mmだから、それの倍以上である。同じくドイツが使用した、大戦初期の対戦車砲の口径が37mmであるから、銃というよりも大砲に近い。

 

堺市博物館蔵「慶長大火縄銃」。1610年に堺と国友の鉄砲鍛冶の合作によって造られたものだ。なんと全長3m、重量135.7kgである。こんなものを抱えて放つのは不可能だから、使用する際には専用の銃架が必要だったろう。ガチガチに固定して放ったと思われるのだが、専門家によると使用された形跡がないという。

 

 この大鉄砲をさらに、さらに大型化してみよう。するとあら不思議、本物の大砲の出来上がり。日本の鉄砲鍛冶職人は、鋳造が駄目ならいっそ鍛鉄で大砲を張ってしまえ、という荒業に出るのだ。

 1611年に堺で張られた大砲「芝辻砲」は、長さ2m87cm・口径93mm・重量1.7トンという巨大なものである。構造・材質を分析したところ、砲身は8層構造になっていることが分かった。鉄片を張り付けて鍛鉄する作業を8回繰り返したということで、つまりは大鉄砲と同じ構造なのである。

 家康は大阪城攻めのために、この大砲を発注したと伝えられている。そしてこの大砲を張ったのは、堺の鉄砲職人・芝辻理右衛門という男だ。彼は津田監物と一緒に西坂本で鉄砲を造った、あの芝辻清右衛門の孫なのである。

 逆算すると、彼は西坂本で生まれ育ったはずである。根来寺の境内に遊びにいったこともあるだろう。幼少期を過ごした西坂本、そして根来を滅ぼしたのは秀吉であり、その血族である豊臣家に対して使われるこの大砲を、彼は張り切って造ったのではないだろうか。

 

遊就館蔵「芝辻砲」。この砲は大阪冬の陣で使用されたと伝えられているが、調査の結果、砲孔内部が曲がっていることが判明している。これも残念ながら実用には耐えられなかった、というのが専門家の意見だ。或いは復讐の念が、理右衛門の鎚を振るう腕を狂わせたのかもしれない。この時期、家康は西欧各国から大量の大砲(40門以上)を購入しているから、大阪の陣ではこれまで通り、輸入大砲が使用されたのだろう。実のところ、国産よりも海外から買った方がコスト的には安くついたようである。

 

 日本の職人の鍛鉄技術は極めて高いレベルであったから、上記の大砲のみならず、他国なら鋳造するものまで鍛鉄で造ってしまった。葛飾北斎の浮世絵に、鍛冶職人たちが総がかりで巨大な錨を鍛造している絵が残っている。

 和鉄による白鋳造だと、とにかく硬いものが出来上がってしまう。日常生活に使う小物ならまだしも、ここまで巨大なものだと、削る・くり抜く・曲げるなどの最終的な細工が難しかったから、鍛造してしまったのであった。(続く)

 

 

国立博物館蔵「葛飾北斎画 新板大道図彙・佃嶌」より。鍛冶職人が6人がかりで3本爪の巨大な碇を鍛造している。

 

 

根来衆と鉄砲~その⑤ そして鉄砲大国へ・・・日本に鉄砲は何丁あったのか?

 日本人はあっという間に鉄砲の生産技術を習得、世界有数の鉄砲保有国になってしまう。戦国期の日本は、どれくらい鉄砲を有していたのだろうか?

 もちろん統計なぞないから、推測するしかない。まず時代が経てば経つほど鉄砲普及率は上がっていくはずだ。戦国前期と後期とでは数字がかなり異なるだろうというのは、想像に難くない。ネット上では「10万丁以上」という人もいれば、「100万丁」という数字をあげているものまである。ただこれらの数字がいつの時代を指しているのか、またどこから出ているのか、出典を示していないのでよく分からないものが多い。

 鉄砲に関する研究の先駆者、鈴木真哉氏の著作「鉄砲と日本人」には、参考になりそうな時代別のデータが幾つか載っている。それによると大坂の陣における幕府自身の動員基準は、1万石につき兵数3000人・うち鉄砲が20丁、とある。兵力との比率に直すと6.6%である。ただこれは、最低限持ってこなければいけない数字なので、実際にはもっと多かったようだ。極端な例だが、奥州の伊達家は冬の陣で戦闘員の66%が、夏の陣では63%が銃兵であったそうだ。(政宗なら如何にもやりそうなことである)

 上記の数字を基に、控えめに見て全体の兵力との鉄砲比率を20%と見ると、大坂冬の陣における動員兵力は、東西両軍併せて30万近い数字だったはずだから、この戦場に集まった鉄砲だけでも6万丁はあった計算になる。大坂に持って行かなかった鉄砲もあるはずだから、少なくともその1.5倍、全国には9~10万丁はあったということになる。20%の計算でこれであるが、そもそも大坂の陣は攻城戦であることだし、この比率は30%、或いはそれ以上であってもおかしくないのだ。(この計算は筆者が独自に行ったもので、鈴木氏がそう主張しているわけではない。念のため・・・)

 

Wikiより画像転載。「常山奇談」という書物に、大坂夏の陣伊達政宗が「鉄砲騎馬隊」を使用した、という記述がある。騎馬隊に鉄砲を持たせた兵種であるが、実は当時のヨーロッパで流行っていた兵種に「ピストル騎兵」という、似たようなものがあった。このピストル騎兵が生まれるに至った発想は、次のようなものだ。中世のヨーロッパの戦場では、重槍騎兵による突撃が多用されていた。しかし銃が発明され、それとパイク(長槍。4~7mほどあった)を組み合わせた方形陣「テルシオ」をスペインが採用すると、これには全く歯が立たなくなる。マスケット銃による銃撃を、何とかかいくぐって敵陣に辿り着いても、歩兵の持つパイクの方がリーチが長く、槍騎兵の攻撃が届かなかったのである。そこで考えられたのがピストルの活用である。槍の代わりに、よりリーチの長いピストル(有効射程、約10m)を使えば、パイクの外から攻撃を届かすことができるではないか。なるほど!こうして編成されたピストル騎兵だが、しかし全く役に立たなかった。当時のピストルは単発式であったから、1発撃ったら終わりである。そこで敵の前面に殺到し、撃ったら旋回して元に戻る、という機動を繰り返すことになる。上記イラストにあるのが、まさしくその瞬間を描いたものである。この旋回機動をカタツムリの殻の螺旋に例えて、「カラコール」と呼んだ。この旋回する瞬間が一番危険で、マスケット銃のいい的なのである。そりゃそうだ。陣の直前で旋回すると分かっているわけだから、銃兵は狙いを定めて待ち受ければいい。結果、命を惜しんだ騎兵たちは、遠くから早めにピストルを撃って、さっさと逃げ帰るというカラ攻撃を繰り返すことになる。重装騎兵の最も優れた長所である、突撃による打撃力を取り除いた、全く役に立たないこの攻撃方法だが、ヨーロッパにおいては試行錯誤しながら形を変え、なぜか以後100年近くは使われ続けることになる。(最終的にはサーベル騎兵や有翼重騎兵などによる、集団突撃する方法に逆戻りすることになる。ただし砲兵の援護を必須とした。)政宗は海外事情に通じていたから、このピストル騎兵の情報を得て、自軍に取り入れたのかもしれない。ちなみに伊達藩のこの鉄砲騎馬隊は、あまり活躍しなかったようである。最も「常山奇談」は江戸中期に成立した信憑性の低い軍記物だから、鉄砲騎馬そのものが存在しなかった可能性が高い。

 

 豊臣家が滅びると、太平の世が訪れる。約250年に渡って続く、パクス・トクガワーナの時代である。幕府は鉄砲の規制に乗りだし、日本における鉄砲生産数は大きく下がり、そのまま幕末を迎える――というのが一般的なイメージかもしれない。だが、全然そんなことはないのだ。

 鉄砲がどれほどあったのかを、今度は石高との比率で推測してみよう。鈴木氏は江戸時代のデータも示している。それによると1649年に幕府によって定められた軍役では、1万石で20丁(石高比0.25%)、10万石で350丁(石高比0.4%)である。石高が上がれば上がるほど、鉄砲比率が上がっていく仕組みである。先述したように予備も必要だったから、実際にはもっと多くの鉄砲を所持していたことだろう。1637年の島原の乱の際、筑前の黒田家の石高は5万石だったから、150丁(石高比0.3%)用意すれば十分であったのだが、実際には218丁(石高比0.4%)の鉄砲を用意している。

 これらは軍役から逆算した理論値なわけだが、実数とはどれくらい乖離があるのだろうか?実は江戸幕府は、島原の乱の約40年後の1687年に、将軍綱吉の命により「諸国鉄砲改め」を行っている。これは各藩が所持している鉄砲の実数を報告させたものなのだが、この実態が凄いのだ。

