根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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2023-01-01から1年間の記事一覧

戦国時代の京都について~その① 都市計画に基づいて設計されたが、その通りには発展しなかった平安京

新シリーズである――実はブログを開設した時からこの記事は用意していたのだが、根来衆関連のシリーズがひと段落ついたので、ようやく紹介できる運びとなった。「京の印地打ち」という小説を書く際に、戦国時代の京について色々調べたのだが、このシリーズで…

日本中世の構造と戦国大名たち~その⑫ 織田家の場合・信長の革新性とその中央集権度

シリーズの最後を飾るのは、みんな大好き織田信長である。彼の革新性については古くから定評があるのだが、最近ではそれを否定する方向で研究が進んでいるようだ。確かにこれまでの信長像は、「中世の破壊者」だとか「革命的な天才児」だとか、些か持ち上げ…

日本中世の構造と戦国大名たち~その⑪ 北条家の場合・「内政マニア」北条家

さてこの記事では、北条家のまとめとして、その「家風」を見てみよう。 初代・宗瑞から三代目の氏康治世の前半までは、北条家は関東においては新興勢力であったから、やむなく博打を打つこともあった。例えば二代・氏綱の時の「国府台合戦」や、三代・氏康の…

日本中世の構造と戦国大名たち~その⑩ 北条家の場合・その堅実かつ緻密な領域支配

さて氏綱であるが、彼は有名な「虎の印判状」を制定している。この虎の印判状がなければ、郡代・代官は支配下の郷村に公事・夫役の徴発などの命令を下すことができなかった。これまでローカル勢力に一任されていたこうした行為が、以後は伊勢氏の同意なしに…

日本中世の構造と戦国大名たち~その⑨ 北条家の場合・「他国の逆徒」ルサンチマンからの脱却

ランキング参加中日本の歴史 伊勢宗瑞こと、北条早雲の国盗り物語があまりに面白くて、当初の予定よりも記事が長くなってしまった。著者の悪い癖である。このままだと北条家の歴史を追うだけで10記事くらいになってしまうので、細かいところは飛ばしてどん…

日本中世の構造と戦国大名たち~その⑧ 北条家の場合・京から来た「他国の逆徒」伊勢新九郎盛時(下)

堀越公方の座を簒奪した茶々丸だが、彼はクーデターと同時に元服し、実名を名乗ったものと思われている。残念ながらその名が伝わっていないので、後世の人間からは常に幼名で記されてしまう運命にある茶々丸だが、関東管領・山内上杉氏と連携する道を取る。…

日本中世の構造と戦国大名たち~その⑦ 北条家の場合・京から来た「他国の逆徒」伊勢新九郎盛時(上)

京から遠く広大な関東地方は、室町幕府より「鎌倉公方・足利家」、そしてそれを補佐する「関東管領・上杉家」によって統治を委任されていた。そういう意味では関東は「ミニ畿内」であったといえる。 しかし「応仁の乱」に先駆けて、1455年に関東では「享…

日本中世の構造と戦国大名たち~その⑥ 毛利氏の場合(下)・その緩やかな支配構造

ローカルな独立勢力である、いわゆる「国衆」たち。その国にある守護や守護代などの強大な存在、もしくは国衆の中から一頭抜きんでた存在などが他を圧しはじめると、その大名の本拠地周辺の国衆たちは、次第にその大名の譜代家臣化してくる。 毛利氏でいうと…

日本中世の構造と戦国大名たち~その⑤ 毛利氏の場合(上)・国人から戦国大名へ 一代で成りあがった男

滅ぶときは、あっけなかった尼子氏。ではその尼子氏を滅ぼした、毛利氏の組織はどのような体制だったのだろうか。 いち国人から、一代で成りあがった下剋上の典型ともいえる毛利元就。そういう意味では、因習やしがらみといったものに一切縛られなかった彼は…

