根来戦記の世界

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旅行記~その⑱ 北陸旅行記・五箇山 その厳しい共同生活

 江戸期の五箇山の生活は、相当厳しいものでした。

 そもそも五箇山は、深い峡谷沿いに点在する集落の集合体です。まとまった平地がほとんどなく、稲作ができません。猫の額ほどの耕作可能な土地で作られていたのは、主に粟・稗などの雑穀類でした。

 この辺りには古くは縄文時代の遺跡があることから分かるように、ただ食っていくだけでしたら生きていけるのですが、年貢を納めるとなると話は別です。米を納められない五箇山は、代わりに産業商品物を育て、それを銭に変えて銭納しなければならないのでした。

 具体的には養蚕・紙漉き、そして塩硝製造になります。これら3つに関しては次の記事で詳細をお伝えしますが、この記事ではまずは五箇山の厳しい生活ぶりについて紹介したいと思います。

 江戸期の五箇山には70の集落があり、多くの合掌造り家屋が建てられていました。ですが現存しているこうした大きな合掌造りには、1軒につき1世帯が住んでいたわけではないのです。ではどのような単位で住んでいたのでしょうか。

 まず世帯主の一家がいます。一家の長(隠居した先代も)がヒエラルキーの頂点になります。次にその子供・妻です。クラス的には彼らが一番上ということになります。その次に世帯主の兄弟姉妹がいます。彼ら・彼女らは可能なら他家に婿入り・嫁入りをします。しかしながらそれが出来なかった場合、そのまま生まれ育った家で、生涯独身の働き手として暮らしていかなければいけません。

 婚姻・分家は不可能です。五箇山では世帯の数が一定数を越えないように厳密にコントロールされていたので、分家は相当な理由がなければ認められなかったのです。悪い言い方をすると、一生飼い殺しということになります。

 しかし、彼らはまだいい方なのです。その下に丁稚奉公に来ている人たちがいました。彼らは純粋な労働力として、その家に仕え続けます。こちらも婚姻不可能でした。

 上記3つのクラスの人々が、1軒の合掌造りの家の中に共同で暮らしていました。大きな家だと50人(!)が常時暮らしていたようです。この中でも世帯主の扱いは別格で、一番いい場所に一段だけ高く造られた部屋「ちょうだ」があり、そこには他の人たちは立ち入りできないことになっていました。

 

上梨集落にある国指定重要文化財・村上家。築350年とのことで、建てられたのは何と天正年間、戦国期の終わりになります。右画像、「おえ(居間)」の後ろにある部屋が、世帯主家族が住む空間「ちょうだ」になります。唯一、壁で区切られており、一段高くなっているのが分かります。

 

 江戸期の農村では、このような形の家族制度がスタンダードでした。ただ地域によって、程度にはかなりの差がありました。一般的には環境が厳しければ厳しいほど、世帯主の権力が独裁的に強くなる傾向にあります。例えば江戸期の長野県・伊那谷南部には、悪名高い「おじろく・おばさ」制度がありました。

 

恐るべし「おじろく・おばさ」制度については、こちらのWikiの記事を参照。閉塞感が物凄いです。小さなディストピアですね。なお江戸期の農村ですが、大都市につながる幹線道路に近ければ近いほど、こうした面は弱まっていきます。これは食い詰めたら逃避先である(食っていける)都市にアクセスが容易であったからと思われます。百姓が田畑を捨て、都市に移住することを「逃散」と呼びますが、これは江戸幕府の悩みの種でした。幕府や大名の収入は、農村で百姓が生産する田畑からの米が基でした。一方、都市に住む零細商人や職人からは税を取れません。百姓が減り都市人口が増えるのは、単純に収入減につながるのです。

 

 五箇山における江戸期の民俗学的記録は少ないので、当主の後継ぎ以外の兄弟姉妹の扱いがどのようなものであったか、正確には分かっていません。ただ五箇山は「環境が隔絶されている」という点においては、長野県・伊那谷以上だったかもしれません。

 では五箇山においても「おじろく・おばさ」的存在がいたのかというと、以下はブログ主の推測に過ぎないのですが、おそらくはいなかったものと思われます――理由は次の記事で述べます。ただ五箇山のそれは、一般的な農村よりも厳しいものであったことは間違いないでしょう。

 五箇山の隔絶された環境は、もちろん地形的な要因もあるのですが、それ以上に加賀藩によって意図的に推進されていた面が強いです。流刑地であったということも、また次の記事で述べますが、軍事戦略物質である「塩硝」生産地であったことも、そうした要因に拍車をかけました。分かりやすい例が「籠の渡し」で、橋を架けること自体が禁止されていました。交通を遮断し、敢えて隔絶させていたわけです。

 菅沼集落は五箇山を代表する観光名所のひとつですが、MAPを見ると面白いことがわかります。

 

菅沼集落MAPより一部抜粋。合掌造り家屋は全部で12戸、うち9戸が住居として使っている家屋とのことです。合掌造りの定義は細かくて、一見それらしくても認められていない家屋もあるそうです。9戸のうち、江戸末期のものが2、明治時代が6、大正時代が1とのこと。明治に建てられたものが多いのは、1892年(明治24年)に大火があって多くが焼けてしまったからです。

 

 上記のMAPですが、中央にある集落より外れて、ひとつだけぽつんと立っている合掌造りの家屋があります。「羽場家(羽馬家とも)」と書かれているのがそれです。1軒だけ集落から15分ほど歩かねばたどり着けないほど、離れたところにあります。

 一見、村八分のような扱いでも受けていたのかと思ってしまいますが、そうではありません。逆なのです。表記にもありますが、この家の家屋は県の重要文化財に指定されているほど特別大きく立派な合掌造りなのです。それもそのはず、羽場家は前田藩より塩硝製造の元締めに指定された家で、村一番の裕福な一族であり、明治以降は代々村長を輩出していた家柄なのです。

 ではなぜこんな離れたところにあるのでしょう。七尾和晃氏はその著作「幻の街道をゆく」において、羽場家は菅沼の関所のひとつとして機能していたのではないか?と推測しています。

 谷沿いに集落が点在する五箇山から金沢に抜けるには、いくつかのルートがありました。菅沼より庄川上流域にある集落から金沢に行くとなると、小瀬峠を越えるのが一番の近道になります。羽場家はこの小瀬峠に向かう、唯一の道筋に建っていたのです。つまりこの家の前を通らないと、金沢に抜けられないのです(逆もまた然り)。

 この羽場家には、たまに見慣れない人が住み着いていることがありました。その人は前田藩から送り込まれた役人ではないか、と村では噂されていたようです。(続く)

 

在りし日(1970年代?)の羽場(羽馬)家。かつて温泉付ユースホステルだった時期もあったようですが、大分昔に廃業して現在は普通の住宅になっています。なので泊まれた人は大変にラッキーです。五箇山には「羽馬家」の名称がついた合掌造り家屋が複数あるので、大変紛らわしいのです。なお、もうなくなってしまいましたが、この羽場家から小瀬峠に向かう先にはもうひとつ小さな集落があって、そこの家の姓は殆どが羽馬だったそうです。集落自体が関所だったのかもしれません。

 

旅行記~その⑰ 北陸旅行記・流刑地だった秘境・五箇山

 春日山城旅行記だけで8記事になってしまいした・・・城そのものの紹介というよりも、「苧麻」と「御館の乱」についての内容でしたが。

 しかし、まだ旅行記は続くのです。もう少しだけお付き合いいただければ。

 本当はこの後、糸魚川のヒスイ海岸に行ってヒスイ拾いをしたり、川船でしかたどり着けない秘湯・大牧温泉に入ったりしたのですが、史跡とは関係ないので割愛します。富山城・増山城にもいきましたが、こちらも割愛。

 その後、向かった先は富山県五箇山です。合掌造りのある村落で世界遺産にも認定されていますが、兄弟分である白川郷のほうが有名すぎて、案外知らない人も多いと思います。ここが実に面白かったので、五箇山とそこにまつわる話を幾つか紹介させていただきます。

 まず白川郷五箇山の位置関係はこの通り。

 

御覧の通り、非常に近いです。距離にして約20km。車で30分くらいで互いにアクセス可能です。江戸期の五箇山庄川流域にある、深い谷間に点在する70の集落から成っていました。

 

 同じく庄川沿いにあるこの2つの地ですが、使われる方言・味噌・民謡など、文化的には異なるところが多いとのことです(宿泊先の方に教えていただきました)。これは何故かというと、白川郷は幕府の直轄地である天領五箇山は加賀の前田家の領地だったからなのです。

 日本に限らず世界的にそうなのですが、文化というものはその国の各地方において、(源流があったとしても)大体17~18世紀以降に成立したものが多いのです。日本においては江戸期がまさしくその期間でした。

 この2つの地域、元々は同じような文化的土壌であったものの、政治的理由で国境が引かれてしまい、隔絶されてしまったまま250年経過したことで、文化的差異が生まれた、ということになります。興味深いですね。