 この時の調査によると、仙台藩で3984丁、尾張藩で3080丁、長州藩4158丁という数字である。紀州藩ではすこし遅れて1693年に調査を行っているが、なんと8013丁(!)である。流石は雑賀と根来があった、お国柄だけのことはある。上記4藩だけで合わせると、なんと1万9235丁である。

 上記の数字を、石高に比した計算式に当てはめてみよう。4藩合わせてざっくり170万石である。(「元禄郷帳」に基づいて計算した。藩には「飛び地」があるはずだが、それらは除いてある。単純に仙台・尾張・長州・紀州4つの国の表高を合算しただけなので、あくまで目安である。)170万石に対して、約2万丁。石高比で1.2%である。17世紀後半の日本の石高は2591万石とあるので、この比率を単純に全国に適用すると、25万9100丁になり、なんと大坂の陣の時より多いのである。(この計算も、著者が独自に行ったものである。)

 これでも控えめな見積もりで、故意にカウントしなかった鉄砲や、藩が把握しきれなかった鉄砲もあったはずだから、実際にはもっと多かったはずなのだ。事実、幕末の役人による「把握していない鉄砲の方が、遥かに多かった」という証言が残っている。そう考えると、この倍あってもおかしくない。

 この数字のからくりは軍役に反映されない、民間に鉄砲が多く普及したことによる。害獣駆除や狩猟などに使われていたのだ。対馬藩が1711年に行った調査によると、藩内には何と1402丁の鉄砲があったという。当時の対馬の20~60歳の男性人口は、約3900人である。1人で何丁も持っていたケースもあるだろうから、単純に計算はできないが、この時期の対馬では成人男性の約3割が鉄砲を持っていたことになる。

 対馬本島は地形上の制約で耕作地が少なかったので、害獣による稲作被害にひどく神経を尖らせていた。イノシシから畑を守るために、交代で徹夜して畑を守った、という古老の話が残っている。害獣に畑を荒らされる程度で飢えてしまうほど収穫高が少なかったから、その対策として鉄砲保有率が異様に高かったのである。対馬の例はかなり特殊ではあるのだが、江戸期に如何に民間に鉄砲が普及していたかよく分かる。

 江戸期においては、このように鉄砲は身近に使われる道具であったのだが、あくまでも狩猟道具としてであった。日本では島原の乱を最後として、以降大きな戦いは発生しなかったから、戦場における鉄砲の技術的な改良、そして運用・戦術面での進化はなされず、止まったままであった。それどころか戦いに鉄砲を使用する、という概念まで廃れてしまう有様であった。幕末の初期における稚拙な鉄砲運用は、戦国期に比べると退化してしまった感まである。(続く)

 

長篠の戦いを分析し、その実態は攻城戦であったことを明らかにするなど、戦国期における鉄砲の使われ方の認識を変えた、鈴木氏の名著。やや古い本になるが、戦国期の鉄砲の基礎的な概念を知るためには、最適の本である。

 

 

 

根来衆と鉄砲~その④ 火縄銃の国産化と、その運用を支えた貿易体制

 複数のルートで、日本各地に伝播した火縄銃。前記事でも触れた通り、日本の鍛冶屋は日本刀によって培われた鍛鉄技術に秀でていたから、すぐに技術を習得、各地で鉄砲生産が始まった。国産の第一号が造られたのは、種子島である。関の出身であった鍛冶師・八坂金兵衛が試作に成功したのが1544年だとされている。それとほぼ同じタイミングもしくは少し遅れる形で、根来寺門前町である西坂本において、津田監物芝辻清右衛門が火縄銃の試作に成功している。

 

種子島開発総合センター鉄砲館蔵「伝八坂金兵衛作火縄銃」。代々、種子島家に伝わってきた、国産第一号と推測される火縄銃。先の記事で紹介した、1549年6月に発生した「黒川崎の戦い」において使用されたのは、この鉄砲かもしれない。

 

 ただ種子島においては以降、火縄銃の製作そのものは盛んにはならなかったようだ。理由としては地理的にあまりに不便であったということ、そしてもうひとつ、「嘉靖の大倭寇」に参加した働き盛りの若者たちの多くが帰ってこなかったこと、つまり若年層の人口減ダメージの影響が大きかったのではなかろうか。

 

倭寇の大物・徐海の甘言にのってしまい、その略奪船団に参加して帰ってこなかった、種子島の若者たちの顛末はこちら。

 

 紀州・西坂本ではどうであったろうか。根来の境内、そして西坂本からも鉄砲鍛冶場の遺構は、現時点では発見されていない。しかし造られた鉄砲が試作だけで終わるわけがなく、鉄砲の生産体制は更に発展したと考えるのが普通だろう。境内は神聖な場所であった故に、凡そ生産活動は行われてなかったという説があるので、こちらはともかくとして、西坂本と紀ノ川の間に「金町」という鋳物師や鍛冶屋が集住していた町があったようなので、ここに鉄砲鍛冶工房があったのではないか、と個人的には思っている。

 このブログのもはや常連である、慶誓こと佐武源左衛門であるが、例の「佐武伊賀守働書」において、雑賀で12歳の時に鉄砲の試し撃ちをした、という記述が残っている。慶誓が撃ったこの鉄砲が輸入品である可能性もあるが、この西坂本製であった可能性が高い。西暦に直すと1549年、既にこの辺りでは(工房ごと数人レベルで行うものだったと思われるが)、鉄砲の生産が始まっていたということになる。珍しいものとして扱っているようなので、生産体制に入ってまだ間もない、初期のロットだったのかもしれない。

 また「信長公記」によると、信長が橋本一巴を師として鉄砲修行を始めているのだが、これが同じく49年のことである。この時期、ぼちぼち鉄砲が尾張あたりまで普及し始めているのが分かる。

 この地で生産された鉄砲は、高価な武器として紀ノ川から河口にある紀ノ湊を通じて、全国に輸出されていった。「北条五代記」には、杉乃坊の根来法師が関東を駆け巡って鉄砲を教え広めた、という記述がある。他にも武田・上杉などの大名家に、多くの鉄砲を送った記録が残っている。

 次に、西坂本以外の鉄砲の生産地を見てみよう。

 まずは堺から。「鉄炮記」によると、堺の商人・橘屋又三郎が種子島に来島、その地で2年ほど滞在し、製造法を学んで持ち帰り、堺にて鉄砲製造をはじめ「鉄砲又」との異名を持った、とある。彼は実在の人物であったのは間違いないようだ。

 

橘屋又三郎についての詳しい記述は、いつものこちらのリンク先を参照。鉄砲は鍛冶屋の領分だが、鋳物師であった可能性もあるらしい。金物全般を扱っていた商人だったのだろうか。

 

 ただ、彼が種子島から帰ってきた時期が不明なので、堺での鉄砲生産の開始がいつになるのかが分からない。西坂本の鉄砲鍛冶・芝辻清右衛門は、1585年の秀吉による根来焼き討ちの前に、この堺に移住しているから、少なくともそれ以降には堺において鉄砲生産が行われていたのは確実である。江戸期の記録から、芝辻の子孫が分業制で鉄砲を制作していたことが分かっている。

 鉄砲鍛冶として最も有名なのは、近江の国友村である。「国友鉄砲記」によると国友村における鉄砲生産は、1550年から始まった、とある。同書の記述は、今ひとつ信憑性に欠けるとされているが、他の史料から国友製の鉄砲の起源は、遅くとも1553年までは遡れるのが確認されている。

 また先の記事でも触れたが、大友氏も別ルートで火縄銃を入手していた。大友氏が支配する豊後は、日本有数の刀剣生産地でもあったから、技術的基盤は整っていた。大友氏の御用鍛冶・渡辺氏はポルトガル人から直接に技術指導を受けていたらしく、鉄砲生産は早かったようである。1559年には最初の鉄砲生産に挑戦、63年には領内において集中生産体制が確立されている。翌64年、立石原の合戦において大友氏は何と1200丁の鉄砲を使用した、と記録にある。流石に数には誇張があると思われるが、早くから生産体制が整っていたのは確かなようだ。

 いずれにせよグローバルな貿易体制があってこその、鉄砲の普及であった。玉を放つためには黒色火薬が必要で、その原材料は硫黄・炭・塩硝である。うち硫黄は豊富に取れた日本だが、材料の7~8割を占める塩硝の元になる天然硝石は採取できず、中国やタイからの輸入に頼っていた。

