2023-01-01から1年間の記事一覧
シリーズの途中に流れをぶった切る形になりますが・・・とある珍しいイベントを見学してきたので、そのご紹介を。 長い夏休みを取って、ドイツに行ってまいりました。ドイツでは親類の家に居候、ローカルな生活を楽しみました。フランクフルトから車で1~2…
これまでの記事で言及したように、「非人宿」を管理していたのは「長吏とその配下集団」である。そして畿内にあった、これら宿の総元締めのひとつが「清水坂宿」であった。この清水坂宿に住む配下集団は、「犬神人」とも呼ばれていた。(ただ清水宿にいたこ…
前記事では典型的な「狭義の非人」と称される「宿非人」を取り上げた。では「広義の非人」とは何か。細川涼一氏による「中世非人に関する二、三の論点」という論文がよくまとまっているので、この内容を紹介してみようと思う。 まずは京における非人の数につ…
少し前のシリーズで、河原者を取り上げた。今回取り上げるのは、非人である。そもそも非人、とはなんぞや。これは難題で非人の定義によるのだ。過去の記事で述べた通り「河原者は非人の一種である」と捉える研究者もいるわけだから、本当はこのシリーズを先…
このブログを始めた理由は2つあります。 ひとつは小説を書いた際に、たくさん勉強したわけですが、その全てを小説の中では紹介できず、どこにも表現できなかったことにストレスを感じていたこと。要するに蓄えた知見を、小説以外で発表する場が欲しかったの…
時代を遡れば遡るほど、人々の価値観や行動原理は現代とは異なってくるので、戦国期辺りより前の時代の人々を描くのは難しい――室町や鎌倉、平安期の市井の人々の姿を描いた小説は、ファンタジーを除くと殆どないのがその理由のひとつです。 そしてもうひとつ…
早いもので、ブログを立ち上げてから1年経ちました。1年であげた記事は100を超えているから、3.5日に1回のペースで記事をUPしたことになります。 (質はともかくとして)内容的にはそれなりに重いものにも関わらず、このペースでUPできているの…
これまでの記事で紹介したように、京における河原者の村で最大のものは「天部」であった。天部は四条河原にあり、その名の通り彼らは河原に住んでいたわけであるが、河原に住んでいない河原者もいた。例えば千本河原者、或いは野口河原者とも呼ばれた者たち…
さて、秀次一族の三条河原の処刑について調べていたところ、ネットで気になる画像を見つけた。秀次の一生を漫画化したものらしいのだが、下記がその画像である。 「秀次の生涯」というタイトルの学習漫画だろうか。2コマ目では雨まで降っている。当日は雨で…
次に紹介するのは「天部又次郎」である。庭師の又四郎と違って、これは個人の名前ではない。とある役職に就く河原者が、継承していく名前なのである。またの名を「首斬り又次郎」という。 河原者の仕事のひとつに刑務業務がある。幕府に命じられ、罪人の捕縛…
河原者はどうやって食っていたのか。過去の記事で触れたように、彼らの職域は実に多岐に渡るのだ。藍の染物の他、土木、屠殺、皮はぎ、清掃、刑の執行者など。 必ずしも専業ではなく、複数の業務を掛け持ちしていたようである。ただ職種によって――というより…
四条河原にあった天部であるが、正確に言うと天部と賀茂川は、堤によって仕切られていたようだ。古代末から中世にかけて、賀茂川の西岸沿いには段丘が形成されつつあった。氾濫から身を守るための堤が、時間をかけて築かれていったのだろう。 この堤は後年、…
さて拙著に出てくる、天部である。てんぶ、或いはあまへ、とも読む。天分村、また余部とも余部屋敷ともいう。天部は河原者たちが住まう村であった。この時代、天部は四条河原にあった堤の内側にあった。(秀吉の京都改造で、のち三条の鴨川加茂川東岸に移転…
職能としての中世賤民の発生は、平安後期10~11世紀辺りである。だが「畏れ」よりも「汚穢」という面が強まってくるのは、14世紀辺りからのようだ。その少し前から、「職能の専門化」から「専門業者化」への動きが始まっている。商工民たちの源流を遡…
さてここまでは前段であって、今回からようやく本題に入る。 河原者や非人といった中世被差別民であるが、彼らを社会的にどう位置付けるか、という研究は昔から続けられてきた。ざっとであるが、研究史の変遷を辿ってみよう。 戦前から戦後にかけては、「被…