 さてこの五箇山、非常に山深いところです。道を通すのも大変で、戦後になっても交通アクセスは極めて悪いままでした。たどり着くには、なにしろ険しい山道しかないのです。1980年(昭和56年)に北陸を襲った歴史的雪災(これを「五六豪雪」と呼びます)では、雪が溶けるまで他地域と半年間も断絶したとのことです。

 五箇山トンネルが開通したのが、ようやく1984年になってからなので、開発が遅れて合掌造りの家も比較的多く残った、というわけです。

 

今回の旅では相倉・菅沼・上梨の3つの集落を訪れました。泊まったのは上梨集落にある合掌造りを改築した、合掌民宿「弥次兵衛」さんです。右は1921年、大正時代に撮られた上梨集落の写真ですが、江戸時代とそう大きく変わっていないと思われます。指さしているところが、今回泊まった合掌造りの家屋です。残念ながら、現在の上梨集落には合掌造りの建物はあまり残っていませんが、「弥次兵衛」さんは残っているその数少ない建物になります。

 

弥次兵衛さんの内部。実に快適でした!もともとは格式も高く、重要文化財クラスの建物だったのを、文化財指定を断って(指定されてしまうと改築できなくなる)、なるべく手を入れずに、しかし快適に過ごせるように改築したとのことです。

 

とても美しい集落の景色と、合掌造りの家。白川郷と違って五箇山は平地が少ないので、集落の規模はかなり小さいです。右の写真は菅沼集落です。

 

五箇山の谷間ですが、どれくらい深いかというと、こんな感じです。川に沿って延々とこんな感じの断崖が続くのです。向こうにある鉄橋で、何となく高さがイメージできるでしょうか。驚くべきは江戸時代には、川に1本も橋が架かっていなかったのです。ではどうやって谷を渡ったかというと・・・

 

なんと対岸までぶどう藤で編んだ縄を張り、それに通した籠に乗り、縄を手繰って渡った、とのこと。これを「籠の渡し」と呼びます。左は明治時代に撮られた写真です。右はイメージ図。

 

1764年の記録によるとこの「籠の渡し」、五箇山山中に13ヶ所ありました。藩は金を出してくれないので、村が自腹で架けていたとのこと。中には夏には切り落として、秋になったら架ける冬専用の「籠の渡し」もありました。ちなみに、途中で落ちる事故もよくあったようです。

 

再現された「籠の渡し」。下は断崖絶壁、川風に吹かれるとひどく揺れて、大の男も肝が縮んだようです。ちなみに蓮如五箇山を訪れた際には、これに乗って川を渡ったようで、「蓮如証人絵図伝」にもその場面を描いたシーンが残っているとのことです。

 

 このように隔絶された地域だったため、加賀の前田藩は五箇山流刑地として定めていました。江戸期の五箇山は70の集落がありましたが、うち流刑地に定められていたのは7ヶ所。上梨集落はそのうちの一つでした。

 流人の殆どは政治犯や軽犯罪者で女性もいた、とあります。待遇はそこまで悪いものではなく、「平小屋」という建物で生活し、村への出入りも自由でした。藩から給金まで支給されており、村人からは「~殿」と呼ばれ、暮らし向きも悪くなかったようです。ただし、たまに来る重罪人は別です。彼らは「御縮小屋」と呼ばれる独房のような小屋に閉じ込められ、そこで生活していました。

 

上梨集落にある、復元された御縮小屋。重罪人は坂の途中にある、わずかな建坪に建てられたこの小屋の中から、出ることは許されませんでした。記録によると、1667年から1868年までの201年間で、五箇山に送られた流人の数は判明しているだけで159人。うち赦免されたのが55人、病死が56人、自害が4人、逃亡が11人、明治維新になって解放されたのが8人、とのことです。残りの25人は、五箇山で天寿を全うしたのでしょうか?それにしても逃亡が11人もいたのに驚きます。どうやって川を渡ったのでしょう。

 

食事を出し入れする穴から覗くと、中には人形が。造形もちょっと特徴的だったので、ビビりました。ちなみにこの小屋の中に更に檻を作って閉じ込める「禁錮」という刑もありました。長生きできる環境とは思えず、冬を越すことはできなかったのではないでしょうか。結果的に重罪人は全て、病死56人にカウントされる運命にあったものと思われます。

 

 なお自害した流人のひとりに「お小夜」という女性がいました。無許可で営業していた出会茶屋で働く遊女でしたが、茶屋が摘発された結果、働いていた遊女たちは全員、輪島に流されることになったのです。ところがお小夜だけは輪島出身だったので、それでは単なる里帰りになってしまうとのことで、彼女だけが五箇山に流される羽目になったのです。

 このお小夜は妓芸に秀でており、小唄や三味線などをこの五箇山の地に広めました。現在、五箇山無形文化財として残っている「麦屋節(むぎやぶし)」は、彼女が広めたものと伝えられています。まさか自分の広めた謡が伝統文化として国に認められるとは、思ってもいなかったでしょうね。

 しかし彼女は、村の若者との間に子を成してしまいます。流人と村人との間で通婚することは禁止されており、悲嘆した彼女は川に身を投げて死んでしまったのでした。(続く)

 

旅行記~その⑯ 北陸旅行記 「御館の乱」終焉も、深い傷を負った上杉家

 北条勢による坂戸城攻略は失敗し、成すことなく関東に軍を返してしまいます。景虎にしてみれば、これで来年の雪解けまでは援軍の期待はできなくなったのです。状況はようやくにして、景勝に有利になりました。

 10月24日、勢いに乗った景勝勢は春日山城から出撃します。御館からは北条(きたじょう)景広と本庄秀綱が出撃、これを迎え討ちますが、100人余りが討ち取られ、旗指物まで遺棄して退却という有様。以降、景虎は御館に逼塞することになります。

 景勝にしてみれば、このまま御館を攻めたいところでしたが、手持ちの兵が絶対的に足りません。そこで御館の補給線を断つべく、琵琶島城方面の攻勢を強めます。琵琶島城は鵜川を通じて柏崎の港とつながっていて、物資の集積地点となっていました。ここから海路を使用して直江津へと、御館の補給拠点となっていたのです。

 

補給路を巡る戦い。赤が景勝方、黄が景虎方の城です。11月に入り、景勝は旗持城の佐野清左衛門尉に琵琶島城への攻勢を命じます。これに対抗して景虎も琵琶島城に本庄秀綱を派遣しますが、以降は補給が滞りがちになってしまいます。なお春日山城坂戸城は松之山街道を通じて繋がっていますが、景虎方の高津城がそれを邪魔する形となっていました。

 

 年が明け1579年正月、景勝方は松之山街道を遮断する位置にあった高津城(大間城?)を陥落させます。これによって景勝の本拠地・上田庄と春日山城との連絡がスムーズになりました。補給路を脅かされる景虎方に対して、本拠地との連絡手段を回復した景勝方。形勢は完全に逆転したのです。

 

高津城の位置が今ひとつ比定できませんでしたが、おそらく奥高津の辺り、大間城付近にあったものと思われます。ここが陥落したことで、春日山と坂戸との連絡がより容易になりました。

 

 翌2月1日、ケリをつけるべく遂に景勝は御館を攻撃します。御館からは景虎方の軍事司令官である北条景弘が、自ら出撃してきます。海風が激しく吹き、雪が溶け足元が泥でぬかるむ中、未明より繰り広げられた戦いは、景広の戦死という形で決着がつきます。陣営の大物武闘派であり、精神的支柱でもあった彼が死んだことは、景虎にとっては大きなダメージでした。

 琵琶島城への圧力は続き、御館には物資の補給が滞っていました。3月2日、琵琶島城から何とか送り出した補給船団は直江津近郊で景勝方に補足され、壊滅してしまいます。これが決定打となりました。勝ち目はないと判断した兵が、御館からどんどん逃亡していきます。

 

景虎の重ねての要請に応じ、琵琶島城の前嶋修理亮は自ら船団を仕立て上げ、直江津に向かいました。しかし船団は景勝方の警戒網に補足され、船頭・水夫らは悉くなで斬りにあってしまいます。前嶋も戦死。雪解けまで何とか持ちこたえ、北条勢の到着を待つのが景虎の取れる唯一の方法でしたが、これで希望はなくなりました。なお琵琶島城そのものも、この戦いの後すぐに開城降伏したものと思われます。

 

 3月16日、御館に対する最後の総攻撃が始まりました。景虎は少数の兵に守られ、鮫ヶ尾城に落ち延びます。景勝の妹でもある、景虎の妻・清円院とその嫡男・道満丸、そして上杉憲政は御館に残りました。いずれも景勝の縁者ですから、助命を期待したのでしょう。しかし一行は春日山に輿で送られる途中、景勝の指示により惨殺されてしまったのでした。景勝は自らの妹、甥、義理の祖父を殺したことになります。