 日本で天然硝石は採れなかったが、塩硝を得る方法はないことはなかった。床下に穴を掘り、その中に蚕のフン・干し草・土を交互に積み重ね、4~5年経つと硝化細菌による発酵熟成により、硝酸カルシウムが生成される。土の中に染み込んだ、この硝酸カルシウムを抽出すれば塩硝を得ることができた。加賀藩が発明した、この「土硝法」の確立によって、いずれ国産塩硝の採取も可能になるのだが、本格的に生産されるようになるのは江戸期に入ってからである。

 地域によっては戦国期にも、より原始的な方法である「古土法(50年ほど経った民家や、厠の床下の土から抽出する方法)」で塩硝を生産していたところもあったようだが、需要を満たすほど多くは取れなかったし、採取にも時間がかかった。

 また鉄砲玉の原材料となる鉛の調達も、国産だけでは厳しかった。16世紀後半の豊後府内の遺跡から出土した鉛弾を分析調査したところ、30%がタイにあるソントーという単一の鉱山から掘られた鉛であったことが分かっている。同時期の紀州から出土された鉛弾に至っては、実に80%が日本以外のアジア産の鉛であった。

 また東南アジア各地で、日本製と思われる火縄銃が見つかっている。これを日本製火縄銃が海外へ輸出されていた例として挙げる人もいるようだが、これらの鉄砲が本当に日本から来たものなのか、だとしたらいつどこで造られたものなのか、研究が全く進んでいないため、その実態は不明である。

 個人的には、これらの多くは現地に移住した日本人が持ち込んだものではないかと思っている。マラッカやゴアにはポルトガルの大規模な火器工廠が先行して存在していたし、現地でも家内制手工業のように小規模な形でなら、鉄砲鍛冶を行うこともできたはずだ。いくら質が良かったとはいえ、日本の鉄砲がわざわざ海を渡って海外の市場に食い込めたかどうか。ある程度は輸出していたかもしれないが、そんなに大規模なものではなかったと思われる。

 それよりも、日本以外では絶対に手に入れることができなかった日本刀の方が、まだ需要が高かったような気がする。過去の記事でも紹介したが、わざわざ日本刀の刀身を輸入して、槍の穂先につけるなどして運用していた国もあったくらいなのである。(続く)

 

 

根来衆と鉄砲~その③ 薩摩の海賊に奪われた鉄砲の謎と、とっぽどん殺人事件

 明が残した記録に、非常に興味深い内容のものがある。前回の記事で、薩摩からの船が捕まった話を紹介したが、その1か月後の48年4月に別の密貿易業者・方三橋という男の船が、同じように双嶼付近で明軍に捕まっているのだ。

 その記録によると、押収したこの船の荷には「小型仏郎機4・5座、鳥嘴銃4・5箇あり」、つまり大砲と火縄銃がそれぞれ4~5丁あったとはっきりと記されてある。そしてこの船の乗員であった陳端という男は、明の取り調べに対して、これらの火器はなんと「ポルトガル人が日本にやってきた際に、戦って奪い取ったものである」と述べているのだ。

 この「火縄銃が奪われた戦い」とは、いつどこで行われた戦いなのだろうか。実はポルトガル、日本側双方にヒントとなる記録が残っている。まずはポルトガル側の記録から。

 ペロ・ディエスというガリシア人がいる。彼は1544年に中国人のジャンクに乗ってマレー半島から双嶼を経由して、8月ごろに南九州にやってきたのだが、そこで戦闘に巻き込まれているのだ。

 彼がスペイン人に語った記録にはこうある――「5隻のジャンクが日本のある港にいたところ、100隻以上の中国人のジャンクが互いに繋ぎ合って襲ってきた。5隻のジャンクに乗っていたポルトガル人は、4隻のボートに3門の火砲(仏郎機砲)と16丁の銃(アルケブス銃、つまり火縄銃)を積んで反撃、多くのジャンクを破壊し賊を殺した」。

 次に日本側の記録を見てみよう。大隅半島の国衆であった池端清本が、1544年11月5日に作成した相続文書には、彼の孫である弥次郎重尚が「小根占港において唐人と南蛮人が戦った際に、手火矢(火縄銃)に当たって戦死した」と記されているのだ。

 上記2つの記録は、同一の事件のことを記していると見て間違いない。弥次郎は、この戦闘に何らかの理由で巻き込まれてしまったのだろうか。或いは一番ありそうなのは、襲撃側のジャンクに加担して、ディエスの乗っていたジャンクの積み荷を奪わんと襲いかかった、ということである。

 双方の記録に「中国人」・「唐人」とあるから、攻撃の主体は中国人をリーダーとする密貿易商人、つまりは倭寇であったと思われる。商売敵――というよりは単に、「こいつらは、お宝を持ってそうだ」と踏んだ倭寇が、積み荷目当てで襲撃したというところか。だが引っかかるのは、敵が「100隻以上の中国人のジャンク」であったということである。10年後の「嘉靖の大倭寇」の時期ならまだしも、1540年代の小根占港に100隻もの大艦隊が押し寄せてきて、しかもそれが撃退される、ということはありそうにない。

 この「100隻」というのは、大小取り混ぜた舟の総数だったと思われる。内実は殆どが小舟であって、浜からそれを使って一斉に漕ぎ寄せてきた、ということだろう。「互いに繋ぎ合って襲ってきた」というのがよく分からないが、相手を逃がさないために、縄を繋げた小舟で包囲しようとしたのだろうか。

 つまりはこの「中国人のジャンク」に乗っていた倭寇どもと、現地の国衆が結託してディエスらを襲った、ということである。或いは、池端清本自身も現場にいて、孫の弥次郎ら一族を率いて戦闘を主導していたかもしれない。

 いずれにせよ、この戦闘で略奪者どもは撃退され、弥次郎も戦死してしまったわけだが、もしかして積み荷の幾ばくかは奪えたのかもしれない。もしそうだとするならば、方三橋の船にあった火縄銃4~5丁というのは、この戦いでポルトガル人から奪ったものであったかもしれない。ディエスの記録には「16丁の銃を、4隻のボートに分散して応戦」とあるので、ボートを1隻奪えば数的にはちょうど合う。

 方三橋の船にあった火縄銃の出自が、この時の戦いで奪ったものでなかったとするならば、記録には残っていない他の船から奪ったもの、ということになる。1540年代に多くの密貿易船が日本に訪れているが、上記の例のように、隙を見せると現地の国衆(海賊)、もしくは商売敵(倭寇)に殺されて、積み荷を全て奪われることも珍しくなかった、ということだ。

 その辺りの事情を良く知っていたのは、イエズス会士らであった。1552年にフランシスコ・ザビエルがゴアに送った書簡には「もしスペイン船が日本に来航すれば、身に着けた武器や衣類を奪わんとする貪欲な日本人らによって、全員を殺害してしまうでしょう」とある。(ただしこの書簡は、スペイン人の艦隊派遣の意図を挫折させるために書かれたものらしいので、多少は割り引いて考える必要がある。)また同じイエズス会士のフランシスコ・ペレスは「ザビエルがジャンクに乗って日本に渡航したことは幸いであった。というのは、もしポルトガル船で来た場合、ポルトガル人と日本人との間で争いが起きないことは、殆どないからである」と述べている。

 

江戸初期の著名な儒学者林羅山の師である、京の学僧・藤原惺窩(せいか)がまだ若い頃、1596年に肝付にある「内之浦」(上記地図の黄名で示した港)を訪れている。当時、既に一流の文化人・儒学者であった彼は、ルソン交易で生計を立てている交易商人らに接待されることになった。そこで彼は、ガラスの器で満たされた焼酎やワインを供されつつ、ヨーロッパ製の世界地図を見ながら現在の世界情勢についてレクチャーを受ける、という衝撃的な体験をするのである。彼はその驚きを「南航日記残簡」という記録に残した。当時の九州の各港は、世界の最新事情を得られる場所でもあったのだ。上記地図の青名で記した残りの港は、1546年に九州に渡来した、ポルトガル商人ジョルジュ・アルバレスが述べた、南九州における代表的な9カ所の港。当時の南九州各地の港は、こうした密貿易商の来船で大変賑わっていた。

 

 さて1957年に鹿児島県・阿久根の砂浜から、ポルトガル王国の印章が記された小型の仏郎機砲が発掘されている。この仏郎機砲は一体、何でこんなところに埋まっていたのであろうか?

