本願寺に呼応して南下を始めた浅井・朝倉連合軍。この軍勢には六角勢(少数だが)の他、顕如の指示により江北・湖西の一揆勢、更には領国・加賀から動員した、虎の子の加賀一揆勢が加わっており、総数3万にも膨れ上がっていた。織田軍でこの軍勢を阻めるのは、宇佐山城にいる森可成率いる3000以下の兵だけであった。
若年の頃から信長を支えてきた森可成は、勇猛果敢な将でもあった。浅井・朝倉・一揆連合軍の大軍を前にしても、全く怯まない。そんな彼の元に信長の弟・織田信治や、近江の国衆・青地茂綱らも駆けつけてきた。
ただでさえ勇猛な可成は、これで更に気合いが入ってしまったようで、10:1の兵力比にも関わらず城を出て、なんと坂本に陣を敷いたのである。以下、図を交えつつ戦況がどうなったか見てみよう。

9月19日、浅井・朝倉・一揆連合軍が南下してくる。これを街道上で迎え撃った可成らは、緒戦の小競り合いでなんと勝利するのである。この時、可成が率いた兵は1000ほどであったらしいが、伏兵をうまく使ったようだ。この時に戦った相手は、威力偵察的な任を帯びた先遣隊で本隊ではなかったようだが、いずれにせよ緒戦で数倍の敵に勝利したことになる。

しかし翌20日、顕如の政治工作により比叡山までもが敵に回ってしまう。延暦寺の手勢を加え更に数を増した連合軍が、本腰を入れて攻めてきたのである。これに対し果敢に戦いを挑む可成であったが、二手に分かれた敵勢に包囲され壊滅してしまう。可成をはじめ、織田信治、青地茂綱ら多くの将もまた討死にしてしまうのであった。