 道満丸は元来、上杉家の正統な跡継ぎではありましたが、この時すでに景勝は武田勝頼の妹を正室に迎え入れています。景勝にとっては、もはや邪魔なだけの存在でした。事ここまで至ってしまっては、仕方のないことだったでしょう。

 景虎が入った鮫ヶ尾城も、3月24日には陥落。景虎は正午に切腹し、最後まで付き従った郎党たちも、その悉くが討ち死にしたのでした。享年26。こうして上杉家を真っ二つに割った、お家騒動「御館の乱」は幕を閉じたのでした。

 

春日山城に登った後、御館にもいきましたが何も残っていませんでした。更にその後、鮫ヶ尾に行きました。鮫ヶ尾城は標高185mほどしかありませんが、それなりに剣俊です。武田家の侵攻に備えて、整備されなおした城でした。

 

鮫ヶ尾城本丸跡。景虎はここで切腹したものと思われます。最後は南の方角、生まれ故郷の関東に続く空を見上げたかもしれません。

 

頂上から平野を見下ろします。最期には景勝方の軍勢が、びっしり城を囲んでいたと思われます。御館・春日山城直江津が遥か遠くに見えます。鮫ヶ尾城主は、乱の当初から景虎と共にいた堀江宗親ですが、江戸期の文献には「最後に裏切った」と記載されているようです。ただ一次史料では、宗親の裏切りは確認されていません。堀江一族はこの戦い以降、歴史から姿を消してしまうので、最後まで付き従ったという説もあります。一族の滅亡と共に廃城になってしまったので、遺構は比較的よく残っていました。

 

 ただ景虎が死んだからといって、事態が治まったわけではありません。国内の反景勝勢力の抵抗は続いたのです。特に乱のきっかけをつくった三条城の神余親綱や、栃尾の本庄秀綱は徹底抗戦の姿勢を崩しませんでした。両者の鎮圧が終了したのは、これより1年以上後の、翌80年6月のことでした。

 この内乱は上杉家に深い傷を残しました。謙信以来の勇士たちの多くが倒れ、その勢力は大きく後退します。また景勝は中央集権志向であったことから、そうした考えに則って戦後処理を行ったのですが、これに納得がいかない者たちは多かったのです。

 その急先鋒が重臣新発田重家です。一族挙げて景勝に協力し、軍事的にも功績があったにもかかわらず、恩賞なしの本領安堵だけ。81年6月、新発田重家は同じように不満を抱えていた一部の揚北衆を誘い、挙兵します。この時、彼のバックにいたのは信長でした。この「新発田重家の乱」は7年の長さにも及ぶのです。一方、西からは信長がじわじわと押し寄せてきます。このまま何事もなければ、上杉家は滅んでいたのは間違いないでしょう。

 そんな中、1582年6月に「本能寺の変」が発生します。これで九死に一生を得た景勝は、豊臣政権に従属する形で生き残ることに成功するのでした。

 それにしても景虎が負けたのは、ひとえに実家である北条家の責が大きいと思われます。氏政はとにかく動きが鈍い!佐竹攻めの最中だったので、武田家に支援要請したまではまあいいとしましょう。しかし肝心の佐竹攻めは、6月7日には終了しているのです。

 その後、なにゆえ越後に急行しなかったのでしょうか。東上野において景虎派と景勝派の争いがあったので、その関係調整に手間取った、ということのようですが、それも7月17日には決着がつき、東上野は完全に景虎方になっています。

 なので、同月中には厩橋城の北条(きたじょう)勢、沼田城の河田勢らが主体となって、坂戸城を攻撃しています。この城攻めには、北条氏照・氏邦ら率いる北条本隊も後から合流してはいます。

 北条本隊が参戦した正確な時期が分からないのですが、事態のこう着状態からみて推測するに、8月に入ってからではないでしょうか。坂戸城を攻める際に重要な位置にある、樺野沢城を落としたのが9月に入ってからです。いくらなんでも遅すぎます。しかも氏政本人は、最後まで出陣しなかったのでした。

 要するに、全てを勝頼に丸投げしていたわけです。勝頼にしても「何で俺が・・・」といい気分はしなかったでしょう。氏政本人がもっと早く大軍を率いて急行していれば、坂戸城が陥落していた可能性が高く、御館の景虎と合流することもできたでしょう。そうなると勝頼も軽々に和睦仲介を続けることはできず、そのまま景虎が勝っていた可能性が高いのです。

 氏政はこういう判断ミスが多いような気がします。慎重になりすぎて決断を先送り、結局は虻蜂取らずで、何ら益することなく終わるパターンです。「三増峠の戦い」にしてもそうですし、最後は「小田原評定」で北条家を滅ぼしてしまう羽目になるのでした。(続く)

 

関東戦国史と御館の乱 ~上杉景虎・敗北の歴史的意味とは? (歴史新書y) | 伊東 潤, 乃至 政彦 |本 | 通販 | Amazon

御館の乱」について書かれた決定版――といっても、同じネタについて書かれた本は、殆どないのであるが・・・これが素晴らしく分かりやすく、また面白いのである。謙信が考えていた後継者は景虎か景勝か?という議論は昔からあるのだが、道満丸に注目した人はこれまでになく、乃至氏のオリジナルなのである。当ブログの一連の記事もこの本が元ネタであり、是非に読んでほしいのだが、残念ながら絶版なのである・・・

 

謙信越山 (jbpressbooks)

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代わりと言ってはなんだが、同じ乃至氏による名著を紹介したい。謙信の関東侵攻について書かれた「謙信越山」。謙信の強さの秘密が分かる。こちらも名著である。

 

信長そして謙信、2人の目線から見た戦国時代。なお乃至氏は在野の日本史研究者である。ここまでレベルの高い本を在野の人が書くことに、日本の史学会の豊かさを感じる。

 

旅行記~その⑮ 北陸旅行記 春日山城での死闘と、形勢逆転を狙う景勝

 御館(おたて)において6000の兵を集めた景虎。一方の景勝は城を占拠したはいいものの多勢に無勢、撃って出ることができません。

 5月17日、景虎勢は遂に春日山城に向けて進撃を始めます。大将である桃井伊豆守率いる軍勢は全く抵抗を受けることなく、春日山城の千貫門まで達しました。しかしここで景勝勢の待ち伏せに会い、手ひどい反撃を受けるのでした。

 

 

戦いがあった「千貫門」は現在の大手道にはなく、搦め手にあたる道にあります。実は戦国期には、この搦め手が大手道として使用されていたようなのです。春日山が廃城になったのは1607年ですが、今ある大手道はそれまでのどこか、1580~1607年の間に新たに造成されたということになります。いずれにせよ、この戦いが春日山城にて唯一発生した戦闘ということになります。

 

 退却しようとするも大手道は狭く、手間取っている間に多くが討ち死にしてしまいます。谷底に落ちた者多数、桃井伊豆守まで戦死してしまったのです。景勝にとってこれは大きな意味のある戦いでした。ここで負けていたら、後のない景勝は間違いなく終わりだったでしょう。緒戦の小競り合いで勝利したことで、一息つけたのです。

 しかし情勢は予断を許しません。不利な状況は変わっていないのです。一方の景虎は本国関東に助勢を要請しますが、折り悪く北条氏は佐竹氏を滅ぼすべく結城城を囲んでいた最中でした。とにかく腰の重い氏政ですが、この佐竹攻めも長い準備をかけて行った遠征です。予定外の計画を嫌う氏政は、この遠征を中止してまで助けにいくという決断を下すことはできなかったのです。代わりに同盟関係にあった武田勝頼に、助力をお願いすることにしました。

 要請に応じて勝頼は越後との国境に接近、春日山城を目指し北上してきます。景勝の与党である上田庄は、背後にある景虎方の沼田・厩橋両城に、また揚北衆は、これまた景虎の要請により軍を起こした蘆名勢に牽制され、動けません。景勝は敵中に孤立したまま、更に武田家を相手にしなければならないのです。どう考えてもオワコンでした。

 しかし6月7日、景勝は逆転の一手を打ちます。勝頼に使者を送り、「東上野および信濃国飯山城の割譲、そして1万両の贈与」を申し出たのです。この1万両は、春日山の金庫にあった金だと言われています(苧麻と鉱山で稼いだ金でしょうか)。

 信長・家康との死闘で武田家の財政は極めて悪化しており、この申し出は勝頼の目には極めて魅力的に映ったのでした。また景虎家督を手に入れた場合、上杉家は北条家と一体化とまではいかないまでも、極めて親密な関係性になるはずです。武田・上杉・北条の「新・三国同盟(三和一統)」は勝頼の目指すところでもあったのですが、いくら何でも北条に有利すぎるだろう、という思いもあったのです。

 武田軍の動きが、川中島海津城で止まりました。そこから先に進みません。迷っているのです。そんな勝頼の決断を後押しすべく、景勝は6月11日に春日山から出撃しました。勝頼を味方につけなければ敗北は必至でしたから、ここが勝負どころなのです。この日、迎撃に出てきた景虎方と激戦が繰り広げられました。

 この居多ヶ浜(こたがはま)における戦いで、景虎方の一騎当千の勇者・上杉十郎、そして平賀左京之介が討たれます。景勝方の完勝です。翌12日にも再び出撃、御館城下に放火し周辺の数千戸を焼き払ったのでした。景勝はとにかく戦さに強い!