 実は遡ること約450年前、1561年12月にポルトガル商人、アフォンソ・ヴァスがこの阿久根港にて、日本人の海賊に殺害されるという事件が発生しているのだ。この件に関して、島津貴久ポルトガルのインド副王に送った、釈明の書簡が残っている。

 そしてこの大砲は、アフォンソ・ヴァスが船上で襲われた際に戦闘のどさくさに紛れて、海中に落ちてしまったものではないか?と推測されているのだ。

 

阿久根市観光サイトより画像転載。重要文化財「阿久根砲」。砂浜に何かが埋まっていたのを、通りがかりの小学生が偶然見つけて掘り出したところ、思わぬ大発見となった。なお阿久根には「とっぽどんの墓」と呼ばれている正体不明の墓があるらしいが、これはヴァスの墓ではないか、と伝えられているとのこと。

 

 改めて戦国時代というのは、油断も隙もない恐ろしい時代であった。日本にやってくる密貿易商人たちも、命がけであったことがよく分かる。もちろん逆のパターンもあって、その機会さえあれば、密貿易商人が現地を略奪することもあっただろう――倭寇として。(続く)

 

根来衆と鉄砲~その② 鉄砲は日本にいつ、どこに伝来したのか

 鉄砲は日本にいつ、どこに伝来したのか。

 一般にも知られている鉄砲伝来のストーリーとしては、1542年、ないし43年に種子島に到着した中国人倭寇、王直の船に乗っていたポルトガル商人から、当主の種子島時堯(ときたか)が鉄砲を入手。うち1丁が津田監物(別名、杉乃坊算長。おそらく杉乃坊の親方であった、杉乃坊明算の弟)により、根来の地にもたらされた。日本の鍛冶屋は、日本刀によって培われた鍛鉄技術に秀でていたから、すぐにこれを習得、西坂本や堺において鉄砲の生産が始まった――というものだ。

 

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王直と津田監物に関しては、上記の記事を参照

 

 

1992年に日本到着450周年を記念して、ポルトガルで発売された切手。額面は到達年とあわせて、42エスクードになっている。(ユーロ導入前)

 

 「鉄炮記」に記載されているこれらの経緯は、概ね事実であったようだ。だが、鉄砲の伝来ルートは1つだけではなかった、というのが最近の説だ。これは1540年代に日本を訪れた密貿易商人たちにより、様々な形式の火縄銃が「分散波状的」に日本に伝えられた、というもので、種子島への伝来もそのうちの1つにしかすぎなかった、というものだ。

 確かに中国の密貿易商人たちは、早くから仏郎機砲や火縄銃を使用していた形跡がある。密貿易の拠点であった双嶼が1548年に壊滅した際、攻めてきた明軍に対してこれら海賊どもは「大小の鉛子火銃」を発して攻撃してきた、とある。これは、仏郎機砲と火縄銃のことを指していると思われる。そもそも双嶼に巣くっていた海賊どもの半分近くはポルトガル人であったから、そうした火器で武装していたのは、当たり前といえば当たり前の話なのであるが。

 この明軍による双嶼攻撃の際に捕まった日本人に、稽天(けいてん)と新四郎がいる。この2人については以前の記事でも紹介したが、1548年3月に薩摩から双嶼へ交易のため向かっていたところ、不運にも明海軍の逍戒線に引っ掛かり、拿捕されてしまったのである。彼らの船は荷物と共に押収されてしまったのだが、明の記録にはその中には「番銃」2架があったとある。この「番銃」が仏郎機砲であったのか、それともインド・ポルトガル式火縄銃であったのか議論が分かれるところであるが、後者であった可能性もある。

 

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稽天と新四郎、そして密貿易港・双嶼の壊滅については上記の記事を参照。

 

 明の取り調べに対し、この2人の出身は薩摩の東郷で、船は「京泊」から出航したと述べている。当時、川内川の河口にある小さな港、京泊を貿易拠点としていたのは、東郷重治という薩摩の国衆であった。ちなみに彼の弟が後年、薩摩示現流の開祖となる、あの剣豪・東郷重位である。(――と書いたが、どうも年齢が合わないようである。兄ではなく、父ないし親族であったかもしれない。23年6月4日追記)

 この東郷氏は、2人が捕まった1年後の1549年6月1日に「黒川崎の戦い」において、島津氏とその旗下の種子島氏と戦っているのだが、実はこの戦いは文献上で確認される、日本史上初めて鉄砲が使用された戦闘なのである。

 加治木城を巡る戦闘で、攻守ともに「鉄砲を発し、数月を経て人の耳目を驚かしむ」という記述が「旧記雑録前編」という記録にある。鉄砲隊などが動員されるような本格的なものではなくて、1~2丁の鉄砲を個人レベルで放ったようなものだったのだろう。それでも戦闘終了後、数か月は人々の噂にのぼった様子が見て取れる。

 攻める島津氏の下には種子島氏がいたから、島津サイドが使用した鉄砲は(射ち手も)、種子島氏が用意したもので間違いないだろう。この鉄砲はポルトガル人から購入した、輸入品だったのだろうか?種子島に鉄砲が伝来してから6~7年経っているから、この時に使用されたのは極初期に生産された、プロトタイプの国産鉄砲であった可能性がある。

 一方、守る肝付氏の陣営には渋谷氏がいた。東郷氏はこの渋谷氏に連なる一族であったから、この戦いに参加していた。そして先に紹介した稽天と新四郎の例から分かるように、この時点で東郷氏は既に火縄銃を持っていたようだから、この戦いで使用された肝付サイドの鉄砲は、東郷氏のものであった可能性が高い。こちらは国産でなく、京泊ルートでポルトガル商人から購入した輸入品で、種子島ルートとは異なる方法で入手したものだったと思われる。或いは、「別の方法」で手に入れたのかもしれない。この「別の方法」に関しては次の記事で詳しく述べる。

 ちなみに東郷重治は1569年には島津家に降伏し、以降その傘下に入ることになるが、島津家の元で内之浦や山川といった、良港を有する地の地頭に任命されている。京泊を拠点とし、海外貿易に携わっていた重治の経験と知見が買われたのだろう。

 また大友家も1553年までには、種子島ルートではない鉄砲を交易によって手に入れていたようだ。海外から入手した鉄砲を、将軍義輝に献上しているのが文献上に確認できる。(続く)

 

 

根来衆と鉄砲~その① 鉄砲と大砲 その開発の歴史

 根来と言えば、隣の雑賀と並んで鉄砲隊が有名である。戦国期に根来寺がここまで勢力を伸ばせたのは、間違いなくこの新兵器の威力によるものが大きい。このシリーズでは、根来衆と鉄砲に関わる歴史を見ていこうと思う。

 そもそも鉄砲、とは何か。辞典には「銃身を有し、火薬の力で弾丸を発射する装置」とある。当然、火薬の発見以降に開発された兵器になるわけだが、その前段となった武器が存在する。

 中国・南宋時代に、「火槍」という武器があった。これは「槍の穂先に火薬を詰めた筒をつけ、敵の前に差し出す」武器である。筒から発する火花と轟音を以て敵をひるます代物で、発想としては火炎放射器に近い。野戦に使える代物ではなく、攻城戦における守勢時に使われたようだ。

 ただこの「火槍」、近距離でしか使えなかったし、殺傷力も低かった。どうすればより強力な威力を発することができるのか、いろいろ試行錯誤してみた結果、あることに気づく。火薬に玉的なものを混入させてみると、それが凄い勢いで飛び出していくのだ。

 こうして「筒の中にある火薬を燃やし、火花を敵に浴びせる」兵器から「筒の中にある玉を、火薬の燃焼により敵に発射する」、つまり鉄砲と同じ原理の武器が出現したのである。

 

Wikiより画像転載「火龍神器陣法」より。使っているうちに何か混ぜた方が効果的であることに気づいたのであろう。こうした鉄片や石を「子案」と呼び、この子案を詰めて発射する火槍を「突火槍」という。初期の砲身は暴発する危険もあったから、あまり大量の火薬は詰められなかった。威力もそう大きなものではなかっただろう。

 

 筒の素材を竹から鉄へと変え、耐久力と共に威力も上がった管状兵器は、13世紀末までには中国で実用化され、2種類の方向に進化していくことになる。1つが大型化、つまりは大砲への進化で、中国ではこれを「銃筒」と総称している。この兵器はイスラム世界を介してヨーロッパにも伝わり、かの地で「射石砲」から「攻城砲」や「艦載砲」へと進化していく。

 もう1つの方向性は携帯用の小型化だ。アラビア世界においては「マドファ」、ヨーロッパでは「ハンドキャノン」として進化し、それぞれ戦場で活躍することになる。とくに15世紀のボヘミアにおけるフス戦争では強力な威力を発揮し、板金鎧を装着した騎士たちをなぎ倒している。

 中国においては、突火槍をより進化させたこれを「手銃」或いは「鋼銃」と称した。明の初期、鄭和の大艦隊がジャワにおいて使用したという記録がある。14世紀から15世紀にかけて、アジアではこの手銃が広く伝播している。実は日本にも来ているのだが、あまり存在感がない。