坂本を占領した連合軍は、勢いを駆って宇佐山城に襲い掛かる。しかし可成に与力としてついていた武藤・肥田らの将が懸命に城を守り抜いたのである。連合軍は宇佐山城の攻略を諦め、代わりに先鋒を大津まで進出させ、21日には醍醐・山科近辺を焼き払い、京に進出する構えを見せたのであった。
信長にしてみれば、断じて京を取られるわけにはいかなかった。将軍を奉じて上洛したという正統性こそが、現時点における最大の政治的武器なのである。
これがあるからこそ今回の三好三人衆との対決に、大和の松永久秀や河内の三好義継・畠山昭高・遊佐信教ら畿内の実力者たちの動員を可能とし、6万もの兵を集めることができたわけだ。
上洛して日が浅い信長の権勢はまだ堅牢ではなく、京を取られてしまうと、この体制が一気に瓦解する脆弱性を秘めていた。この時、幕府御所の警護人数は4500人ほどしかいなかったようだから、攻められたらひとたまりもない。義昭を再び流れ公方にするわけにはいかない。信長は大阪を諦め、超特急で京に帰還することにする。
目の前で退却を始める織田勢。絶好の追撃のチャンスに、本願寺も手をこまねいて見ていたわけではなかったようだ。信長が淀川の「江口の渡し」を渡河する際には一揆勢を動員して舟を隠したり、対岸から牽制させるなど遅滞行動を図っている。
信長は和田惟政・柴田勝家の二将に殿軍を務めさせた、とあるから備えはしていたようだ。それでもこの遅滞行動がうまくいって移動がモタモタしていたならば、大阪御坊から軍を出しての本格的な追撃、という展開もあり得たかもしれない。しかし信長は徒歩による渡河を強引に行い、極めて迅速に軍を向こう岸に渡してしまったので、大阪御坊は追撃を諦めてしまったようだ。
大阪の天満森の陣を引き払ったのが23日の朝だが、何とその日の深夜には入京している。そのまま休む暇もなく、翌24日に定宿である本能寺を出発、坂本に向かって進撃を始めたのである。このスピード感、如何にも信長らしいが、それにしても凄まじい強行軍である。
さて信長がほぼノーダメージでこちらに向けて急行してくる、という報を受けた浅井・朝倉・一揆連合軍は(姉川で大負けした記憶がまだ生々しかったのだろう)、決戦を避けて比叡山に上がることにする。顕如の政治的工作によって、既に連合軍サイドになっている叡山もこれを受け入れた。
坂本に着陣した信長は、比叡山を包囲する。これがいわゆる「志賀の陣」である。
比叡山を包囲した織田軍の総数であるが、信長が三好攻めを名目として集めた大軍は6万に達してはいた。しかし大和・河内から動員した松永勢や畠山勢は、地元に返さざるを得なかったようだ。義昭が出した追討令はあくまでも三好三人衆を相手にするものであって、浅井・朝倉に対するものではなかったからかもしれない。なので、この時点での織田勢の軍勢は4万ほどだったのではないだろうか。
一方、比叡山に籠城した連合軍であるが、流石に3万という大軍が丸々、山に籠ったとは思えない。特に江北・湖西の一揆勢は近場である地元に帰って、現地で反信長勢力として活動したものと思われる。ブログ主的には、叡山に籠った連合軍は2万を切るほどではなかったか?と考えたい。物理的にもそれくらいが限度ではないだろうか。
だとすると相手は2万、こちらは4万。信長はこの戦力比ならば、野戦で叩き潰す絶対的な自信があった。しかし比叡山をそのまま攻めるわけにはいかない。戦いは攻城戦に近い様相となるから、戦力比2:1では戦力的にも心もとないし、何よりも「仏教の聖地」であり、「王城の鎮守」でもある叡山を戦場にするのは、政治的な問題が大きすぎた。なんとしても山から下ろさなければいけないのだ。
そこで信長は延暦寺の僧10人を呼び寄せ、「連合軍を山から追い出せ、できないならせめて中立を。さもなければ焼き討ちする」という交渉(というか脅し?)を行うことにする。
「信長公記」には、これに対して叡山は「返事せず」、つまり黙殺という形で応えた旨が記載されているが、この前後にとある事件が起きているのが興味深い。「言継卿記」9月28日の条に「山上に送り込んだ信長方の使者のうち、梶井殿北坊三位・清水式部丞ら3名が雲母坂で殺されるという事件が起きた」とあるのだ。
使者を殺すというのは禁じ手であり、徹底抗戦を意味する行為だ。この犯行は比叡山の過激派によるものだろうか。それよりは浅井・朝倉方の手の者による犯行で、信長・延暦寺の二者間の交渉を完全に潰すのが目的だった、というのがありそうな話だ。
ただ上記のような事件がなかったとしても、両者の交渉はうまくいかなかっただろう。いずれにせよ叡山は、反信長の立場を崩すことはなかったと思われる。これは何故かというと、叡山が有していた近江の利権に関わる問題だからなのである。
近江守護であった六角氏であるが、1567年に国衆らによって署名させられた「六角氏式目」から分かるように、当主権限が制限された、極めて中央集権度の低い大名であった。近江に多くの利権を抱える延暦寺にしてみれば、とても都合のいい状態だったのである。
しかし六角氏が信長に駆逐されてしまった途端、叡山が有していた利権の多くは信長やその与党に押領されてしまったのだ。六角氏が追放された翌69年、叡山が所領の返還を求めて訴訟を起こしていることが確認できる。しかしこの訴訟は、どうもうまくいっていなかったようなのである。
そこで信長は、交渉の際に「信長の分国中にある山門領は、全て返還する」という条件もつけていたのだが、叡山にしてみれば信長の言なぞ信用できず、本質的に相容れない存在であると判断したのだろう。
その認識は基本的には正しかったのであるが、判断としては間違っていた。翌年、叡山は身を以てそれを知ることになるのである。(続く)