 彼は幼少期から上田衆を率いて激戦区を渡り歩いています。実戦の経験、実績共に豊かで、そのキャリアは景虎の比ではありませんでした。謙信の旗本たちの多くが景勝についたのも、こうした面が評価されたのかもしれません。亡き謙信の強さは伝説的なものでしたが、劣勢であるはずの景勝が緒戦に連勝することで、「我こそが謙信の跡を継ぐ資格があるのだ」ということを示したと言えるでしょう。

 意気上がる景勝方。景虎方は逆に、独力での春日山攻めを諦めてしまいます。これ以上、戦いを重ねても失態が続くばかりだ。武田勢がすぐ近くにいるわけだから、それと呼応して城を攻めればいい――景虎のそんな思惑は、しかし手ひどく裏切られることになります。

 6月29日、海津城からようやく越後に入った勝頼は、春日山城そして御館からそれぞれ1里しか離れていない木田の地に陣を構えますが、そこから動きません。そのまま双方を牽制する構えを見せたのです。

 勝頼は景勝の提案をのみ、景勝・景虎間の和睦斡旋を行うことにしたのです。とりあえず両者を和睦させ、景虎しいては北条氏との関係性を悪化させずに手を引く。その後に景勝が勝ってくれれば領地が手に入ってラッキーだし、いずれにしても1万両はすぐにGETできるわけです。景勝の見事な外交的勝利でした。

 ただ和睦交渉と言っても、景虎にはそんなつもりは全くないわけで、実質的には勝頼と景勝が勝手に進めた交渉だったようです。納得できない景虎は、交渉の最中に景勝方にゲリラ戦を仕掛けては、撃退されています。少しでも立場を有利にしようとしたのでしょう。しかしそんな動きもむなしく、8月29日に勝頼は(貰うものはしっかりと貰って)意気揚々と信濃に引き揚げてしまったのでした。

 景虎の頼みの綱の、武田勢がいなくなってしまいました。戦闘ではどうも分が悪く、景勝には勝てません。最も頼りになるはずの北条家は何をしているかというと、この頃ようやく北条氏照・氏邦ら北条勢が北上、先行していた厩橋城の北条(きたじょう)勢・沼田城の河田勢と合流し、坂戸城に襲い掛かっています。

 越後に入るには三国峠を越さなければなりません。峠を越したすぐ先にあるのがこの坂戸城で、先に進むには何としてもここを落とす必要があるのです。かなりの激戦が展開されたようですが、ここは景勝の本拠地です。城方の戦意は極めて高く、北条勢の攻撃を寄せ付けませんでした。坂戸城はひたすら耐えます――時間を稼いでいるのです。そして10月、遂にその時が訪れました。初雪です。

 雪が降ると、三国峠は通れなくなるのです。北条勢は越後侵攻を諦めて、関東に引き返します。景虎は見捨てられたのでした。(続く)

 

旅行記~その⑭ 北陸旅行記 景勝 vs 景虎 それぞれについた上杉家中らの思惑

 1578年5月、ついに両者の間で戦端が開かれます。上杉家は景勝派と景虎派に真っ二つに割れ、国中で争い始めたのでした。

 上杉家中の武将たちや越後の国衆らは、何を拠り所にしてそれぞれの陣営に味方したのでしょうか。双方の陣容を見てみましょう。

 まず景勝の利点は何といっても、その血筋になります。由緒正しい上田長尾家を率いる身であり、家格という点ではその資格は十分にあります。しかし利点といえばそれくらいで、数多くの問題を抱えていました。

 まず第一に、前記事で紹介したように中央集権志向であったこと。一国を率いる指導者としては、全くもって正しい思考なのですが、既得権益を侵されるのを恐れた多くの家臣たちがこれを嫌ったのでした。

 第二に、亡き謙信の方針を踏襲することを明言していたこと。謙信の本懐は関東管領として彼の地を統べることでしたから、景勝政権になった場合、関東への遠征を再び行うことになります。本領を越後に持つ家臣たちは、労多くして益のない関東出兵には、心底うんざりしていたのです。

 一方、景虎は北条家からやってきた「よそ者」です。そういう意味では上杉家の家督を継ぐ正統性は薄いのですが、景虎政権になった暁には間違いなく、北条家との関係が改善することは見えていました。この点が有利に働いたのです。

 それぞれについた家臣と、その居城を見てみると面白いことが分かります。まず謙信政権下で上杉家を支えた重臣たちの多くは、景虎についています。彼らは特に関東遠征の際には、主力として駆り出された者たちでもありました。例えば北条氏との最前線にいた厩橋城の北条(きたじょう)家、沼田の河田家などですが、彼らは越相同盟の推進派でもあったのです。

 一方、景勝についたのは、まずは上田長尾家が治める地・坂戸城がある上田庄。ここは景勝の実家なので当たり前なのですが、その他としては謙信の旗本たちの多くも景勝についています。旗本という立ち位置から見るとやはり、上杉家の血統というものは無視できない要因だったのでしょうか。そして越後北部、揚北(あがきた)衆を中心とした勢力もまた景勝につきました。彼らは独立性の極めて高い集団で、外様扱いの国衆たちでした。

 

御館の乱」発生時の景勝方(赤色)・景虎方(黄色)の居城イメージ。双方の代表的な勢力の居城を丸で示してあります。城の配置はそこまで正確なものではないので、ご注意を。御覧の通り、春日山周辺の上越から中越にかけて、そして上野国は概ね景虎方についています。

景勝についた揚北衆ですが、その名の由来は阿賀野川より北にいるので「阿賀野北衆」、これが転じて「揚北衆」となったようです。上杉家の軍事力の30%ほどを占めるほど強力な集団でしたが、地域に根差した土俗的勢力であり、揚北衆同士でも仲が悪く、互いに争っていました。

彼らの独立性を担保したのが、揚北地方の地形です。清水克之氏の著作「室町ワンダーランド」によると、中世の阿賀野川北岸一帯は細かい河川が入り組んだ、大小の潟湖がそこかしこにある、広大な湿地帯だったとのことです。(そもそも新潟という地名からして湿地帯なわけです。その名残が新潟市にある福島潟です)。またこんな地形だったので稲作が振るわず、代わりに苧麻の栽培をせざるを得なかった、という面もあるようです。ここと同じような地形といえば、戦国期の伊勢長島辺りが近いかもしれません。伊勢長島もまた河川の入り組んだ地形で、彼の地の制定に信長が苦労したのは有名な話です。

 

 揚北衆はなぜ景勝についたのでしょう?これまで揚北衆は外様扱いでした。強力な戦闘能力を持ちながら、その独立性ゆえに上の言うことを聞かず、謙信もひどく手を焼いていることが記録の端々から垣間見えます。そんな彼らにしてみれば、これまで厚遇されていた重臣たちと同じ陣に属したところで、外様扱いは変わりません。なので敢えて逆張りした、ということのようです。

 さて景勝は春日山を占拠したはいいものの、その周辺はほぼ景虎方で占められてしまっています。上田長尾氏の本拠地である上田庄から軍を呼び寄せようにも、その背後にある上野国の沼田・厩橋景虎方なので、軽々には動けません。揚北衆にいたっては、春日山城にたどり着くには中越を突破する必要があります。

 一方、景虎春日山城から目の鼻の先にある、上杉憲政の居館である御館に入り、そこを本拠と定めました。御館は幅約20mの堀で囲まれており、平城にしては守りも固く、5つの郭で構成されていました。近くには直江津の湊もあり、流通拠点としても重要で、春日山を経済封鎖する狙いもあったものと思われます。

 景虎は早速、実兄である北条氏政に援軍を要請します。また周辺の勢力の多くも景虎方であったため、瞬く間に6000もの兵力が御館に集まってきたのです。景勝は春日山城に閉じ込められてしまった形になります。

 この時に景勝が如何ほどの兵力を擁していたかは定かではありませんが、そこまで多くなかったのは間違いないようです。状況は絶望的でした。ここから景勝は、如何にして逆転の一手を打っていったのでしょうか。(続く)

 

清水克行氏の傑作歴史エッセイ集。「室町時代に生きた、比較的無名の人々を紹介する」というマニアックさだが、これが物凄く面白い!堅田の町を舞台にした「危険な船旅」などは、爆笑してしまう面白さである。他にもこんな人物がいたのか!と驚かされる「乞食の門次郎」や、室町時代の能のスピードは現代の倍以上ではなかったか?と考察する「能(NO!)倍速視聴」など、大変興味深い内容が満載である。買って損はないので、是非読むことをお勧めする。

 

旅行記~その⑬ 北陸旅行記 上杉氏の居城・春日山城 「御館の乱」が勃発した理由とは?