 1466年に相国寺の僧が残した記録に、足利将軍を訪れた琉球人が退出の際に「鉄放」を放って京の人を驚かせた、とある。これがこの種の武器の、文献上で確認できる一番古い記録である。その2年後に太極という僧が「応仁の乱」最中の1468年に、東軍の陣営で「飛砲火槍」を見た、という記録があるので、一応戦場でも使われたようではあるのだが・・・また「北条五代記」1510年の記事に「中国から鉄砲がもたらされた」という内容があるが、これも火縄銃ではなく、この手銃のことだと推測されている。

 この「手銃」は木の柄に装着して、上部の点火孔から着火して発射するという仕組みだ。左手で銃身を保ちつつ、右手に持った棒状の火種(熱した針金などが使われた)で着火するわけだから、狙いを定めるのは難しかった。

 

Wikiより画像転載。上記はヨーロッパタイプのハンドキャノン。この着火方法を「タッチホール式」と呼ぶ。この方法だと、狙いは大まかにしかつけられなかった。この時期の日本各地の記録に散見される「鉄放」や「飛砲火槍」も、このタイプの手銃であったと思われる。

 

 射手と着火手の二人一組で撃つ場合もあったが、人手が倍かかる。そこでドイツはニュルンベルグで発明されたのが、火縄とS字金具の組み合わせの着火機構である。S字型の金具の片方に火縄を括り付け、反対側にあるもう片方を引くことで、火縄が点火孔にスポッと入って着火する仕組みである。「引き金」の誕生である。

 この発明により、両手で銃身を支えられるようになり、安定した姿勢での射撃が可能となった。更に不発防止のため、点火孔ではなく火皿を装着するようになる。こうした工夫の末、出来上がったのが火縄銃なのである。これを「緩発式火縄銃」と呼ぶ。この銃の形式はドイツからオスマントルコに伝播、かの地で「ルーム銃」へと進化し、西アジアへと広まっていく。

 一方、ボヘミアにおいて発明されたのが「瞬発式火縄銃」である。基本的な原理は上記と変わらないが、着火機構にバネを使用しているので、引き金を引く、或いはボタンを押してから発射までのレスポンスが早かった。ポルトガルに伝わったのはこちらの方である。ポルトガルの海外進出に伴い、海上経由で各地へと伝播していった。

 

 


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火縄銃の着火の瞬間。スーパースローで撮影している。とても分かりやすい。

 

動画元のサイト「松本城鉄砲蔵」さんのHPより。瞬発式火縄銃の着火機構の説明図。HPには「発砲の仕組み」なども詳しく解説されている。下記がリンク先。

 

 14~15世紀に西欧において発明されたこの火縄銃、逆輸入のような形で中国に入ってきたのは1500年初頭のようである。中国ではこれを「鳥銃」と称した。トルコ系の緩発式・ルーム銃が陸上ルートから、ポルトガル系の瞬発式・エスペンガルダ銃(スペイン語ではアルカブス銃)が海上ルートから、2種類の火縄銃がほぼ同時に伝播したとみられている。

 だが中国においては、鳥銃はあまり普及しなかった。どうも鍛鉄による製造がうまくいかず、代わりに鋳造で銃身をこさえたようなのだが、それでは本来の性能を発揮できなかったようだ。朝鮮半島で日本軍と戦って、その威力を思い知ったのち、ようやく鳥銃、特にルーム銃の鍛鉄生産に本腰を入れることになる。

 鋳造で造る大砲の方は、ポルトガルと交戦した1520年代にその存在を知り、製造技術をいち早く取り入れて生産に着手している。1528年には4000門もの小型「仏郎機(フランキ)砲」を生産したのを皮切りに、中国全国の城塞や艦船に配備されていくことになる。こうした動きは日本とは逆で、興味深い。

 

遊就館蔵「仏郎機砲・国崩し」。この大砲の画期的なところは、射出機構がカートリッジ方式になっているところだ。カートリッジである「子砲(ねほう)」には、火薬と砲弾が詰められており、それを砲身の根元にある薬莢部にはめ込み、着火して撃つ仕組みだ。これをたくさん用意しておき、撃ち終わったらすぐに交換すれば、連射が可能となる。ただし構造上、子砲は砲身よりも小さく設計せざるを得ず、薬莢部から大量のガス漏れが発生した。結果、エネルギーが分散されてしまったので、尾栓が密閉されていた前装式大砲に比べると、威力が遥かに劣る上、暴発の危険性まであった。撃ち出される砲弾も砲身の口径よりかなり小さくならざるを得ず、弾道が安定せず命中率も低かった。なのでコンセプト的には劣っているはずの、前装式の大砲にいずれ取って代られてしまうのである。発想は良かったのだが、当時の工作技術ではそれを生かすことができなかったのだ。この技術的欠陥が解消されるのは19世紀に入ってからで、砲尾部に近代的な閉塞機構が発明されるのを待たなければならなかった。以降は再び後装式の大砲が主流となる。幕末に活躍したアームストロング砲がそれである。

 

 海路を使ってアジアにいち早く到達していたポルトガル人だが、ゴアやマラッカに大規模な火器工廠を建てている。上記画像にある「国崩し」は、大友氏が戦さにおいて実際に使用したものだが、ポルトガル人から購入したゴア製のものであった。

 また数多くの火縄銃も、こうしたアジア各地の火器工廠で生産されていた。これらは全て「引き金式・頬つけ型・瞬発式」の火縄銃で「インド・ポルトガル式火縄銃」と呼ぶ。日本の種子島にやってきた鉄砲もこの型で、おそらくはマラッカ製の鉄砲だったと思われる。(続く)

 

 

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その⑨ 倭寇による国造り・台湾王国樹立とその滅亡

 オランダ勢力を駆逐して、台湾を手に入れた鄭成功はさらに南方、スペイン人の占領するフィリピンに目を向ける。彼の旗下にいたイタリア人修道士をマニラに遣わし貢納を要求した、という記録が残っている。これは現地のスペイン人に、ちょっとした恐慌を巻き起こした。すぐにでも鄭軍が攻めてくるに違いない、そう思い込んだスペイン軍は戦時の内応を恐れ、先手を打って在マニラ中国人を虐殺するという暴挙に出たのだ。(事実、そういう動きもあったのだ)

 報告を聞いて激怒した鄭成功は、マニラを占領せんとフィリピン攻略を企画する。だがこれが実現する前、1662年6月に鄭成功は病死してしまうのだ。台湾征服からわずか数か月後、この時まだ37歳の英雄の早すぎる死であった。長生きしていたら、かつて林鳳が成しえなかったフィリピン占領という夢まで実現するところであった。事実、当時の在フィリピン・スペイン軍の規模と実力では、鄭軍には勝てなかっただろうとみる学者は多い。

 彼の死後、息子の鄭経が跡を継ぐ。だが叔父である鄭襲ら、一族との跡目争いが発生、その勢力は大きく削がれてしまう。中国大陸における拠点は1664年までには全て陥落、鄭氏政権は台湾に引きこもることになる。

 

Wikiより画像転載。「鄭経肖像画」。彼は弟の乳母との間に子を成していて、激怒した父・鄭成功により、危うく処刑されそうになっている。これは当時の儒教的価値観からすると、近親相姦に近いスキャンダルだったらしい。

 

 この鄭氏政権のモットーは「反清復明」であったから、明王朝の末裔である朱以海を擁していた。しかし彼は、鄭成功が死んだ同年62年の年末に、44歳で没している。(死因は喘息が悪化したため、とされているが本当だろうか。)以降も鄭氏は自ら王号を称することはなかったが、周辺はそう見ていなかったようだ。この時期の鄭氏政権は、イギリス東インド会社と通商条約を結んでおり、イギリスの史料には「台湾王国」、或いは「フォルモーサ王国」と記されている。また鄭経に対して「陛下(Your Majesty)」の呼称を使っている。足利幕府将軍のように、海外からは独立国家の王として見られていたようだ。

 そして幸運なことにこの鄭経の下には、陳永華という優れた内政官がいたのだ。陳永華は兵による屯田をすすめ、台湾における農業生産力を向上させた。また製塩技術を改良して良質の塩を得られるようにした他、甘藷の栽培も行っている。更には清の海防を担当する将軍に賄賂を贈り、沿岸における密貿易を再開させている。これら一連の優れた施策により、鄭氏政権下の台湾は一応の安定を見せたのである。

