根来戦記の世界

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本願寺の興亡 信長死闘編~その③ 信長打倒、最大のチャンス 「志賀の陣」(中)

 信長は手持ちの兵力のかなりの部分を投入し、比叡山を囲んでいる。前記事で紹介したように、兵力は織田勢3万に対し浅井・朝倉・一揆連合軍は2万ほどだったと思われる。比叡山上は、相当に込み合っていただろう。

 とはいえ、ひとつの城に1万の兵が籠ることだってあっただろうから、我慢できないほどではないのだ。問題はいつまで我慢できるか?であり、そのカギを握るのが反信長勢力の動向なのである。

 

志賀の陣における比叡山包囲網。「信長公記」によると、信長は持ち駒の殆どをこの包囲戦に投入している。主力は東側の坂本方面にあったが、西側の将軍山・八瀬・大原にまで兵を配し、京へ下るルートも遮断している。相当大掛かりな包囲戦であったことが分かるが、比叡山系は北に長く連なっているから、完全に包囲するのは不可能なのである。後の記事でも触れるが、朝倉別動隊の出撃を許してしまい、信長は痛手を食らうことになるのだ。

なお信長方として八瀬・大原方面の包囲を担当していたのは、この地に利権を持つ山本対馬守、そして蓮養坊という土豪で、配下に忍びを抱えていたようだ。包囲戦の最中は夜ごと山上に忍び入り、放火などのゲリラ活動を行った、とある。

 

 目線を変えると、信長は3万もの兵を動員し続けながらも比叡山を囲んだまま動けない、ということになる。その隙をつき、畿内各地で反信長勢力が蠢動を始める。

 まずは主戦場である南近江。「志賀の陣」にいる信長と合流すべく、横山城にいた木下藤吉郎(秀吉)や、犬上郡にいた丹羽長秀らが軍を率いて急行しているが、蜂起した一揆勢に行く手を邪魔されている。このように南近江は信長の勢力圏であったにも関わらず、自由に行動できない有様であった。

 湖南は金森や三宅の町に代表されるように、蓮如の教化を受け古くから門徒組織が発達していた地域なのである。「金森日記秡」によると実際にこの時、本願寺より金森に川那辺秀政という人物が派遣され、門徒武士や豪勇の坊主どもと立て籠もった、とある。また比叡山に籠らなかった江北・湖西の一揆勢の一部も、これに協力していたかもしれない。

 次に先の遠征で、朝倉方が一掃されてしまったかに見えた若狭国。10月、越前から朝倉勢が若狭に侵入する。途端に山県秀政・粟屋右京亮・武藤友益らの有力国衆が朝倉勢へ寝返り、若狭国は再び内戦状態に突入してしまう。

 甲賀からは、引きこもっていた六角承禎・義治親子が動き始める。少数だが兵を集めて、三雲・菩提寺城のラインまで北上してくるのだが、これにはもちろん一揆勢も味方しているのだ。

 そして摂津方面。9月末、阿波三好家の重鎮・篠原長房率いる阿波勢が、摂津に上陸してきた。そのまま織田方の摂津瓦林城と越水城を攻めて、2つとも落城せしめている(城主の瓦林三河守は討ち死に)。

 阿波勢はそのまま東進し、10月1日には野田・福島砦にいた三好残党と合流を果たすのである。信長は旗下にいる国衆・伊丹親興らに抗戦させているが、旗色はよくない。しかしそこまで兵を回す余裕がないので、任せざるを得ないのだ。

 三好三人衆は更に畠山昭高が籠る河内国・高屋城を攻め、山城国・御牧城にまで進出する勢いを見せる。和田惟正が何とかこれを食い止めたが、京郊外の西岡では、どさくさに紛れ土一揆まで蜂起する始末。幕府は徳政の要求を呑まざるを得なかった。

  

1570年9月~10月の「志賀の陣」における諸勢力の動き。水色が信長の勢力圏内のイメージである。この通り、各地で反信長運動が見られるが、特に南近江においては数多くの一向一揆が蜂起したようだ。小規模なので討ち散らすのは比較的簡単なのだが、比叡山を包囲している信長本隊には、いちいち軍を派遣して鎮圧する余裕がないのである。こうしたゲリラ的な動きはボディーブローのように効いただろう。なので、真っ先にこれを何とかする必要があった。