日本中世の構造と戦国大名たち~その④ 尼子氏の場合(下)・進まなかった中央集権化

中央集権化を進めた尼子晴久。彼の改革はある程度は進んだのだが、戦国大名としての尼子家は、次の義久の代に一度滅んでしまうのだ。尼子家が滅んだ原因はどこにあったのだろうか? まず晴久がそこまで長生きできなかったのが、大きかった。晴久は1561年…

日本中世の構造と戦国大名たち~その③ 尼子氏の場合(上)・構造改革に悪戦苦闘した晴久

前記事で紹介したように、「加地子得分」を代表とする錯綜した権利関係を元に構成された、これまた錯綜した「リゾーム構造」を持つ日本の中世社会。こうした社会の中から、富と武力の蓄積に成功し、権力を持つ者が各地で台頭してくる。後に戦国大名となる者…

日本中世の構造と戦国大名たち~その② 中世社会のリゾーム構造を支えた「加地子得分」とは

古代日本の国家体制は、中央集権的な性格を持っていた。それが崩れ始め、地方分権の時代が始まる。それがリゾーム構造を有する、日本の中世なのである。それにしても何故、日本の中世はこんなにも複雑な社会構造になってしまったのだろうか。 これには複合的…

日本中世の構造と戦国大名たち~その① 中世的リゾーム構造 vs 近世的ツリー構造

※このシリーズを読む前に、下記のシリーズに目を通すのをお勧めします。 なぜ根来寺は秀吉に負けたのだろうか?何とかして、体制を維持したまま生き延びる道はなかったのだろうか?このシリーズ番外編では、日本中世社会が持つ、独特の社会構造について考察…

秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑧ 紀州征伐後、それぞれのその後

根来寺は炎に焼き尽くされた。太田城も陥落し、雑賀惣国も滅亡した。 根来寺の近くには粉河寺がある。根来ほど規模は大きくなかったが、同じように武装した僧兵たちによって運営されていた寺社勢力のひとつであった。この粉河寺も、根来寺が炎上したのとほぼ…

秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑦ 太田城陥落と中世の終わり

1585年4月5日前後に堤防が完成、早速紀ノ川の支流・宮井川(大門川上流をこう呼ぶ)の水を引き入れ始める。秀吉側にとって都合のいいことに、堤完成後にちょうど雨が降り始めたこともあって、あっという間に一面の満水となったらしい。その様は大海に…

秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑥ 太田城水攻め堤防

さてこの太田城だが、現在の和歌山駅のすぐ西側にあった。城内と推定される場所からは、日用品として使われた土器などが出土しており、生活の場であったと考えられている。古くからある環濠集落から、城に発展した城市だったのだろう。瓦なども出土している…

秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑤ 自壊する惣国

根来寺を侵略した同じ日、1585年3月23日には秀吉軍の先手が雑賀にも入っている。翌24日には、秀吉本隊も紀ノ川の右岸を進んで、土橋氏の本拠地である雑賀庄の粟村を占領した。居館を守るべき雑賀の者たちは、前日の夜にことごとく逃げ去ってしまっ…

秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その④ 根来炎上

近木川防衛ラインを、あっけなく突破されてしまった紀泉連合。そのまま南に軍を進めた秀吉軍は、23日には山を超えて根来寺に入った。風吹峠と桃坂峠、2つの峠を同時に越えて北から境内に侵入したと思われる。 この秀吉による根来寺侵攻の詳細を、隣の雑賀…

秀吉の紀州侵攻と根来滅亡〜その③ 紀泉連合の敗北と、防衛ラインの崩壊

千石堀城攻めとほぼ同じタイミング、もしくはそれよりやや早く、近木川ライン中央に位置する積繕寺城(しゃくぜんじじょう)も秀吉軍の攻撃にさらされている。 籠城兵力はよく分かっていないが、戦略上重要なこの城に兵力を集中させたのは間違いないところだ…