イザナギ・イザナミの黄泉平坂(よもつひらさか)の神話からも分かるように、神道における「死の穢れ」を強く忌む風習は、古くからあったものだ。古代日本においては「陵戸」という墓守を職とする人たちがいたが、律令制下においては彼らは賤民の一種とされ…
平安末期の1143年、9月23日。おりしも疫病が発生し、みやこのそこら中に行き倒れた死体が放置されていたときのことである。 蔵人の高階業隆が、死体があった陽明門の前を通って宮中に参内した。死体を跨いだわけではなく、その近くを通っただけ(そも…
新シリーズである。拙著1巻の主人公・次郎は印地打ちであり、その師匠として「鹿丸」という印地の達人を出した。彼は山水河原者である。 「河原者」とは何か。端的に言うと、彼らは河原に住み、賤視されていた被差別民である。なぜ彼らは賤民視されていたの…
この「天文法華の乱」を以てして「日本における宗教戦争のひとつ」と論じる人いるが、どうだろうか。宗教戦争の定義にもよるが、確かにそういう面もあるだろう。開戦に至った契機は、教義上の争いである「松本問答」なのだから。 だが教義上の違いが問題にな…
そして運命の日、1536年7月23日。その夜、みやこの人々は東にある叡山を遠望し、恐怖におののいたことだろう。山中に無数の篝火が焚かれ、蠢いている。そしてその火は、列となって一斉に山を下りてくるではないか。みやこを襲わんと、松明を手に下山…
山科本願寺を壊滅させ、京のご政道を我が物とした京の町衆たち。これが実現したのが1532年のことである。ここから約2年間は町衆、というか法華宗徒たちの我が世の春が始まる。先の記事で見た通り、「衆会の衆」たちによる「洛中洛外のご政道」が行われ…
洛中洛外における検断権、地子銭などの納税拒否、そして遂には京周辺の村落の代官請の要求など、未だかつてないほど高まった、町衆らによる京の自治権。だが注意しておきたいのは、日蓮宗(法華宗)を核としたこの「衆会の衆」を、地縁を元とした「京の町衆…
1年余り続いた、一向一揆との苦しい戦い。しかし1533年6月、一向一揆との和議が成り、ようやく京に平和が訪れた。将軍・足利義晴と新管領・細川晴元は、更にそれから1年たった1534年6月になって、ようやく入洛を果たしている。将軍・義晴は南禅…
本願寺・第10世宗主である証如はこの時17歳で、教団の実権はその祖父であり後見人でもあった、蓮淳が握っていた。細川晴元と組んで、一揆の蜂起を決定したのもこの蓮淳であったが、今や暴走する一揆をなんとか制御下に置こうと、悪戦苦闘する始末。しか…
先の記事で触れた通り、京の自治権がピークに達したのは、1530年代である。この頃何があったかというと、畿内においては一向宗が暴れまわっていた。なぜ一向一揆が暴れまわっていたかというと、幕府の混迷のせいなのである。 応仁の乱以降、幕府は弱体化…
このように外敵には結束して、事に当たった町衆だが、町や町組同士でも争うことがあったようだ。時期は違うがやはり同じ日記に、二条室町と押小路三条坊門との間で、何百人もが参加した合戦に近い大喧嘩があり、双方100人ほどの怪我人が出たことが記され…
戦国期における京の、最も基本的な共同体の単位は「町(ちょう)」である。これは「同じ街筋の人々」からなる組織なのだが、構成が独特なのだ。「街路を挟んだ向かい側」に住む人々と、結成した共同体なのである。 京は他の町と違って、方形に区切られた区画…
そもそも堺は、遣明船貿易の拠点として細川氏が支配していた町であった。16世紀半ばには細川氏が没落し、三好氏がその後を取って代わる。だから堺には、三好氏の代官も滞在していたのである。だが、細川氏のように堺を直轄的な支配下におくことはしなかっ…
古代から中世にかけてのトレンドは、中央集権から地方分権へ、というものだ。絶対的な権力者がいない、ということは逆に言えば、力のある者が自分の好き勝手にできる、ということでもある。事実、中世は「自力救済」、つまり「自分の身は、自分で守る」とい…
戦国期に入ると、京都はどう変わったのだろうか。 戦国の京は、時期によって大きく姿を変えている。「応仁の乱」以前と以後とでも大きく変わるのだが、一番変わったのは、戦国末期の1591年に秀吉が10万人を動員して行ったといわれている、京の大改造だ…