 

ikiより画像転載。赤色が鄭氏政権の支配していた領域で(一時的なものも含む)、オレンジ色が鄭軍の最大侵攻領域。いずれも海や河沿いで、後期倭寇の侵略地域と重なっているのがよく分かる。唯一の違いは、膠州湾沿岸に攻め入っていないことだ。その代わりに、長江を遡って南京近辺を攻めている。略奪が目的の後期倭寇と、政権打倒が目的であった鄭軍との違いがここに現れている。いずれにせよ制海権が命綱で、水から遠く離れてしまうと、その力を保つことができなかったのは後期倭寇と同じで、それが鄭軍の限界であった。台湾も全域を支配していたわけではなく、島の南西部分だけである。当時、台湾の奥地は未開発のジャングルであった。また北部には、しぶとくオランダ勢力が残っていた。

 

 1673年、大陸で軍閥呉三桂らによる「三藩の乱」が発生する。鄭経はこの乱に呼応する形で再び大陸侵攻を行い、厦門周辺を回復することに成功する。呉三桂らの軍は一時、長江以南を占領する勢いをみせるが、清軍の反撃により敗退を重ね、その支配領域は次第に減少。1678年に呉三桂は病死、乱そのものも尻すぼみになり、81年には完全に鎮圧されてしまう。鄭軍も清軍の侵攻に耐え切れず、80年には厦門を放棄、再び大陸から撤退している。

 鄭経は翌81年に病死。遺言により、跡継ぎは例の弟の乳母との間にできた長男・鄭克𡒉(ていこくぞう)であった。彼は祖父である鄭成功に似ていて、果断かつ剛毅な性格であったらしい。しかし不仲であった鄭経の正室・董氏とその一族、そして重臣の馮錫範(ばしゃくはん)が起こしたクーデターにより、彼は殺害されてしまう。代わりに董氏の子である、次男・鄭克塽(ていこくそう)がその座に就く。この時、鄭克塽はまだ12歳の若年であった。

 台湾でそんな内紛劇が繰り広げられている間、清は着実に次の手を打っていた。この時の清の皇帝は、中国史上でもベスト5に入るほどの名君・康熙帝だ。呉三桂ら反乱分子の殲滅に成功、後顧の憂いをなくした康熙帝は、本腰を入れて台湾攻略に取りかかることにする。こういう時に焦らずに、時間をかけて海軍を育成するところが名君の証なのだ。準備万端これならいける、そう判断した康熙帝は1683年になって、遂に台湾攻略の大艦隊を出陣させたのである。

 1万人の兵員を乗せた600隻の大艦隊が、鄭軍の前線基地である澎湖島に攻め入った。劉国軒率いる200隻の鄭水軍は、これと応戦するが多勢に無勢、7月16日に澎湖島は陥落する。その勢いを駆り、艦隊は9月3日に台湾に上陸する。ここに至って、鄭政権の3代目・鄭克塽は(というよりも董氏一族と馮錫範は、というべきか)抵抗する無駄を悟り、清朝に降伏した。この時の清軍の総司令官は、福建省水師都督の施琅(しろう)という、皮肉にも鄭成功の父・鄭芝龍の部下であった男である。台湾占領後、彼は鄭成功の廟を訪れ、その前で号泣したと伝えられている。

 こうして、鄭氏による台湾統治は終わりを告げたのである。

 一介の倭寇であった鄭芝龍が東シナ海を制覇し、明の高官となった。更にその息子は独立王国まで造ってしまった。3代・22年という短い期間ではあったが、この国は確かに存在したのだ。これは倭寇のひとつの到達点であるといえる。この快挙を王直や林鳳らが知ったら、どう思っただろうか。

 なお蛇足だが、現代の台湾海軍には鄭成功の名を冠した「成功級」という名のフリゲート艦シリーズがある。これに対抗する意図があったのだろう、中国海軍が旧ソ連から購入した空母に「施琅」と名付ける計画があったらしい。流石にあからさますぎると判断されたらしく、結局は「遼寧」という艦名に落ち着いたという経緯がある。(終わり)

 

(あとがきのような雑感)

 さて長きに渡ってお送りした「倭寇」に関するシリーズも、今回で最終回となる。元々は「根来行人と倭寇との関係性」をテーマとした、4、5回の記事で終わるだろうと思って始めたシリーズであった。しかし当時のことを調べれば調べるほど面白くなってしまって、根来行人に関するどころか倭寇以外にも話が及び、こんなに長くなってしまった。トータルで22記事である。当初1つの予定であったジャンルを、分類し直している。以下の3つである。

・「前期倭寇とは」3記事

・「後期倭寇に参加した根来行人たち」10記事

・「晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち」9記事

 記事の内容にも、ちょくちょく修正&補足を入れたから、UPされた直後よりも分かりやすくなっているはずである。時間があるときにでも一気に読み直していただくと、また違った印象を受けるかもしれない。

 これまで倭寇や密貿易に関する漠然とした知識はあったのだが、各種論文をきちんと読み込んでみると、知らないことばかりであった。鎖国前の日本やアジア各国、そしてヨーロッパ勢がここまでダイナミックに交流していたとは、お恥ずかしながら私にとっては驚きであった。

 それにしても改めて思うのは、この時期の日本という国が世界有数の資源大国であって幸いであった、ということだ。一時、世界に流通する銀の30%を産出したという、石見銀山産の「佐摩銀」こと「ソーマ銀」。日本を訪れた商人たちは、皆すべからくこのソーマ銀が目当てであったから、これがなかったら彼らがこんなにも日本に来ることはなかったのだ。鉄砲の伝来も遅れていただろうから、戦国の歴史も変わっていたかもしれないし、ここまで多数の鉄砲を(一説にはピーク時で、全国で5〜10万丁とか)生産・所持することも、なかったはずだ。

 日本は17世紀初頭に国を閉じてしまう。この鎖国により日本の文化は、寝かされたワインのごとく熟成され、独自の江戸文化が生まれるわけだが、仕込みの段階でここまで大量の海外の文物・知識・文化が入っていたからこそ、あそこまで芳醇な味わいになったのではないだろうか。もし石見銀山がなかったとしたら、江戸文化ひいては日本の文化は、今とは全く異なる、もっと底の浅い、味気ないものになっていたかもしれない・・

 さて次のシリーズは「根来衆と鉄砲」ないしは「戦国期の京」を予定している。双方とも幾らか書き溜めている記事があるのだが、もう少々手を入れてシリーズとして首尾一貫したものになってから、公開する予定である。

 

 

このシリーズの主な参考文献

鄭成功 南海を支配した一族/奈良修一 著/山川出版社

・台湾の開祖 国姓爺鄭成功/森本繁 著/国書刊行舎

・16・17世紀の海商・海賊/越村勲 編/彩流社

大航海時代の日本人奴隷/ルシオ・デ・ソウザ 岡美穂子 著/中公選書

・南蛮・紅毛・唐人:十六・十七世紀の東アジア海域/中島楽章 編/思文閣出版

倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史/渡邊大門 著/星空社新書

・〈身売り〉の日本史/下重清 著/吉川弘文館

・堺-海の文明都市/角山榮 著/PHP選書

・東アジア海域に漕ぎ出す1 海から見た歴史/羽田正 編/東京大学出版会

・貿易商人王列伝/スティーブン・R・ボウン 著/悠書館

・はじめに交流ありき 東アジアの文学と異文化交流/染谷智洋 編/文学通信

・その他、各種学術論文を多数参考にした。

 

 

 

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その⑧ 倭寇vsオランダ ゼーランディア城攻防戦

 当時の台湾はオランダの勢力下にあった。その拠点は台南のゼーランディア城にあり、支城として近くにプロヴィンシア城があった。鄭芝龍が明の高官であった30年~40年ほど前、鄭一族とオランダは矛を交えた時期もあったが、概ね商売上のよき取引相手であった。しかし1661年4月30日、その息子・鄭成功は300隻の艦隊に1万1700人の兵員を乗せて、ゼーランディア城に攻め入ったのである。

 台湾総督コイエットの元に「鄭成功が台湾を狙っている」という情報が届いていないわけではなかったのだが、攻めてきたその数には仰天した。当時のオランダ方の記録には、「霧が晴れたのち、多くの船が北線尾港口にあるのが見えた。マストは大変多く、森のようであった」とある。

 当時この辺りで唯一、船を安全に駐留できる港であった台江内海(安平港)に入るためには、大砲を備えたゼーランディア城のある岬の突端を通るか、向かいの北線尾島にある鹿耳門溝(ろくじもんこう)という、非常に浅くて細い水路を通るしかなかった――はずだったのだが、この日はよりによって大潮の日だったのである。その日を狙って侵攻した鄭艦隊は、午前10時の満潮時に難なく鹿耳門溝を通過、台江内海に侵入し兵を一斉に上陸させた。まずはプロヴィンシアとゼーランディアの連絡線を遮断することに成功する。

 