 1578年3月9日に倒れた謙信は、意識が戻らないまま4日後の13日に死亡してしまいました。謙信は前年の9月23日に「手取川の戦い」で織田家の北陸方面軍を率いる柴田勝家を撃破しています。今年は雪解けを待って新たに軍を起こし、上洛ないしは関東平定の遠征を行おうとしていた矢先でした。

 当然のことながら遠征は中止、すぐに葬儀が行われました。出棺の際は、その左右を景勝・景虎らが固めており、この時点では上下の区別なく葬送の儀が行われていたことが分かります。

 この後の流れですが、まずは通説の紹介から。

 葬儀の後の24日前後、景勝がクーデターのような形で本城を占拠、金蔵を確保します。翌々5月に入り、各所で小競り合いが発生。景勝勢は本城から二の丸にいた景虎に対して鉄砲を撃ちかけます。高所からの攻撃に耐え切れず、景虎春日山城から退去、上杉憲政の居城・御館へ身柄を移し、本格的な戦端が開かれる――という流れになります。

 

分かりづらいですが、左の画像は本丸から見た、二の丸・三の丸です。青色が本城部分で、その右下に見える赤色が当時の二の丸、景虎屋敷があった部分になります。本城との高低差は精々7~8mしかありませんが、当時は板塀や櫓もあったでしょうから、鉄砲を撃たれたとしたら相当厳しかったでしょう。ただ逆に言えば景虎は二の丸までは占拠できていたわけで、撤退するのは悪手だったのではないでしょうか(これに関しては後述します)。右の画像は頂上から見た上越の町並み。素晴らしい景観でした。見ての通り、柵がないのが素晴らしいのです。座ってゆっくり景色を鑑賞、当時の気分に浸れました。

 

 これに異論を唱えているのが、乃至政彦氏です。以下、乃至氏の説に則る形で、御館の乱の推移を見ていきましょう。

 そもそも景勝・景虎共に、乱に際して家臣らに送った多くの書状が残っているのですが、双方ともに「不慮の事態であった」旨を述べているのです。つまり突発的な事態であったことが伺われます。この突発的な事態とは何を指すのでしょう?

 謙信の葬儀が終わり、景勝は道満丸を引き取ろうとしました。景勝の次に当主になるのは道満丸なわけですから、当然の話です。しかし景虎はこれを拒否したのではないか、というのが乃至氏の説です。

 道満丸はこのとき8歳、成人までは手元で育てたい――これが景虎の考えでした。ここで議論が沸き起こりましたが、双方引かず平行線をたどりました。ですがまだこの時点では大事にはなっていません。そこでとりあえず景勝は実城へ入り、景虎は道満丸と共に春日山を退去、城下の屋敷へ移りました。これが24日のことです。この論だと景虎は、早い段階で二の丸を平和裏に退出、そもそも銃撃戦は起こらなかったことになります。

 跡継ぎが景勝であったことが謙信の意志であったとするならば、景勝の実城入りは自然なことです。事実、実城入りした直後に景勝は数多くの家臣と世代交代の贈答を交わしていることから、この時までは大きな問題は発生していなかったようなのです。

 事態が動いたのは、4日後の3月28日です。会津国境にある三条城を任されていた重臣・神余(かまなり)親綱が春日山城に了承なく、近在の領民から人質を集めたという報告があがってきたのです。

 これを問題視した春日山は親網に詰問の使者を送りました。これに対して親綱は「先年、会津口でこうした動きがあった時、備えとして証人(人質)を集めたことがあります。今回も非常事態であったため、同じことをしたのです」と返事をしています。

 実は謙信の死去に伴い、会津蘆名盛氏が3月26日に家臣の小田切氏を使って上杉領へ侵攻するよう指示しているのです。会津口を守る親綱はいち早くこうした兆候を察知、近在より人質を集め防衛体制を固めようとした、ということになります。問題はこれを春日山の承認なく、現場の判断でやってしまったことにありました。

 実のところ、謙信在任中であるならばこうした動きは黙認され、大事にならなかったかもしれません。越後における上杉家の統治は、中央集権度が極めて低い前時代的なもので、家臣らの領地における独自性もまた強かったのです。過去記事で紹介したように、そもそも謙信自身が古い考え方をする人間でした。

 そんな土地柄を神懸ったカリスマ性で統治、強国で在り続けたところが謙信の凄いところで、彼が英雄たる由縁なのですが、新しく家督を継いだ景勝の考え方は違ったのです。世の中の趨勢を若い感性で観察した結果、このままではいけないという危機意識を持っていたのでしょう。近畿にて破竹の勢いを見せる織田家のごとく、上杉家も中央集権化を図る必要がある――景勝はこう考えたわけです。

 そんな景勝にしてみれば、勝手な行動をした神余親綱を許すことはできなかったのです。立場的には詰問せざるを得ず、景勝は「(二心ないよう)血判を差し出せ」とまで要求しています。これは親綱にとっては屈辱的なことだったようで、断固拒否しています。

 こうしたやりとりを続けている中で3月末、実際に蘆名氏による侵攻が開始されたのです。蘆名の軍は撃退され、4月16日には敗北し撤退します。親綱にしてみれば「ほら見たことか」と、遺恨が残る状況となりました。

 このいざこざの仲介に入ったのが、関東から逃れてきた元関東管領にして、形の上では謙信の養父でもある、上杉憲政でした。三条には憲政の領地が飛び地のように配置されていたので、神余親綱とも近しい関係性にあったようです。しかし景勝の態度は頑なで、一歩も譲る気配がありません。

 5月1日には、両者の関係は「手切」となります。これは憲政の顔を潰す行為でした。こうした中央集権を目指す景勝の姿勢に対して、多くの家臣たちが反発します。彼らにしてみれば既得権益を侵す独裁者なわけですから、この事件を契機に反景勝的な派閥が急遽、形成されていったのです。そうした反景勝勢力が求めていた旗印に相応しい人、それが景虎だったのでした。

 景虎にしてみても、こうした独裁志向にある景勝という人物に、果たして大事な我が子を預けられるのだろうか?そんな不安を抱いていたところ、上杉憲政・本庄秀綱・神余親綱らを中心とした反景勝勢力の「上杉家をあらぬ方向に導こうとする景勝を、引きずり下ろす必要がある」という強い要請を受けたのでした。

 景虎自身に強い野心があったかどうかは分かりません。しかし事ここに至ってしまっては、本人の意志とは無関係に、周りが勝手に進めてしまいます。景虎家督相続に名乗りを上げざるを得なかったのです。

 こうして上杉家の行く末を決める、「御館の乱」が発生したのでした。(続く)

 

旅行記~その⑫ 北陸旅行記 上杉氏の居城・春日山城 謙信が考えていた、後継ぎ構想とは?

 北条家が無断で武田家と和睦したことを聞いた謙信は激怒、氏政に手切れの一礼を送りつけました。

 その怒りたるや凄まじく、同盟破棄の5年後の1576年のことになりますが、将軍・足利義昭が(彼の生きがいである)第三次信長包囲網を更に強化するために、改めて上杉・武田・北条の「三和統一」進めたことがあります。

 その時、謙信は「上意であれば武田との和睦には応じよう。しかし北条とは当家が滅亡しようが、将軍に勘当されようが、絶対にありえない」と言って断っています(包囲網自体は成立)。このように謙信は筋の通らない、つまりは「己の価値観に反する振舞い」を最も嫌う人でした。

 その怒りの矛先は、氏政の実弟である景虎にも向かったのでしょうか。謙信は、後に氏政のことを「数枚の誓詞を反故にし、弟である三郎ならびに、代々忠信仕ってきた遠山親子を差し捨て、父・氏康の遺言に背いた~」と批判しています。

 この批判のポイントは、赤い太字部分にあります。つまり謙信は、「氏政は三郎(景虎)を見捨てた」と断言しているのです。責任は氏政にあって、景虎にはない、と考えていたことが分かります。

 謙信の美意識からしてみれば、既に上杉家の人間となった景虎自身には何の落ち度もなく、どちらかというと被害者と考えていた節があるのです。そんなわけで同盟破棄直後も、景虎を「後継者第一位」の座から外すつもりはなかったものと思われます。

 しかしながら、関東の情勢はそれを許しませんでした。謙信の生涯の目標は関東管領として、かの地を静謐に導くこと。越相同盟が破れた今、主戦場は再び関東になったのです。にも関わらず跡継ぎが北条家出身の景虎である以上、世代が交代した時に上杉家の方針が親北条に改められる可能性があります――というか、間違いなくそうなります。関東の国衆たちにしてみれば、上杉家にどこまで付き従っていけばいいのか分からないわけです。

 事実、越相同盟が破綻して以降、関東における上杉家の影響力後退は避けられませんでした。その象徴が北関東の水運のハブであり、氏康をして「一国を取ることにも代えられない」と言わしめたほどの要衝・関宿城です。1574年11月、この関宿城が北条氏に降伏開城してしまったのでした。