 

 このように、状況は反信長戦線にとって有利に推移していた。今回の動きを主導した顕如であるが、この時期も精力的に動いている。篠原長房率いる阿波勢に使いを送って盟約(同盟)の起請文を交わしている他、近江の門徒たちに「このチャンスに京へ進撃できないか」旨を打診している。また10月7日には筑後・讃岐など遠方にいる門徒たちに対して、戦いのための献金を募る書状を送っている。

 一方の信長は焦っていた。このままではジリ貧なのである。各ルートを使って和睦の交渉を行うと同時に、10月20日には叡山にいる朝倉義景に挑戦状を送っている。「これでは双方無駄に時間を過ごすだけだから、さっさと決着をつけよう」という内容だが、当然ながら朝倉方は相手にしていない。

 ただ11月に入ると、南近江に関しては勢力圏を回復したようだ。これは横山城の秀吉、そして犬上郡の丹羽長秀らの働きによるものだ。また家康も信長の要請に応じ瀬田・大津にまで出兵したようで、六角勢を破っている。

 包囲網から脱する際は、輪の最も弱い部分を狙うのが鉄則である。11月中旬、織田勢の反撃に耐え切れなくなった六角親子は、和睦を結ばざるを得ない。これで包囲網の一角を崩したことになる。

 

信長は木下秀吉や丹羽長秀に遊撃隊を率いさせ、南近江の一揆鎮圧に当たらせた。ただ秀吉のいた横山城は浅井の本城である小谷城を牽制する役割を持ち、また長秀は浅井方の重臣・磯野員昌が籠る佐和山城を囲んでいたから、ある程度の兵力は残しておく必要があった。

なので両名が率いる部隊は比較的小規模だったはずだが、精力的に動き回ってこれらを潰していったものと思われる。また長秀は連絡線確保のため、瀬田に浮橋まで架けている(彼は兵站のエキスパートなのだ)。加えて家康による援軍派遣も、相当に助かったはずだ。六角氏は再び甲賀に引き籠る。

 

 またほぼ同じタイミングで三好三人衆との和睦交渉も進んでいる。11月12日、松永久秀を仲介として、三好勢が大阪を退却することで合意が成る。21日、久秀の娘が人質として三人衆の元に遣わされ、これで惣和談(休戦)となった。三好勢は大阪から退去、阿波へ戻ることになる。

 ようやく一息つけた信長。しかしその直後、またも衝撃的な報せが飛び込んでくる。尾張の小木江城の陥落である。

 小木江城は伊勢湾の物流を守る要で、信長はここに自らの弟・信興を入れて守らせていた。伊勢一向一揆の本拠地・願証寺とはすぐ近く、木曾川で隔てられていたとはいえ、直線距離にして約5kmほどのところに位置していた。

 顕如の指令に従い蜂起した伊勢一向一揆は、まずは桑名の瀧川一益と戦ってこれを撃退せしめたのち、11月16日には目と鼻の先にあった小木江城を激しく攻めたてたのである。そして5日後の21日、天守閣まで追いつめられた信興は自害、城は陥落してしまったのであった。

 その5日後、更なる痛手が信長を襲う。琵琶湖の湖上権を握る湖賊の町・堅田において、信長与党勢力が壊滅する、という事件が起こるのである。(続く)

 

そんなこんなで包囲網から六角が脱落、三好勢の大阪退去も決まって、ようやく畿内が落ち着いたと思った矢先に届いたのが、尾張・小木江城の陥落である。畿内を勢力圏内に置いたのは比較的最近だったから、ここで一揆勢が暴れるのは分かるが、本拠地・尾張国に対する一揆の攻撃は予想外だったようだ。この城の陥落により岐阜と京との補給線を脅かされてしまったわけで、戦略的な破綻をきたす可能性があったのである。悪いことは続くもので、更に信長の元に新たに届いたのは「堅田における信長与党の壊滅」という凶報であった。