台南赤嵌楼の展示図に、筆者が加筆したもの。沿岸流によって運ばれた砂礫が湾の入り口で細長く堆積し、入り口を塞いでいる。こうした地形を「砂州」と呼ぶ。砂州の隙間に形成された鹿耳門溝は、本来はボート程度しか通れないほど浅くて狭い水路であった。しかし鄭水軍のジャンクは喫水の浅い平底船であったから、普段よりも潮位が大きく変化する大潮を利用して、水路を突破することができた。

 

 翌5月1日、オランダ軍のペデル大尉率いる250人がゼーランディア城から出撃、北線尾島に逆上陸し、鄭軍の陣に対し攻撃を仕掛けている。勇敢だが、無謀な攻撃であった。どうも「しょせんは倭寇、大砲の音を聞いたら逃げ散るだろう」と、舐めきっていたようだ。これまで相対してきたような、ただの略奪集団ならそうであっただろうが、鄭軍は大国・清を相手に何年も戦ってきた歴戦の軍隊である。正面に50門の小型仏郎機(フランキ)砲を配備していた4000の兵に迎撃され、壁に投げつけられた生卵のごとく、攻撃部隊は粉砕される。部隊のおよそ半分近く、118名の被害を出しほうほうの体で撤退、先頭にいたペデル大尉もあえなく戦死してしまう。

 海上ではオランダ艦隊が善戦した。わずか3隻だけの小艦隊であったが、大砲を使って鄭軍の多くの船を沈めたのである。しかし多勢に無勢、鄭軍は30隻以上の船で囲んで応戦し、雨のように火矢を射かける。オランダ艦隊の新鋭戦艦・へクトール号は、甲板上で発生した火災により火薬庫が誘爆、沈没してしまった。残った2隻も命からがら逃げだして、鄭軍は陸海で大勝利をおさめたのである。

 

台南熱蘭遮城博物館蔵「ゼーランディア砦」より。南から北に伸びた砂州の上に建てられたこの城は、煉瓦造りの3層構造になった「内側の砦」と、それに付随した長方形の「外側の砦」とで構成されていた。城壁の四隅には大砲が置かれており、南西には望楼が建っていた。城の左に広がっている街並みは居住地区で、城との間には市場や処刑場があった。

 

 5月4日、支城であるプロヴィンシア城は降伏開城する。この時点で、まだ900人の兵士を擁していたゼーランディア城は、籠城戦に入った。オランダのアジアにおける拠点である、バタヴィアからの援軍を待つことにしたのである。7月30日、そのバタヴィアから10隻の船と750人の兵員を乗せた艦隊が到着する。港の外に姿を見せたこの援軍を見て、ゼーランディアのオランダ軍の士気は高まった。だがこの時は風が強かったために、艦隊の1隻が座礁、鄭軍に捕獲されてしまう。しかたなく一旦退避、9月16日に改めてオランダ艦隊による攻撃が開始された。

 鄭成功は迎撃のために艦隊を派遣、オランダ軍は短艇を下ろしてこれと激しい洋上戦闘が繰り広げられた。数に勝る鄭艦隊はオランダ艦隊を撃破、オランダ側はこの戦いで戦艦カウケル号が爆破炎上、ほか数隻が拿捕され、なんと1288人が死亡・捕虜となってしまう。一方、鄭軍の被害は150人ほどであったというから、前回以上の一方的な勝利であった。

 この戦いでオランダ軍の継戦能力は失われる。士気も落ち、ゼーランディア城からは逃亡して敵側に投降する人員が続出。鄭成功は翌62年1月25日にとどめの攻撃を仕掛けた。これが決め手となって、オランダ側から停戦交渉の申し入れが入り、2月にゼーランディア城は降伏開城した。これにより、オランダの38年間にわたる台湾統治は終わりをつげ、鄭成功支配下に入ったのである。

 オランダ側の記録によると、包囲網の最中のオランダ人捕虜に対する鄭軍の扱いは、相当過酷なものだったらしい。捕まった男性の多くは拷問され命を落とし、女子どもは奴隷にされている。正式な降伏が受け入れられた後は、多くのオランダ人は私物を持って退去することが許されたが、奴隷となった女性に関してはその限りではなかった、とある。この女性たちの悲劇は、海外で劇の主題にもなっているほどだ。

 こういう容赦ないところは、倭寇らしいといえば倭寇らしいが、オランダも立場が逆だったら、それ以上に酷いことをしたはずだから(バンダ島の虐殺を見よ)、お互い様のような気がする。そういう時代のそういう戦いだった、ということであろう。(続く)

 

 

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その⑦ 倭寇から明の忠臣になった男・鄭成功

 長きに渡って倭寇を紹介してきたこのシリーズも、ようやく終わりに近づいてきた。最後はトリを飾るのに相応しい男の登場である。

 1625年。鄭芝龍という男がいた。福建省出身の彼は、故郷の閩南(びんなん)語の他、南京官話、ポルトガル語オランダ語など数か国語に堪能であったと伝えられている貿易商人、つまりは倭寇の一員だ。鎖国前の平戸を拠点にしていた、顔思済という親分の元で頭角を現した彼は、この年、その後を継ぐ形で船団を率いることになったのだ。

 拠点を平戸から台湾に移した彼は、福建省沿岸で武装活動を行い、顔思済の部下時代に同僚であったライバルたちを次々と滅ぼしていく。当初は100隻程度であった彼の艦隊は、最盛期には1000隻を超えたという。

 彼の船団は、かつての倭寇のように中国沿岸部を略奪することなどはしなかった――まあ、たまにはしていたかもしれないが、そんなにはしなかった。そんな危険を冒してまで明王朝と対決するよりも、もっとスマートな方法を選んだのだ。彼のユニークな点は、ライバルたちを滅ぼし唯一の海上武装勢力となったところで、他の商船から通行料を巻き上げたことだ。

 東シナ海を航海する商船は、鄭芝龍の旗を立てなければ必ず襲われた。この旗を立てるためには、船1隻につき銀2000両を収める必要があった、とある。制海権を確保した彼は、東シナ海における通行料を独占したのである。瀬戸内海で村上海賊衆が同じことをやっているが、それを外海でより巨大な規模で行ったのだ。

 こうすることによって、明王朝と良好な関係を築いた彼は、なんと1628年には海防遊撃という沿岸警備の役職に任命されるのだ。海上貿易に従事しつつ、洋上における公の治安活動をも請け負ったのである。かつての倭寇の大物、王直が描いていた夢を、80年越しで実現させたといえる。43年には、福建都督の位まで与えられている。

 だが彼の誤算は、1644年に明が滅ぼされてしまったことだ。もしかしたら新しい体制下でも同じような処遇が与えられるかもしれない、そう期待した鄭芝龍は清王朝に降伏することにする。だがその降伏に、強力に反対する男がいた。他でもない、彼の長男である鄭成功である。

 鄭成功は、鄭芝龍と日本人妻・まつとの間に平戸で生まれた、日中ハーフである。幼名を福松といった彼は、7歳の時に福建省に渡り勉学に励み、15歳の時に院試に合格する。かなりのインテリであり、このまま順調に進めば官僚への道が開けていたことだろう。だが明が滅んだことにより、その夢は断たれてしまった。代わりに亡命政権のひとつ、唐王・隆武帝に仕えることになる。帝に寵愛された彼は、国の姓である「朱」を賜り、以降は「国姓を賜った大身」という意味で「国姓爺」と呼ばれるようになるのだ。

 

台湾博物館蔵「鄭成功肖像画」。台湾の国民的英雄である。若い頃、南京の大学に留学し、稀代の文人・銭謙益に師事していたほど学があった。まさか将来、自分がこの南京に攻め入ることになるとは思ってもいなかっただろう。

 

 1646年、隆武帝は北伐の軍を起こす。だがこれに大敗して帝は捕らわれてしまい、獄死してしまうのだ。鄭成功の反対を押し切り、父の鄭芝龍が降伏してしまったもこの時である。以降、2人の途は別れることになる。

 亡命政権は代わりの帝を立てるも、次第に清に追い詰められてしまい、遂にはミャンマーにまで逃れている。かの地のタウングー朝・ピンダレー王は、この最後の皇帝・永歴帝を一旦は受け入れるものの、1662年に呉三桂の軍が迫ると、その身をさっさと引き渡してしまう。帝とその一族は雲南で処刑、こうして明の亡命政権は滅んだのであった。

 隆武帝亡き後、鄭成功厦門を根拠地として反清運動を行っていた。清は中原を制したとはいえ、南方は未だ呉三桂ら、明の遺臣たちによる強大な軍閥支配下にあった。また鄭成功も大艦隊を擁していたから、陸から近いとはいえ海峡で隔てられた厦門を、清は攻めることはできなかったのである。1654年、そんな彼の元に、父の鄭芝龍から降伏の使いがやってくる。しかし彼の意思は揺るがず、父の願いは拒否される。息子を説得でなかったことにより、鄭芝龍は処刑されてしまうのだ。