 

関東諸城の所在地をgoogle mapに落とし込んだもの。中央にあるのが関宿城。江戸川と利根川の交差点に位置しています。しかしこれは江戸期に行われた河川付け替え工事の結果そうなったのであって、それ以前は違いました。関東は江戸~昭和にかけての100年間で大規模な治水工事を行っており、戦国期の地形を現代のMAPで判断すると、判断を間違うことがあります。

 

こちら約1000年前の関東の地図に、関東諸城を当てはめたもの。平安海進と呼ばれる現象によって、関東では大規模な海進現象が起きました。これにより、霞ヶ浦は内海のようになっています。500年後の戦国期は小氷河期(シュペーラー極小期)だったので、海進はこの地図よりは後退しているはずですが、大規模な治水工事が進んだ現代の地形に当てはめるよりは、遥かにイメージが近いといえるでしょう。霞ケ浦付近、千葉と茨木の県境の水量の多さに驚きます。例えば土浦のすぐ南には、今は巨大な大仏があることで有名な牛久がありますが、この地名の由来は、牛が湿地帯に沈んでしまい沼に食われてしまうことから、牛食→牛久と名づけられた、とあります。この辺りは巨大な湿地帯だったのです。

戦国期の関宿城ですが、御覧の通り南に流れる太白(ふとい)川沿いにあり、更に多数の河川を通じて東の霞ケ浦にも繋がっていたことから、関東南東に向けての水運の要であったことが分かります。

 

 謙信は関東における影響力を回復させるため、反北条の姿勢を強く見せる必要がありました。そこで彼が新たに出した結論は、景虎を後継者から外し、代わりに上田顕景を新しい後継者として遇することでした。翌75年正月、顕景は「上杉景勝」と名を改め、「御中城様」という敬称まで与えられたのです。

 そもそも景勝こと顕景は、長尾家の分家である上田長尾家の当主・政景の子で、わずか5歳で謙信の養子となっていました。ただしこれは形式的なもので、引き続き上田家で育てられているようです。しかし64年に実父である政景が舟遊び中に舟が転覆し、野尻池で溺死するという不可解な事件があり(暗殺説あり)、10歳の時に春日山城に引き取られています。ちなみに景虎と結婚したのは彼の妹(或いは姉)なので、2人は義兄弟ということになります。

 上田一族は、上杉家における先手を務める勇猛果敢な衆でした。景勝は一族を率いる長として育てられ、「上杉家を支える将」として将来を嘱望されていたわけですが、ここにきて一軍の将から後継ぎへと、望外の出世をしたわけです。

 しかし謙信は、景虎のことを無下に扱ったわけではありません。こういう場合にありがちな「廃嫡」といった手段は取らず、その後も重用された形跡があるのです。謙信は何を考えていたのでしょう?

 ポイントは景勝に与えられた「中城」称号にあります。ちなみに謙信の称号は「実城」です。「実城」が会長だとしたら、正式な跡継ぎである社長は、本来ならば「屋形」という称号になるはずなのですが、景勝は「御屋形様」とは呼ばれなかったのです。

 つまり謙信の構想はこうです――景虎を後継者から外し、景勝に「中城」称号を与える。これは次世代を後見する意味合いを持つ。つまり景勝はある人物を、次の屋形として育成する責任を持つ――この説だと、景勝は「社長候補」ではなく「会長候補」だった、ということになります。

 では次の屋形、つまり社長候補は誰か?というと、それは景虎の嫡男・道満丸以外にはあり得ません。謙信は自らの後継を「謙信→景勝→道満丸」というラインにするつもりであった、というのが乃至政彦氏の唱える説なのです。

 これは、なかなか説得力がある説です――景勝を跡継ぎにして、反北条の姿勢を明確にする。景虎は身を引くが、我が子が次期当主となるならば、野心を抱く必要もない。景勝にしてみても、道満丸は妹の子なわけで、上田一族としても文句は出ないだろう――謙信はこう考えたわけです。

 ただし景勝が実子を持つことになれば、話は別です。つまり景勝は一生妻帯できない、ということになります。事実、謙信が生きている間は景勝には縁談話は持ち込まれていないわけです。しかし謙信亡き後はどうでしょう?ここが中々ハードルが高そうな問題ですが、前例があるのです。

 それは謙信その人です。謙信は兄・晴景の中継ぎとして当主デビューしているのです。彼は病弱な兄が快癒するか、その嫡男である猿千代が成人した暁には、当主の座を譲るつもりでした。そしてそれこそが、彼が妻帯しなかった最大の理由でもあるわけです。

 兄・晴景も、その子の猿千代も早世してしまったことから、結果的に謙信は上杉家の当主で在り続けましたが、彼自身は当主の座に全く固執していませんでした。事実、27歳の時に家臣間の争いの調停に嫌気がさし、高野山に向けて出奔するも慌てた家臣らに懇願されて渋々戻った、というエピソードは有名です。自分がそうであったので、景勝にも同じような生き方を求め、それが無理なこととは思っていなかったのでしょう。

 しかし当たり前の話ですが、誰しもが彼のような生き方ができるわけではないのです。1578年3月9日、謙信は春日山城の厠で倒れます。脳卒中だったようです。稀代の英雄は意識が戻らないまま、4日後の13日に死亡したのでした。(続く)

 

旅行記~その⑪ 北陸旅行記 上杉氏の居城・春日山城 機能せず短命に終わった「越相同盟」

 1569年6月に結ばれた、上杉・北条両家による「越相同盟」。これに伴い、翌70年に北条三郎は越後入りします。以後、三郎は上杉景虎として春日山城・三の丸に屋敷を構え、謙信の後継者として遇されることになります。

 

ブログ主撮影、春日山城・三の丸。奥にある標識が屋敷跡です。しかし各種文献では「景虎は屋敷を二の丸に構えた」とあります。これは何故かというと、現在とは呼び方が違ったためだと思われます。

 

春日山城の段々畑のようになっている曲輪ですが、現在では下から順に、三の丸・二の丸・本丸と呼ばれています。しかし当時は二の丸・本丸は「本城」と呼ばれ、他と区別されていたようです。現在三の丸とされている部分は、当時は二の丸と呼ばれていたのでしょう。いずれにせよ、中枢である本城の真下に屋敷を構えさせたということは、跡継ぎに相応しい待遇であったとされています。

 

 景虎は妻となった謙信の姪(清心院)とも仲が良かったようで、翌71年には待望の男子・道満丸を授かっています。しかし肝心の上杉・北条間の連携は、夫婦仲のようには、うまくいかなかったのでした。

 北条氏にしてみれば、そもそもこの同盟の主目的は武田氏対策でした。しかし同盟が成った直後、69年9月に信玄は上野国から関東に侵入、北条領を荒らしまくります。

 北条氏は百戦錬磨の信玄に振り回され、本拠・小田原城まで囲まれる始末。帰路についた信玄を三増峠で待ち構え、後ろから氏政本隊が追いかける形で挟撃しようとするもうまくいかず、甲斐への撤退を許してしまいます(三増峠の戦い)。

 

神奈川県HPより、三増峠古戦場説明版。「三増峠の戦い」はどう考えても、北条勢が勝てる戦いでした。信玄はここを突破しなければ甲斐に帰還できませんが、峠には北条家武闘派の氏照・氏邦が陣取り、後ろからは氏政自身が軍を率いて追いかけてきています。信玄は敵地で挟み撃ちになっているわけで、凡庸な武将ならばここで軍を壊滅させていたことでしょう。

しかしながら上記の説明版を見る限り、峠に布陣しているのは武田勢であり、北条勢は逆に峠の麓にいます。位置が逆転しているのは何故でしょう?氏照らは「武田勢と正面から衝突するのを避けて、峠から下りた」というのが通説になっています。あえて道を空けて、逃げるところを後ろから襲い掛かろうとした、というわけです。しかしそもそも氏政本隊がすぐ近くまできているわけで、本隊到着まで峠で粘ればいいだけのはずです。にもかかわらず峠から下りて道を開けるのは納得がいきません。兼ねてから疑問に思っていたところ、面白いブログを見つけました。それによると、武田勢は緒戦で配下の浅利信豊を囮として差し出し(浅利は戦死)、北条勢がこれに襲い掛かった隙をついて、巧みに位置を入れ替えたのではないか、というものです。

信玄は腹心・山県昌景率いる別働隊を、威力偵察のため志田峠から迂回させていましたが、この別動隊が陣が入れ替わったタイミングで北条勢に襲い掛ったのです。昌景のこの高所からの奇襲が決定打となりました。北条勢は手ひどいダメージを受け、信玄は無事に甲斐に軍を戻すことができました。戦術的にも戦略的にも信玄の勝利です。もしこの説が正しいとするならば、信玄の戦さの采配ぶりは芸術的といえるもので、感心します。謙信とはまた違った強さですね。一方、氏政の動きはのろく、戦場に達したのは勝敗が決した後でした。真相はどうあれ、北条勢の敗因はひとえに本隊の機動の悪さでしょう。

 

上記の説を述べているブログ。よくできていて分かりやすいです。

 

 この時、信玄が後顧の憂いなく上野国に侵入できたのも、謙信による牽制が機能しなかったためです。謙信は北条氏と「69年8月15日以前に信濃に出兵する」旨の誓約を交わしていましたが、実現しなかったのでした。

 これには幾つか理由があって、謙信が越中遠征の真っ最中であったこと、また将軍・義昭による武田・上杉間の和平仲介(甲越和与)があったことなどが理由としてあげられますが、北条氏にしてみれば不満を残す出来事でした。

 その後、謙信は北条氏の要請によって上野・下野両国に幾度か出兵を果たします。しかし北条氏との連携は、様々な外的要因によりいずれもうまくいかず、機能したとは言い難い結果に終わっています。

 謙信にしてみても、そもそも同盟の前提条件である領土割譲が成されていないではないか、という不満がありました。北条氏から上野国の領有を認められたといっても、実際にその地に生きる国衆たちにしてみれば、軽々に「はいそうですか」と従うわけにはいきません。情勢がこの先、どう変わるかなぞ分かったものではないのです。

 実際、新田郡を支配していた由良成繁に至っては、形式的には上杉氏に従ったものの、裏では北条氏に「浮沈を共にすべく」という内容の書状を送っています。

 また謙信は上野だけではなく、北武蔵や下野の地も要求していましたが、その辺りの帰属に関しては有耶無耶になっていました。この点も謙信には不満だったようで、70年正月には下野の国衆である佐野昌綱の居城・唐沢山城を攻めています。

 謙信にしてみれば、関東管領である自分に従わない国衆を懲らしめて何が悪い、ということでしょうが、北条氏にしてみれば傘下の国衆のひとり。慌てて仲介に入っています。

 また上野国以外の大名たちにしてみれば、「俺たちは見捨てられた」と感じてしまうのも、無理ならぬことでした。今まで北条氏の関東侵攻に対抗してきた佐竹氏・里見氏は謙信を見限り、武田氏と同盟を組んでいます。これまで味方だったのが、敵に回ってしまったわけです。やはりこの「越相同盟」は、構造的に無理があったのでした。

 実のところこの越相同盟、同盟を主導してきたのは北条氏康なのですが、氏康は70年8月頃より中風により床に就いてしまいます。ある程度の実権が正嫡・氏政に移ったことで、北条氏の外交方針が変わってしまいました。三郎が越後入りしたのが70年4月ですが、それから1年も経たずして氏政は氏康に無断で、武田家との同盟を模索し始めているのです。

 氏政にしてみれば、武田・北条そして上杉という形で、新・三国同盟を結びたかったようです(三和一統)。もしこれが実現していたら、思考実験としてはかなり面白かったのですが、曲がったことが大嫌いな謙信はこの噂を聞いて気分を害したらしく、71年4月に氏康に宛てた書状でその真偽を詰問しています。こうした動きを知らされていない氏康は慌てて否定しますが、翌5月に氏康は死去、その年の12月には新当主の氏政は、武田氏と和平を結んでしまったのでした。

 後からそれを知らされた謙信は激怒、氏政に「手切の一礼」を送りつけます。わずか2年という短さで、越相同盟は破綻してしまったのでした。

 謙信にしてみれば、上杉と北条が手を結ぶことで「東国の静謐と新秩序」を到来させんとする意気込みだったのです。その障害が、隙あらば上野国に進出する武田であり(事実、北条家は上野国どころか、小田原近辺まで信玄に荒らされている)、そのために徳川と同盟し、織田とも連携して対武田包囲網を敷いたのに、全てはぶち壊しになったわけです。

 三郎こと景虎は、越後入りした後は上杉家と北条家との仲を取り持つ「取次」として忙しく働いていました。それなのにこの有様です。同盟は手ひどい形で裏切られ、上杉家の体面は大きく傷つけられました。景虎の上杉家における政治的立場はどう変化したのでしょうか。(続く)

 

旅行記~その⑩ 北陸旅行記 上杉氏の居城・春日山城 上杉家のお家騒動「御館(おたて)の乱」に至るまで

 リアルが忙しく、なかなか更新できなくなってしまいました。いましばらく旅行記が続くので、お付き合いいただければ。話を春日山城に戻します。

 登城ルートを辿っていくと、本城部分に到達します。まずは三の丸です。三の丸→二の丸→本丸と段々畑のような配置になっているんですね。

 

地図上の案内には、三の丸に「上杉三郎景虎屋敷」とありますが、当然建物は残っていません。今回取り上げる「御館の乱」の主人公になります。

 

 歩いてみて思ったのですが、この春日山城、防御施設としては優秀かもしれませんが、何だか粗野というか、洗練された造りになっていないような印象です。上杉氏の城はそんなに多く見ていないのですが、築城センスはそこまで高くなかったのではないでしょうか。

 推察するに、上杉氏は他国に侵略はしても、攻められるパターンは少なかったということが原因のひとつではないかと思います。逆に、上杉氏や武田氏にやたら攻められることの多かった北条氏は、異様に築城技術が発達しており、そのこだわりや美的センスはマニアといってもいいほどです。

 この春日山城も他勢力に攻められたことはほぼなく、実際に戦火に見舞われたことは1回しかありません。春日山城で行われたその戦いこそ、1578年3月の謙信死亡直後に発生した「御館(おたて)の乱」です。今回の記事ではこの「御館の乱」について取り上げようと思います。

 上杉謙信には実子はいませんでした(そもそも正室がいませんでした。同性愛的性向を持っていた、と言われる由縁ですが、実際のところは分かりません)。その代わりに養子が複数いました。全部で4人、畠山義春・山浦国清・上田顕景そして北条三郎です。

 それぞれ他家から人質のような形で謙信の元にやってきた4人ですが、当初後継ぎとして認定されていたのは、北条家からやってきた三郎こと、上杉景虎でした。

 一般的に上杉謙信は、武田信玄との川中島における死闘のイメージが強いですが、彼が真に追い求めたのは関東管領の座です。主目標はあくまで関東であり、主敵は北条氏なのです。謙信は個人的な野望からことに挑んだわけではなく、「幕府による天下静謐」こそが至上である、と信じてこれを行っていた節があります。とてもピュアな人ですね。

 

Wikiより画像転載、上杉謙信公御肖像(上杉神社所蔵)。その名を知らない者はいない越後の義将・上杉謙信室町幕府体制の保持を目指したことや、鎌倉仏教に興味を持たず真言宗を奉じていたことから分かるように、思想的には守旧派に属する人でした。そんな旧体制を体現する彼が、ここまで勢力を伸ばせた理由は何だったのでしょう?ブログ主からは3点あげたいと思います。

まずは前記事で紹介したように、①越後という国の財政が極めて豊かであったこと。苧麻の件は紹介済みですが、もうひとつ、謙信は領内に鉱山を多く抱えていたのです。鶴子銀山や高根金山、上田五十沢銀山などからあがってくる収入は、相当なものがあったようです(有名な佐渡金山は本間氏の領土であり、上杉氏のものではありませんでした。そもそも本格的に稼働し始めるのは江戸期に入ってからです)。

②として、ピュアなまでの理想論を大義として掲げていたこと。謙信の行動原理は、基本的には彼なりに解釈した「義」に基づくものなのですが、ある意味、イデオロギー的な域にまで達していた印象があります。拙ブログの「仏教シリーズ」を読んでいただいた方には分かると思いますが、人はこうした分かりやすい大義に熱狂し、ついていくものなのです。しかし掲げる大義が立派であったとしても、リーダー自身に傑出したところがなければ、誰もついていきません。

その最後のピースである③、その卓抜した軍事的才能こそが、謙信を謙信たらしめた最も重要な資質であるといえるでしょう。とにかく戦闘に強い!これに関しては乃至政彦氏の著作「謙信越山」が参考になります。その攻撃方法は、敵本陣を目指し大将の首を取るという、凄まじいものでした。なので対戦相手は彼との野戦を徹底して嫌ったのです(そりゃそうだ)。特に関東では連戦連勝、野戦では勝てない北条氏は籠城策を取らざるを得ませんでした。戦場における鬼神のような強さが、青臭いまでの理想論を担保した結果、一種の神懸ったカリスマ性が形成されたのでした。

 

 そんなわけで謙信は1560年から8年間、毎年のように関東侵攻を繰り返していました。北条氏は今川・武田両氏と三国同盟を結んでおり、上杉氏と国境を接する武田氏と共に謙信に対抗していたのですが、1568年に情勢が大きく変わります。武田信玄による駿府攻めにより今川家が滅亡、三国同盟が瓦解してしまったのです。以降、北条氏と武田氏は交戦状態に入ります。

 翌69年、北条氏康は外交方針を大きく転換、なんと関東管領の座と上野国の大部分を謙信に渡すという条件で、上杉家と越相同盟を結んだのです。更に北条家は謙信の元に、氏康7男・北条三郎を養子として送り込みました。