 それにしても鄭成功は粘り強く戦っている。彼を支えたのは、父が編み出した海上通行料の巻き上げシステムと、海外との貿易収入であった。五商という組織を立ち上げ、絹を中心とした品を盛んに海外に輸出しているが、彼の一番のお得意様は日本であった。(日本は既に鎖国していたが、中国相手の貿易は海禁対象にはならなかった。)また彼の実弟は、母方の実家である長崎の豪商・田川家を継いだ七左衛門という男で、資金や物資面で兄を援助している。鄭成功が弟に出した手紙に、例の通行料について書かれた内容が残されている。これにより鄭成功の時代には、大船からは銀2100両、小船からは銀500両を徴収していたことがわかっている。

 また日本とのそうした繋がりで、鄭成功江戸幕府に何回も援軍要請を行っている。こうした要請には、紀州大納言・徳川頼宣が乗り気であった、とも伝えられているが、当然のことながら幕府は困惑した。黙殺、という形で応えている。当時の日本で戦を本気で望んでいたのは、無聊を囲っていた旗本奴くらいのもので、太平の世に慣れ始めていた幕府には「いい迷惑だ」くらいにしか思われなかっただろう。

 1658年から翌59年にかけて、鄭成功は300隻の大艦隊を率いて、北伐を慣行する。東シナ海制海権は依然、鄭成功のものだったから、海から陸へのアプローチは自由自在なのだ。1659年5月には、脆弱な清水軍を一掃し、長江を遡りつつ沿岸の町を次々と占領下に置いていく。清がこの辺りを制してから、まだ10年ちょっとしか経っていなかったから、現地の反体制勢力もよくこれに呼応して立ち上がった。(こういうところも倭寇っぽい。)

 艦隊は6月26日には副都・南京付近に上陸、7月12日にはこの南方の最重要拠点を包囲している。だが、この遠征は最終的には失敗に終わっている。南京包囲からわずか12日後の24日には、清の八旗の反撃を受け、大敗してしまったのだ。陸戦では、やはりどうやっても清軍に勝てないのだ。

 2万近い兵と多くの指揮官を失うという、手ひどいダメージを負った鄭成功は、ほうほうの体で厦門に退却する。しかしこのままではジリ貧だ。この厦門に清軍はいずれ迫ってくるだろう。そんな状態を打開すべく、鄭成功は目を陸ではなく、海の向こうへと向ける。かつて父が、一時的に根拠地とした台湾――ここを征服することにしたのだ。(続く)

 

 

 

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その⑥ 日本人町と鎖国

 東南アジア各地には、イスラム教徒や現地勢力が築いた小規模な王国が幾つかあったが、16世紀初頭からポルトガル人やスペイン人ら西欧勢が交易網の結節点に町を形成、こうした周辺の小王国を滅ぼして植民地化を進めていった。ポルトガルの拠点はマラッカであり、スペインのそれはマニラであった。遅れて参加したオランダは先の記事で紹介したように、ポルトガルからマラッカを奪おうとしたが失敗、その代わりにバタヴィアと台湾に拠点を置いた。

 そしてこのオランダとほぼ同じタイミングで、日本人町が東南アジア各地に形成されはじめる。こうした日本人町は、どのようにして形成されていったのだろうか。

 徳川幕府は国内の混乱を治めた後、海外交易の促進と統制を目的とした「朱印船貿易」を行うようになる。日本に拠点を置く者であるならば、国籍に関係なく朱印状が発布された。商人や大名、武士以外にも中国人やヨーロッパ人まで朱印状を受け取った者もいる。1604年から始まり、1635年まで行われたこの貿易で、のべ356隻もの朱印船が東南アジア各港を訪れている。

 

長崎歴史文化博物館蔵「末次朱印船」。長崎の豪商・末次平蔵が奉納した絵馬である。船首には彼のトレードマーク「平」の旗が翻っている。朱印船貿易に乗り出した平蔵は、台湾・フィリピン・ベトナム・タイなどと交易を拡大し、巨万の財を築いた。

 

 これら朱印船が入港した港町に形成されたのが、日本人居住区である日本人町なのだ。形成された町としては、ベトナム中部のホイアン、タイのアユタヤ、カンボジアプノンペン、フィリピンのマニラなどがある。どこも一から植民して町を造り上げたわけではなく、既にある町の中、ないしその近郊に日本人町を造っていく方法であった。

 現地の勢力は、どこも日本人を受け入れざるを得なかった。なにしろ日本との交易は儲かるのである。例えば1580年頃のポルトガルの記録になるが、数多くあるアジア貿易航路で最も稼げたのは、インドのゴア~長崎間であって、他の航路の3~5倍は儲かるルートだった、とある。とにかく皆、日本産の銀を喉から手が出るほど欲しがっていたから、背に腹は代えられなかったのである。

 日本人町は現地の政権からは、一定の自治を与えられていた。タイのアユタヤ、そしてフィリピンのマニラにあった日本人町が特に大きく、最盛期にはそれぞれ2000人ほどの日本人が住んでいたと伝えられている。キリスト教に改宗した人も多かった。

 

Wikiより画像転載。1656年、アンドリーズ・べークマン画。バタヴィア日本人町に住んでいた、無名の日本人キリシタン。この時期、既に日本は鎖国していて帰れないはずだから、彼はジャカルタで骨を埋めたのであろう。もしかしたら、現地に彼の血を引いた子孫が残っているかもしれない。

 

 ただ、現地の権力者が懸念していた通りの事態も起こっている。日本人町の日本人たちが1612年にタイのアユタヤ朝、ソンタム王に対して反乱を起こしたのだ。この時、500人の日本人たちが王宮に乱入したが、撃退され逃げ散ったと「アユタヤ朝年代記」に記されている。この17年後、傭兵隊長山田長政が王位継承に介入して毒殺されているわけだが、こうした動きは他にもあったようだ。

 1633年になって徳川幕府は、5年以上海外に居住した日本人の帰国を禁じ、35年には東南アジアへの渡航禁止令を出す。そして41年に出島制度が制定され、日本は長きに渡って国を閉じることになる。鎖国のはじまりである。鎖国により本国からの人的供給を絶たれた各地の日本人町は、どれも17世紀の終わりころには、現地との同化が進み消滅してしまう。

 もし仮に、本国から日本人町へ人的供給を続けていたとしたならば、こうした町を拠点とした、日本による東南アジア各地への更なる植民や、発展が進んでいただろうか?そうはならなかったと思われる。

 幕府が鎖国した理由は幾つかある。1637~38年にかけて発生した島原の乱の影響が最も大きかったが、流出する一方の日本銀の流出を抑えるという目的もあったのだ。1530年代に石見銀山が本格的な採鉱を始めてからずっとこの方、日本は銀を輸出し、生糸・絹布・綿布などを輸入していた。

 戦国末期から国産綿花の増産が進んだので、綿布の輸入量は減ったのだが、江戸期に入って豪華な小袖などを求める富裕層らが登場したことにより、絹の需要が激増したのである。結果、海外からは大量の生糸が日本に流れ込んだ。消費財である生糸を銀で払って輸入しているわけだから、貿易収支的には望ましい事態ではなかった。

 幕府は初め「糸割符制」を導入し、流通と価格をコントロールしようと試みたがうまくいかず、鎖国を機に貿易相手を中国とオランダのみとした。それでも国産絹の生産が軌道に乗るまでは、銀の流出は止まらなかったようだ。

 日本人町は、しょせんは貿易拠点でしかなかった。一方、東南アジアにおける西欧勢の植民地は、単なる「点」であった貿易拠点から、プランテーション経営という「面」へと、次第に質的変化を遂げていく。先の記事で紹介したオランダのバンダ島虐殺事件も、ナツメグプランテーション経営のためであり、先住民を一掃したあと、労働者として大量の奴隷を入植させている。

 日本にはそういう発想はなかったし、またそれができる経済構造でもなかった。かつて世界の3分の1の産出量を誇った石見銀山からの銀は減産する一方だったし、代わりに輸出できる商品もない。国を閉じなければ、西欧勢による経済的な侵食を、もっと早くに受けていたのではなかろうか。

 アジアにおける西欧勢の植民地化のスピードは、比較的緩やかなものであったが、19世紀になって急に加速する。アジアにおいてこれに長らく対抗できた国は、列強の緩衝国としてのタイと、鎖国政策をとっていた3つの国――すなわち超大国・中国と、東アジアの片隅にあった朝鮮、日本のみであった。(続く)