 謙信は人質というよりも、本気で己の後継者にしようと三郎を迎え入れたようです。ここが謙信らしいところなのですが、「関東管領・上杉家の次代当主は、関東の実質的支配者である、北条家出身の三郎にすることが筋だ」と考えていたらしく、これにより東国を静謐に導けると本気で思っていたようです。

 ちなみにこの三郎、「上杉年譜」や「北条軍談」などの各種軍記物に、「この人は大変な美男子で、当時の人々は彼の美しさを歌にして歌ったほど」とした旨の記述があります。また「彼と一夜契った人が、別離を悲しんだ」という記述もあることから、三郎は衆道の嗜みもあった、と言われる所以となっています。

 しかし当時でいう「一夜の契り」には、「一晩中語り合った」という意味もあったそうで、必ずしもそうした関係を意味するわけではないそうです。ただそうした可能性はあったかもしれず、これまた同じような性癖を持っていたかもしれない謙信が(実際に手を出したかどうかは別として)美男子である三郎のことを好ましく思った、ということはあったかもしれません。

 1570年、三郎は越後入りし謙信の姪と祝言をあげ、上杉景虎と名乗ります。景虎は三の丸に屋敷を与えられ、謙信のお膝元で暮らしはじめるのでした。

 長くなってしまいました。次回に続きます!(続く)

 

旅行記~その⑨ 北陸旅行記 上杉氏の居城・春日山城と苧麻(下)

 前記事で少し触れましたが、謙信は1559年に上洛した際、皇室・公家・幕府要人に特産品である「越布」を惜しげもなく配りまくっています。商品価値を高めるためのプロモーションを兼ねていたという説もあり、越布のいい宣伝になったものと思われます。

 それだけ商品の価値が高かったということでもありますが、そもそもこの「越布」、なにゆえ高級品として遇されたのでしょうか?

 苧麻布は性質上、染色に向いていない素材でした。絹布と比べるともちろん、のちに登場する綿布と比べても肌触りがゴワゴワしています。つまり繊維が固いということなので、染料が浸透しづらいのです。またこの時代の染料は草木染めがメインだったため濃い色が出せず、すぐに褪せてしまうという欠点がありました。

 鮮やかな色を出すためには、素材が白ければ白いほどいいわけですが、青苧から織りあがった苧麻布は、ベージュっぽい色だったようです(それでも他の麻布――藤布、葛布、楮布などに比べると、十分白いのですが)。そうなると必然的に「布を漂白する」ということになります。

 古くから知られていた布の漂白方法は、2つあります。まずは灰汁を混ぜた釜で煮る、という方法。繊維には様々な着色不純物(色素・窒素化合物・樹脂・フェノール類・ヘミセルロースなど)がこびりついており、これらを灰汁のアルカリ性によって煮汁に溶出させ、除去するという仕組みです。

 もうひとつは日光をあてて漂白する方法です。皆さん経験があると思いますが、洗濯物を外に干すことを繰り返していると、徐々に服の色が褪せていきます。これは紫外線が着色不純物である有機化合物の分子結合を切断・分解することで、漂白効果が得られるからです。

 上記2種類の漂白方法は近世の始め頃、更に進化します。まずは灰汁で煮て漂白する方法。これを進化させたのは、清須美源四郎という徳川家に仕える武士でした。1582年の天目山の戦いにも参加したと伝えられている彼は、直後に武士を廃業し、奈良にてこれまでの灰汁を使用した漂白方法に改良を加えます。試行錯誤のうえ、彼が確立した方法が「奈良晒」です。

 基本的に「灰汁で煮る」という手法自体はこれまでと変わりないのですが、これを更に強化させたものといえるでしょう。灰汁で釜焚きし、臼で衝き、天日で干す、という工程を何回も繰り返すのです。アルカリ性の煮汁で汚れを溶解させつつ、力技で繊維に付着している不純物を取り除くというもので、要するに洗濯を荒くしたようなイメージでしょうか。

 副作用として繊維にダメージが加わるので、布の持つコシが弱くなりますが、逆に肌への辺りが柔らかくなるので、一石二鳥の効果がありました(ただし弱い繊維だと切れてしまうので、丈夫な苧糸を使って織った布を使用したようです)。

 もうひとつ、紫外線を使用する漂白方法は「雪晒」という手法に進化しました――しかも極めておしゃれな方法に。冬の好天日に、織りあがった苧麻布を雪の上に並べて置きます。すると上から降り注ぐ紫外線で漂白されるのみならず、雪が蒸発する際に生じるイオン化現象によって、下からも漂白されるという仕組みです。この雪晒は冬の越後の名物詩であったそうです。

 

江戸期に書かれた越後のガイドブック「北越雪譜」より「雪晒」の様子。「雪中に糸をなし、雪中に織り、雪水に洒ぎ、雪上に曝す。雪ありて縮(ちぢみ)あり。されば越後縮は雪と人と気力相半して名産の名あり」とあります。

 

「雪晒」は現代でも行われていますが、暖冬により積雪量が減り、年々難しくなっているそうです。それにしても、なんという美しさ。風流ですね。このイオン化現象ですが、汚れた布を漂白することもできるそうで、これを「越後上布の里帰り」と呼ぶそうです。これまた、おしゃれな呼び名です。

 

 「越布」の別名を「白布」といいます。つまり謙信が配った越布は、この「雪晒」によって漂白された苧麻布だったのです!・・・と断言できれば納まりがいいのですが、どうもこの「雪晒」、いつから始まったのか?を示す明確な史料がないのです。

 ちなみに「奈良晒」は天文年間後半、おそらく1582年以降に発明されたことは分かっています。もちろん「雪晒」との技術的な相関関係はありませんが、こうした技術というものは、市場の需要とリンクしてスタートするものです。市場が白さを強く求め始めるタイミングがその辺りだとするならば、そうした需要に応じて、雪晒も同じような時期に確立されたような気がします。

 となると戦国期の「越布」の漂白方法は、おそらくはまだ一般的な手法に過ぎなかったものと考えられます。その人気の秘密は質というよりも、一定の量で生産できたことにあったのではないでしょうか。

 

室町期の「職人尽歌合」より、左が苧売りで、右が白布(苧麻布)売りです。後から着色が成されているので、苧麻布の色を100%再現しているわけではありませんが、ただ灰汁で煮て日光に晒すだけでも、それなりに白くできたようです。

 

 しかし戦国晩期、日本において衣料革命とでもいう事態が発生します。綿花の国産化がようやく成功したのです。

 意外なことに、日本では綿花栽培はこれまで行われていませんでした。一番古い記録として平安期の799年に「三河に漂着した崑崙人(インド人か)が綿の種を持っていたので、それを諸国に植えさせた」というものがありますが、うまく行かず定着しなかったのです。

 そこで日本人は、木綿を綿布の形で中国や朝鮮から購入していました。中世日本人の木綿に対する渇望は相当なものだったようで、李氏朝鮮の国庫にあった綿布が日本への輸出で払底した、という記録が残っています。

 

李氏朝鮮との綿布貿易、そして「三浦の乱」についての記事はこちらを参照。

 

 しかし日本各地で綿花栽培が爆発的に広がったことで、江戸の庶民はようやく木綿、要するにコットンの服を着ることができるようになったのです。なにしろ苧麻は繊維が固いので、どんなに工夫しても衣料としての特性では木綿には敵いません。綿の価格が下がっていくにつれて、庶民の服は木綿製に置き換わっていったのでした。

 木綿に押されて苧麻の生産量が落ちたかというとそうでもなく、商品経済の発達とともに日本のGNPも増大したので、苧麻の商品としての需要も高まっていったようです。「固い」というその特性ゆえに、苧麻は高級品として生き残りました。例えば武士が公式行事の際に着用する裃です。形が崩れにくいので、儀式に使用する衣料の原材料としては最適だったわけです。

 上杉家は関ケ原の戦いのち越後国を取り上げられますが、苧麻の商品としての価値を深く理解していたので、栽培ノウハウを転封先の米沢に持っていきます。そして江戸期には、米沢は苧麻の主要生産地になるのです。現在も唯一の苧麻の商用産地として福島県の昭和村が残っているのは、こうした流れからです。

 一方、上杉氏のいなくなった越後では、「越布」は「小千谷縮越後上布」として進化しています。これは緯糸(たていと)に強く撚りをかける方法で、これによって生地が縮み、肌にべったり貼りつかなくなるのです。肌触りがいいとのことで江戸期に高級衣料として大ヒット、現在も重要無形文化財として登録されています。なおこの「小千谷縮」、原材料の苧麻は上記の昭和村のものを使用しているとのことです。

 このように苧麻は古代から近世にかけて、上杉家の財政の一翼を支えた商品で在り続けたのでした。(続く)

 

<この記事の参考文献>

・「苧麻・絹・木綿の社会史」/永原慶二 著/吉川弘文館

・「別冊太陽 日本の自然布」/平凡社